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”普通唱導集に記載”から”大将棋は普及”とは直ちには言えないのかも(長さん)

一般的には普通唱導集に、大将棋のゲームの進行を記述する内容が唄われて
いる事からただちに、”少なくともその時代の大将棋は、ある程度指されて
いた事を示している”と考えるのが、今の所、定説になっているようである。
が、もしかしてそうではなく、普通唱導集の編者、良季(等)の居た、寺で
だけ、指されていたと言う事は、本当に無いのだろうか。
最近、そう疑わせる一つの情報を、web上で私は見つけた。それによると、

”良季は京都東山の観勝寺山内の、池ノ坊不断光院の住持。真言密教僧”

と、言うものである。なぜこれが普通唱導集の大将棋が、指した者が社会全
体から少数ではないかと、疑わせるのかといえば、

京都東山の観勝寺は、恐らく大将棋を指したことを日記に書いたので有名な、
藤原頼長および、崇徳上皇等、保元の乱の敗北者の怨霊を、鎮めるための寺

だからである。だから、ここでは藤原頼長の子孫と称する、藤原氏の末裔、
藤氏一揆の武家や、京都の貴族が、平安時代末より伝わると称する、大将棋
の道具を観勝寺へ予め寄進しており、更に法事の際、

寺で、藤原頼長を偲んで、実際には鎌倉中~後期版の大将棋を指すような、
イベントをしていたとしてもおかしくない

と私は思うのである。この事から、

藤原頼長等にゆかりの神社や寺で、祭事としてしか、鎌倉後期のこの時代に
は、大将棋は指される事が、ほぼ無かった

と仮定しても、さほどの無理は無いように私は思う。少なくとも、

”大将棋がゲームとして面白いから、鎌倉時代の中~後期に指されている”
という説が有るとして、それをはっきりと証明できる史料は、まだ見つかっ
て、い無いと見るべき

なのでは、ないだろうか。恐らく大将棋は、西暦1400年頃以降に流行った、
中将棋と異なり、ほぼ儀式的な意味でしか、終始指される事が、無かったの
ではないかと、私は疑うのである。
 なお、京都東山の観勝寺の上のような由緒から見て、鎌倉時代の後期に
儀式として、この寺で指された、”大将棋”は、鎌倉時代中~後期に幾つか、
変種が仮に有ったとしても、平安時代末期、保元の乱の頃の藤原頼長時代の
大将棋に、比較的近いものが、選択された可能性が、高いとも言えるのでは
ないかとも、私は思う。つまり、観勝寺の僧の良季らが、普通唱導集で唄っ
ている”大将棋”は、恐らく藤原頼長の時代に近い、平安大将棋に比較的似
ているゲームであったろう。つまり、京都東山の観勝寺で、西暦1300年頃、
しばしば指される大将棋は、大将棋として複数の将棋種が、仮に鎌倉時代中~
後期に有ったとしても、二中歴記載の大将棋の升目数である、

13×13升目の形の大将棋である可能性が、より高くなる傾向が有る

と言う事も、良季の素性から、同時に意味しているのではないかと、私は思
うのである。(2017/09/03)

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