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大宰府条坊遺跡「桂馬、香車、歩兵木簡」は、本当に1090年代の遺物か(長さん)

成書、「将棋の歴史」増川宏一著(2013年)に、表題の大宰府条坊遺跡
「桂馬、香車、歩兵木簡」に対する言及がある。それによると、この木簡は、
”兵庫県深田遺跡の「歩兵駒」と、同時代の、西暦1094年~1096年の
間の頃”と読める。では、大宰府の木簡に関して、上記年代で良いとする根
拠となる事柄は、はたしてあるのだろうか。実際には発掘者の原論文を、
現時点で私は当たって居無い。ので、私は今時点では、

興福寺出土駒より、大宰府「桂馬、香車、歩兵木簡」が新しいというのは、
本当にそうだろうか、と主観的に疑っているだけ

である。とりあえず今回は、論文を読む前に出土木簡を、自分でよく見て、
考えてみようと思ったので、以下暫定結果を報告しておく。結論を書くと、

裏面に、西暦1036年と書いてある可能性が、微かに在る、

と私は思う。なお、この木簡で、①桂馬、②香車、③歩兵以外で、はっきり
読める字は、その面の最下段の”④一”と、裏面上段の”⑤相違”、以上、
5つだけだと私は考える。よって、普通に読んだら、

年代に関する情報は、有るというのが厳しい

状態である。何せ、興福寺出土駒と違い、年代の確定に繋がる別の木簡は、
無く、これ一枚だけらしいからである。では、何が根拠なのかだが、裏面の
”⑤相違”の下に、圦とも読める、不明の文字があるのだが、

その下の字が”仇”にも読めるのである。

ただし、”⑤相違”の、ふたつ下の字を”仇”と読んでは、年号にならない。

ばらして、ツクリが”九”であるとし、更にその下の字の、ツクリに見える
部分を”生”のようにも見えるが、”年”と、むりやり読んでみる

のである。なおそのとき、元号は、木簡で右に切れた部分に書いてあり、この
木簡自体が、割かれていて、元号部分が消失していると、考える事にして見る。
すると、元号が不明だが、九年と書かれている事になり、11世紀で、九年が
ある元号を探すと、

長元九年だけが、西暦1036年になる事が判る。

 つまり、この時代は平安末期の政情不安な時代なので、改元が、比較的頻繁
なので、9年のある元号は一つだけなのである。
 なお、次に9年のある元号は、後鳥羽上皇の鎌倉時代初期、西暦1198年
の”建久”まで無いように、私は理解している。10世紀という事も無いと
すれば、以上の木簡観察が、万が一正しいとすると、「桂馬、香車、歩兵木簡」
の字は、興福寺出土駒より、実は22年位古く、1036年頃に書かれていた
ことになる。

何れにしても以降、「桂馬、香車、歩兵木簡」年代が、地理的に相当に離れた、
兵庫県深田遺跡の「歩兵駒」関連という説が、仮に有るとすれば、それに関して
は、不自然なため個人的には、信憑性に関して少し注意をしたい

と、木簡の写真を良く見て、今回私は思った所である。(2017/10/10)

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