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摩訶大大将棋は、日本将棋の飛車角配列を連想させる将棋(長さん)

前に、摩訶大大将棋の、金剛・力士配列が、中央に固まっていると
いう点を除いて、日本将棋の飛車と角行の配列同様、中央のライン
を線対称として、右に縦横動き、左に斜め動きの駒を配列すると
いう点で、共通である事を述べた。その後、摩訶大大将棋の、この
性質に関して、かなり大事な点の書き忘れがあるのに、気がついた。

鉤行と摩羯が、飛車角配列になっている

という点である。なお私は、摩訶大大将棋自体は、たぶん日本将棋
より前に成立、水無瀬兼成、将棋纂図部類抄の”摩訶大大将棋口伝”
は、日本将棋の成立より後だと考えている。しかし、摩訶大大将棋
が成立したときに、既に摩羯のルールが角行の二回動きと、表現は、
たぶんされていただろうと考える。成立初期にも、こう表現されて、

摩訶大大将棋には、日本将棋型飛車・角配列が有るも同然

なのに、当の小将棋への飛車・角の日本将棋型の導入が、まだ行わ
れていなかったというのも、不思議ではある。そこで今述べた難点
を避けるのに”中央列近くだけだ”と強弁するのとは、別の方法を
考えるとすれば、たとえば摩羯のルールが、平安大将棋の飛龍の、
二回動きと、表現されていた可能性も、無いかと考えてみたいとこ
ろだ。が、それはだめである。というのも

摩訶大大将棋にも飛龍はあり、それは既に、猛牛と対になるような
配列になっている

からである。猛牛は2升目動き駒であったろうから、それに対にな
るように、飛龍がイメージされているとすれば、既に飛龍も、2升
目動きへ、変わっていたとはずであって、角行動きの走り駒ではな
い。以上の事から摩訶大大将棋では、金剛力士より、鉤行摩羯配列
の方が、より注目すべきポイントである事が判る。
 さてその他の将棋種と、飛車と角の関係を比べてみると、大将棋
系は、当の摩訶大大将棋も含めて、飛車と角行はばらばらであり、
飛車は車駒の列に固まって、角行は行駒として、固まって置かれて
いる。

もともと、大将棋の時代には、飛車と角行は、余り関連付けられて
いなかった、と見るのが自然

と、私は考える。
そして次に、中将棋や天竺大将棋については、飛車と角行は、確か
にこれらの将棋では対をなしていた。中将棋の成立時に、飛車と角
行とは、縦横と斜めの差があるが、走り駒であるという点で、類似
と、強く意識されたようである。が、これらの将棋種では、飛車角
は縦に並んでいて、中央ラインから線対称に置かれる日本将棋から
は、明らかにまだ遠かった。
 そうしてみると、摩訶大大将棋というのは、中央線をはさんで
対称的に、飛車・角駒を並べるという点で、対になっているという
事が、他の将棋種にも有る事は確かだが、更にその表現形が、中将
棋などより、いっそう

摩訶大大将棋は縦横駒と対応の、斜め駒の配列が日本将棋的である

という点で、特記すべき将棋種だとやはり私には思える、という訳
である。
(2017/11/20)

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日本の将棋駒の成、麒麟抄ではなぜ草書で”なよなよしく”書くのか(長さん)

平安時代中期の書家の大家を語った偽書として、現在では著名と聞く、
南北朝時代ころ成立した”麒麟抄”等によると”将棋の駒は表をあまり
崩さずに、大きく目立つように書き、成りは極草書で書くべき”とされ
ている。
 出土駒のすべてで、その規則が守られていると、私は認識しないが、
歩兵の成りが、”と”に見えるほどに崩された駒が、平安時代にも存在
する事は確かである。しかし、良く考えてみると、将棋のルールでは、
通常は、成り駒の方が強く、玉駒を詰むという意味での、破壊力が
大きいのである。従って、むしろ表面は、そこそこに駒名を書き、それ
に対して成りの字を、駒木地全体に、いっぱいいっぱいになるように、
めだって大きく書き、その破壊力を、対局相手に知らしめるような、
表現に、本来はするべきなのではないのだろうか。しかし実際に、駒の
成りをそのように表現している例は、崩して書いている駒の割合よりは、
はるかに少ないように、私には感じられる。これは、いったいなぜだろ
うか、というのが、今回の論題である。
そこで、答えを先ず書くと、

