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四条畷で”石将駒”が出土した可能性は少ない(長さん)

webで”出土駒”とgoogle検索すると、現在でも、大阪電気通信大学
高見友幸研究室の摩訶大将棋のブログのページ”速報石将駒が出土した可能性”
という記事が、トップで紹介される事がある。しかしながら、以下はあくまで、
このブログの見解であるが、四条畷市の上清滝遺跡の複数の出土駒が、互いに
関連するものであると仮定したとすれば、もしそうだとすると、その中に石将
が含まれている可能性は、少ないと現時点では結論できると考える。理由は、

それらの西暦1184年頃の出土駒の中に、明らかに”王将”が含まれるため、
平安大将棋等、駒数多数将棋の類の駒だとは、考えにくいため

である。すなわち、四条畷市上清滝遺跡出土駒は皆、

このブログでの解釈によれば、後三条天皇時代に、大江匡房によって
整備された結果、西暦1080年ころに成立したとみられる、玉駒が王将の
9×9升目36枚制標準平安小将棋の駒ではないかと推定される

のである。

さて、高見友幸研究室のブログでは、上記の王将を石将と、解釈している。

私は、

石将ではなくて、王将だ

と思う。第1番目の文字が”石”に見えるのは、私に言わせると、単なる
汚れに過ぎない、左払いの一画に見える部分が、現物にあるのを根拠にして
いるだけだと思う。それに対して、

”王”の字の画は、高見研究室ブログでは、逆に汚れと見て”石”に見よう
としていると、私には取れるのだが、下水平2画、縦直線棒共に全て有る。

それどころか、最後の画の下横棒が、いっけん短く見えるのだが、写真を良く
見ると、薄く、最後の”留め”の部分も写っている。よって、第1文字は

”王”と解釈するのが、”石”より、明らかに自然である

と、私は考える。
 従ってたとえば、「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」に載っている、
四条畷市上清滝遺跡出土駒3枚については、比較的はっきりと、王将と読める
王将駒のほかの2枚は、字が明らかな歩兵駒と、字が消えてしまって、実際
には判読が困難であるが、平安小将棋に含まれる駒名が、元々書いてあった
駒である可能性が高いと言うのが、このブログでの見解である。
 西暦1184年と言えば、平安時代の最末期で、藤原摂関が完全に没落
した頃であり、平安京に至近の四条畷の集落では、8×8升目32枚制の
原始平安小将棋や、13×13升目68枚制の平安大将棋は、場所がら振る
わなかったのではないかと、私は思う。また、

そもそも王将は、もともと9×9升目36枚制標準平安小将棋の駒であろう

とするのが、このブログの見解である。よって、まだ明確に、王将と玉将
の意味の違いが、誰にも明らかであった、平安時代の最末期に、王将が出土
しているのであれば、残りも、9×9升目36枚制標準平安小将棋の駒だけ
の可能性が、そうとうに高いのでは、あるまいかと私は考える。
 以上の件は、続報で当否が確定した等の話を余り聞かない。が、アクセス
は続いているようなので、このあたりで僭越ながら、私見を述べさせて、い
ただいた。現在、高見研究室の”摩訶大将棋のブログ”は、先だっての、
北海道札幌市での、啓蒙普及活動の連絡以来、しばらく停止しているようで
ある。そろそろ、活動の紹介が、再開されないのであろうかと、私は期待し
ているのであるが、どうであろうか。(2017/09/11)

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