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9升目制平安小将棋。発生~400年二段目に駒が無かったのは何故(長さん)

このブログの見解によれば、9×9升目36枚制標準平安小将棋(持ち駒無し)
は、西暦1080年頃、大江匡房等の進言により、朝廷で発生したものであり、
西暦1480年頃に、成り龍王飛車および、成り龍馬角行が取り入れられて、
40枚制(当時は持ち駒有りのタイプ)になるまで、長らく二段目には、走り
駒等を加えない状態で、指されたと考えている。他方前回述べたように、駒の
一部を落とすなり、二段目に、平安大将棋のように奔王でも横行を加えるなり
すれば、この将棋が、持ち駒ルールの有り無しに、ほぼ関係なく存在する、
後手真似駒組による、仕掛け直前行き詰まり問題という、ゲームの難点が、
簡単に回避できるはずなのであった。従って、西暦1080年~西暦1480年
の400年間、この小将棋には、2段目に走り駒を加えるという試みが、絶え
間なく行われたと考えたほうが、自然だと私には思われる。ところが、実際
にはその間、この標準タイプの平安小将棋が、二段目に駒を加える方向で、
進化していたと見られる兆候は、出土駒からも、異制庭訓往来等の古文書から
も得られない。考えみれば、これは不思議であり、いったい、何故なのであろう
かと考えたくなる。
以上が、今回の議題である。そこで、まずは先に回答を書くと、

二段目に駒を加える試みは、逐次行われたが、朝廷によって排除される力が
働いて、導入が永続しなかった

と、私は考える。つまり、

朝廷としては、西暦1080年の失敗を認めたくないので、平安小将棋が進化
する動きを、少なくとも古代から中世前期には、排除するような動きを絶えず
行っていた

と、私は見る。つまり、たとえば1350年ころ、不成り飛車角を導入した
小将棋を指しても、京都の北朝朝廷では無視された、という事なのであろう。
盤駒という道具の整備が、室町将軍家を除けば、天皇の身の回りで最も普及し
ていたために、改善された小将棋は、指しても見栄えで見劣りして、長い寿命
を保てなかったのかもしれない。
 そして、後奈良天皇が、酔象を削除して、40枚制の日本将棋を標準化すると
いう詔を出したときにさえ、実際には、飛車角が入った将棋を、没落したとは
いえ、天皇家で、新たに標準化して良いのかどうかという議論が、内々には、
恐らく有ったのではあるまいか。
 しかし、戦国時代1530年頃のケースは、飛車にしても、角行にしても、
中将棋から、それを取り入れる事になった。その際中将棋の

飛車角は、成りが龍王、龍馬となっており”日本国が奥底に於いて、龍に守ら
れている”という、思想と親和性が良い

という理由等で、当時の天皇や貴族も、それを受け入れたのではないだろうか。
そして、詔には露に、飛車角の問題に言及しない形で、”酔象を落とした”
日本将棋を推薦するように、表現されたのではないだろうか。なお、以上の論
は今の所、想像の域を脱せず、証拠となる史料が乏しい。
 ひょっとすると、京都の内離跡を発掘すると、何か証拠が出てくるのかもしれ
ない。が、そのような発掘は今の所無理だろう。しかし、天皇家が将棋の進化
に関与しているという証拠が挙がれば、一般に南詔国とか、大理国とか、外国
の王室で、専用の将棋種があるという根拠にもなり、今後その証拠の片鱗でも
見つかれば、遊戯史にとって、大きな影響を及ぼすことが、期待できるだろう。
(2017/10/24)

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