成り駒が増えた局面で、平安時代中期の摂関時代の、王朝絵巻の世界で
有名な、きらびやかな雰囲気を作り出すのが目的

だと私は思う。成りが増えた所で、私に言わせると、”栄光の将棋の
伝来時代”を思い出させる雰囲気を、意図的に作り出そうと言う訳であ
る。つまり、

草書の成り表現は、主としてゲーマーのためを考えた物ではなくて、
将棋場を盛り上げる効果を、狙ったものではないか

と言う事である。
 じつはこう考えると、駒の表面に墨で字を書き、その駒が何であるの
かを示したという

アイディアが、輸入品で無い証拠

を示しているように、私には思える。なぜなら、藤原摂関時代の、きら
びやかな世界への憧れというのは、ほぼ

外国人には興味が無い事

だからである。従って、たとえば五角形の木地に、駒名を最初に書いた
のが中国人であり、五角形駒が”元々伝来品”だとしたら、その駒は

成りの方が、元駒の名前よりも、大きく強そうに書かれていたと考える
方が自然

だと私は思う。そして、もしそうだとしたら、その影響は、少なくとも
模倣して、日本で五角形駒を作成していた初期には継続し、

成りが強そうに書かれた初期の駒が、国内で出土していそうなもの

だと私は見る。しかし、実際には、成りは”いかにもルールを勉強して
その通りに書きました”といいたげな、表の駒名と同じ書体か、紫式部
や清少納言、紀貫之を真似て、平安京の王朝絵巻風にした、崩し字かの
どちらかなのである。これはそもそも、

五角形の駒木地に、駒名を墨で書くという発明をしたのが日本人

であって、
少なくとも最初にそうした日本人が、誰からも真似たわけではなく、札に
字が書けるのは当たり前という発想で、単にそうしただけである事を、
物語っているのではないだろうか。すなわち、定説では”日本の将棋
の駒の駒名を字で書く習慣は、中国等、東アジア文化の影響”という事に
なっている。だが私自身は、

木の札に字を書くというのは、格別の特徴も無い、ありきたりの行為で
あるから、中国・朝鮮のシャンチー・チャンギの駒名が、字で駒に書いて
有るのを見て、日本人が、日本の将棋の駒名を、字を駒に書いて特に表現
したわけでもない

と、個人的には考えている根拠なのである。現実には、

漢字で駒名を書くと、駒としての意匠が美的に優れていたので、互いに
どちらがどちらを真似たという訳ではなく、それぞれに、そうし始めた
のであろうが、結果として、中国・朝鮮・日本で全部、その習慣が残っ
ただけ

なのではないだろうか。以上のように、成りを草書体で書くというのが、
余り今まで、問題にされなかったのは、皆が余りにそれに慣れすぎて、
ほとんど、考える事が出なかったからであろう。が、ゲーマーとして
一度位は、”こんなことをするのは、いったい何故なのか。それが本当に、
自分達にとっての、親切心から出たものであろうか”と、疑ってみても
良いのではないかと、私は以上のように考えるのである。(2017/11/19)

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中世、沖縄に日本将棋がなぜ進出できなかったのか(長さん)

現在では日本全国、何処ででも日本将棋が盛んであるが。中国の領土
にも近い沖縄では、それ以前、沖縄将棋と言いえる、中国シャンチー
に近いルールの、象棋が指されていた事が、良く知られている。特に
江戸時代になると、薩摩藩との関連が高くなる沖縄で、江戸時代には
成立していた日本将棋が、沖縄に進出していたとしても、特に不思議
ではないように思える。だが実際には、中国シャンチーがその当時は
存在していて、日本将棋は進出しては、いなかったと一般には見られ
ている。これは、何故だろうかと言うのが、今回の議題である。
 いつものように回答から先に、書きたいところだが、実はこれに答
えるのは、意外に難しい。シャンチーと日本将棋とは、並存したとし
たら、性能は、どっこいどっこいで拮抗するだろうから、日本将棋が
負けるというのが、自明でないためである。以下は仮説であるが、

沖縄には日本の室町時代、15世紀の初頭に中国明朝の国策として、
中国人の知識人が、倭寇に対抗するための、戦略的属国化を狙って、
まとまって沖縄に移り住んでいて、中国シャンチーを先に伝えた。
そのため少なくともその時点で、日本将棋・朝倉小将棋・中将棋が
拮抗していて、優勢な将棋種が存在し無かった、日本の将棋文化
が、福建経由の中国シャンチー文化に勝てなかったため

沖縄将棋は中国シャンチーに類似している、とするしか、説明のしよ
うが無さそうである。ひょっとすると、室町幕府で沖縄に影響力の
有った、細川氏や、その少しあとには九州南部を押さえていたとみら
れる、栃木県佐野市付近が出と言う島津氏が、

比較的中将棋を良く指しており、中将棋の獅子の規約が複雑な点で、
難が有るため、同じ取り捨てゲームの、よりゲームとして平易な
中国シャンチーに、沖縄では駆逐されてしまった

という事も、あるいはあるのかも、しれないと私は思う。逆に少なく
とも、

明朝末に、清に追われて、明側の武家、唐王一族が台湾に逃げ込んだ
とき、沖縄にまで退却、琉球王国に亡命などしていたとしても、その
時点(西暦1683年)で既に、江戸時代に入って、日本では将棋は
日本将棋になっており、この時点で中国シャンチーが、沖縄に伝わっ
たとすると、日本将棋を駆逐するには、明らかに遅すぎ

とみられる。
 何れにしても、沖縄史関連の成書により、第一次首里王国成立直前
に、副国王として明王朝から送り込まれた、懐機と言う名の人物等が
中国シャンチーの伝来者なのかもしれない。
 以上のように、東南アジアの将棋に似たルールの将棋を指している
日本本土とは異なり、沖縄は中国の象棋に類似で有る事。この事から、

”南から黒潮に乗って船乗りがやってきて、極東の弧状列島には東南
アジア系の将棋を伝えた”といった、”船乗り対その島の住人の接触
といった、あるがままの融合文化”という括りからも、はみ出す

形で、一般論として将棋の伝来が行われていると説明せざるを得ない、
典型的な反例を示すものであると、私は沖縄の昔の将棋を興味深く見
る。(2017/11/18)

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日本の将棋駒は、なぜ途中で凹み六角形に変化しなかったのか(長さん)

前回の議論とも、多少関連するのであるが。仮に経帙牌が、名札型の
ぶらさげ使用法だったとしたら、私に言わせると、根本的には代用品
の日本の将棋駒は、五角形になり得たかどうか、怪しいと思う。その
際、2番手には、どういう”矢印”形が考えられるのであろうか。
一案としては、中世木製出品で呪術関連とされる、人形(ひとがた)の
形というのが、考えられるのかもしれない。ただし、将棋駒の場合、
多数の駒が必要になるため、適宜デフォルメが必要と思われる。以下
は、私の思いつき程度の見解であり、精査した上での見解ではないが、

将棋の駒の後ろ側の辺をへこませるように、三角に切り込みを入れた、
凹み六角形の駒というのも考えられる

六角駒.gif

と思う。この形の元々は人形(ひとがた)かもしれないし、古代の魚
かもしれない。実際には経帙牌が、将棋駒としては優れものだったた
め、採用されなかったに違いないのだが、

途中で、経帙牌から入れ替わる

と言う事は、理論上は、一応考えられるのではないかと思う。なぜな
ら経帙牌の五角形に比べて、この魚形等が優れているのは、

木簡で製作するとしたら、捨てる部分が無い

という事が有るからである。従って、経帙牌が仮に枯渇して、木簡を
切って将棋の駒を作成するようになった時代に、

将棋の駒が実際には五角形から、凹み六角形には変化しなかった訳だ
が、何故であろうか。

これが、今回の論題である。結論を先ず書くと、

わが国の場合、将棋の駒のうち、長い時間人目に晒されるほどの
良品については、寺院に存在して、そこで衆人の目に触れるケースが、
実際には多かったため

だと私は考える。つまり、代々生産活動に従事し、封建領主に年貢を
納めて生活している、一般庶民の日常空間に、将棋道具が何代にもわ
たって長い期間、所持されているケースが目に止まる事は、現実には、
ほとんど無かったのではないかと、私は予想している、という事であ
る。むろん、将棋を指すのはルールを知っていれば自由なため、特定
の人物の家に、その人物が存命している間には、将棋の駒が有ったに
違いない。ただし、その人物が単なる庶民であって、武家のように、
合戦に係わりがなく、通常の生活をしている人種であるケースは、
代々子孫に、将棋を伝えるという事は、余り無かったのではないのか。
恐らく、その家でその将棋好きが亡くなると、将棋の駒は廃棄される
か、故人を埋葬した寺院に、寄付されるなどしていたのであろう。
むろん、寺院には将棋の好きな僧が居る事が、多かっただろうから、
喜んで引き取ってくれる場合が、結構有ったに違いない。
 しかし、その際、寺院で将棋の道具を預かるケースには、

戒律には触れない必要があった

ものと当然考えられる。五角形駒なら、当然経帙牌形だったから、問
題が無いのだが。仮に新作の凹み六角形駒だと、

「生臭物の魚物を、寺に多数置いておく事になる」として、寺からは
嫌われた

のではないか。その為、変形した将棋駒は、仮に存在しても日本では、
後世に残らない確率が、五角形の現在の駒よりも、多かったのかもし
れないと、私には思える。
 一般に、日本の将棋駒は五角形という点が、そもそもユニークなた
め、起源を問題にするケースが多いと私は見る。しかし、出土品を
見る限り、外国の立体駒のケースのように、時代による変化がほとん
ど見られないと言う点にも特徴が有る。従って、途中で五角形という
範囲で、ほぼ無変化という点にも、将棋史研究上は、充分に注意すべ
きなように、私には思えるのである。(2017/11/17)

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経帙牌からの将棋駒発明者が、牌の上側を”前部分”と認識できた訳(長さん)

このブログで、私は日本人だと考えているのであるが、何れにしても、
たとえば金でできた将軍人形の立体駒を、色で区別するのではなくて、
主として形で敵味方駒を区別できるような、代用品を探すとすれば、
何処かに駒の名前の書ける、矢印ないし、それと同じ機能を持った、
小物体を、捜索する必要があったはずである。経帙牌には、上方と
我々が認識しやすい穴を空ける分、張り出させた部分に、矢印の機能
が確かに有る。しかし、良く考えてみると、矢印の矢の先に、なぞら
えられる部分を、”上”と認識する限り、将棋の駒に代用できる事に、
ただちに気がつくと言える程度には、当たり前ではない。経帙牌が、
矢印ではなくて、たんに吊り下げられたペンダントの類と、認識され
るにすぎないからである。しかし、実際には、日本の五角形駒の創始
者は、我々なら”上部”と判断しやすい穴を開けた部分を、

”前の部分”とただちに判断して、ほとんど私に言わせると、将棋の
ルールを知見したその日のうちに、将棋の駒として立体黄金駒の代用
とした

と、考えられる。では彼は、

なぜ経帙牌の上の部分を、前の部分と自明に認識する事ができたので
あろうか。

以上が今回の論題である。結論を書くと、
経帙牌は、ネームプレートのように下に垂らす使い方になっておらず、
巻物をまとめた、す巻のような形の経文の束を束ねた経帙から、紐で
くくられた状態で、横置きのように寝かした形で付けられてた。すな
わち、経文の束を、多少太すぎるが竿柱になぞらえると、こいのぼり
の鯉ような形になる。そのため、

馬が、厩に繋がれたかっこうにも、使用していた者には、普段から
イメージされていた

とみられる。隠語で当時、経帙牌が”馬”と、呼ばれていたほどだった
のかもしれない。
 つまり経帙牌を、将棋の駒の代用にする事に気がついた者には、

一見すると素人の我々なら、経帙牌の上部と認識する部分が、彼によ
ると、馬の頭の部分になぞらえられるのは、当たり前に見えていた

と、考える事ができそうである。将棋の駒が、しばしば古文書で、
”馬”と表現されていたのも、恐らくそのためなのだろう。なお経帙牌
が経帙にくくられた写真が、たとえば、増川宏一氏の、ものと人間
の文化史、将棋Ⅰにも、

”神護寺の経帙牌”として載っており、上記の論の正しさをはっきり
と示す

ものになっている。なお、私は個人的には、増川宏一氏の将棋Ⅰの、
この写真で、上記のように理由に気がついた。つまり、普通の荷札の
ように、束ねるための紐に、穴を通して、ぶら下げるような使い方を、
仮にしていたとしたら、経帙牌は多数の経文を、マグロのように寝か
せたとき、下に垂れて厩に馬を繋いだ形には見えない。そのため、
日本の将棋駒の形は、今とは全く違ったものに、なっていたのかも
しれないと言う事に、たぶんなるのであろう。(2017/11/16)

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埼玉県美里町広木上宿遺跡五色宝塔。形状2種だが大将棋の駒関連か(長さん)

以前、日本に現存しない立体駒を連想させる物として、埼玉県児玉郡美里町
広木上宿遺跡、廃寺跡出土の、純金・純銀・銅・鉄製のミニチュア五色宝塔
について、このブログで言及した事があった。実際には、玉、金、銀、銅、
鉄の大将棋五将駒ではなくて、金、金銅、銀、銅、鉄の五色仏宝塔が、発掘
されている。なお色の違いについては、この仏具を使って法要の対象となる
仏に大将がおらず、武蔵武士のように、小集団でばらばらの軍隊の、比較的
有力な者が、拝まれる仏様であると考えれば、説明が付くとした。
 さいきん、紹介した㈱さきたま出版会の成書、埼玉の遺跡、執筆者:山本
靖、2000年とは別の本でも、この遺物の紹介がされているのを見かけた。
そこで、それがきっかけで、今述べた、埼玉県埋蔵文化財調査事業団の、
山本靖氏の文面を、数回目だが読み返した。その結果、本論のほぼ最初に、

宝塔のうち、金、銀、金銅と、銅、鉄とで3対2で形態が分かれ、前三者は
法華経の見返し絵の宝塔型、後二者は五輪塔型であって、形が別である

と書いてあるのに、気がついた。
 大将棋の将位駒は全部形態が一緒の、五角形である。しかし、美里町広木
上宿遺跡の寺院跡出土の五色宝塔は、形態が3対2の2種類に分かれる。
この事実は、

大将棋の駒と、埼玉県美里町のミニチュア五色宝塔とを関連付ける上で、
矛盾しないのであろうか。

以上が、今回の論題である。
 そこで回答をとっとと書くと、矛盾していないと、私は思う。なぜなら
この宝塔を埋葬された当時も、将棋には大将棋の他に、

将の色が三色の、小将棋が存在していた

からである。
簡易的に、この宝塔を使って法事をするときには、大将棋形式ではなく、
小将棋形式でも出来るように、金、金銅、銀と、銅、鉄を分けて、2系統
とし、銅と鉄の宝塔を、簡易式では使わない、不公平感覚を、遺族に残さ
ないように配慮するために、こうしたとして、説明が出来るとみられる。
 むしろ、玉、金、銀の小将棋の将駒にもなぞらえられるように、法華経
の見返し絵の宝塔が、金、金銅、銀の3色に限定されているのであって、
3:2が大事で、2:3とか、銅まで入れて4:1の2種類等に、なって
いない事から、当時のルールでの将棋との関連性が一層疑われる
ように、私には思える。
 上記で紹介した文献とは別の今回たまたま見た文献にも、宝塔の図が
あり、底面がほぼ正方形、一辺が、錆びて膨張した鉄製の宝塔以外は、
どれも2cm弱である旨が書いてある。この断面形は、たとえばチェス型の
方形盤に、極めて良く適合したものである。だからこの5品の他に、チェス
のナイトやルークまたは戦車駒のような形の駒が、仮に共出土していたなら、

”これらが平安大将棋系の立体駒の一部とみられる”と結論されて当然の形

であると、改めて感じられた。材質が、通常のそれに比べて、飛びぬけて豪
華だが、タイのマークルックの駒と、意匠の類が同じである。なお別書には
”出土品の年代は、絞り込みが難しく、手かがりは、

廃寺の瓦が14世紀という事だけ

である。”と、さきたま出版会本と同様に、書かれていた。何か残念そう
だが、逆に14世紀で、付近の住人の法事用で間違いないとすると、

将棋関連説にとり、むしろ全く好都合

である。つまり、
本庄市付近の武蔵武士の児玉党などは、南朝側に加担して負け組に転落す
るなどし、14世紀のこの100年は、全体としては、埼玉北部の武蔵武士
にとっては、景気が悪い、活路を求めて全国に、拡散弱体化一途の世紀だっ
たと、私は聞いているからである。そして大切な点は、その例外が、
1382年の第3次小山義政の乱での、白幡一揆構成員としての、決定的
な活躍と、勝ち組としての隆盛だけに限られ、よって

彼らに”黄金の法事”が可能な年が、西暦1382年頃の、
小山義政の乱での、鎮圧軍としての勝利に、ほぼ絞られるのではないか

と、私には個人的に認識される点である。そうすると、小山市上鳥谷曲輪
出土の、裏一文字金角行駒という、大将棋かまたは、より複雑性の高い、
ゲームの出土駒と、この五色宝塔が、藤原左馬介義政と名乗る、小山義政
という人物を主軸に、ぼんやりとながら関連してくる、という事になる。
 つまる所小山義政は、普通唱導集大将棋のルールを熟知し、恐らく道具も
所持していた。そしてその内容を見聞きし、児玉郡美里町に南北朝時代に
在住していて、

白幡一揆に加わった武蔵武士の有力武家は、己や仲間を大将棋の駒に見立て、
仲間で戦死した者を、賠償金や報奨金で作成した宝塔により、金将、銀将、
銅将、鉄将として弔った。それが、たまたま出土したという事になる

のではあるないか。

またその他としては、猪俣百八燈を創設

して、108枚の普通唱導集大将棋の駒に見立てた戦士を弔う、今にまで
伝わる行事を、後世に残すという事をしていたのではないか。私に言わせる
と、ようするに以上がメカニズム、すなわち答えとなるような、

”五色宝塔と猪俣百八燈の謎”

の解明が、廃寺の瓦の年代が判るだけでも、2つ同時に、いっきに近づいて
きたと、感じられるようになったという事である。(2017/11/15)

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福井一乗谷朝倉氏遺跡から出土した将棋駒の絵付きの墨書木札(長さん)

福井・一乗谷朝倉氏の遺跡と言えば、戦国時代の将棋の駒が180枚
ほど出土した遺跡で、酔象が出土しているので、朝倉小将棋や、日本
将棋が、指された場所であろうと考えられている。さいきん、
出土遺物の文献を当たった所、一乗谷朝倉氏遺跡からは、将棋の遺物
として、将棋の駒だけでなく、将棋の駒を書いた絵らしきものが、
墨書木札という、木製品遺物として、出土しているとの知見を得た。
 書いてあるのは、以下のように、どうやら玉将の駒のようである。

一乗谷木札.gif

文献の説明書きでは、この木の札は、祭祀・呪術用のカテゴリーに
分類されており、呪術符の類ではないかという。個人的には、絵を
素直に見る限り、カルタ札の類のように見える。将棋の駒にも、そ
の上に書かれている兎にも、怨霊の祟りの、おどろおどろしいイメー
ジが、私にはさほど感じられないからである。正直しばらく、これ
は何だろうかと、考えたが、

しりとり札を兼ねたカルタ札なのではないか

と、思うようになった。

ウサギ→ぎょくしょう

だと私は思う。ちなみにその裏は、良くわからないがシギ→魚列かも
しれない。つまりこの遺物は、どろどろとした呪術用の札ではなくて、

カルタの”き”の絵札

なのではないだろうか。遊び方は、どうでも良いのかも知れないが、
親が上のように読んだら、この札を先に取ると、1点になるのかもし
れない。
 では、この500年前の遺物から、いったい何が判るかだが。
そもそも、この遺跡で将棋が盛んだったとの証拠が、別にも有る事は、
この木札の存在が、はっきりと示していると私は思う。その他の点と
しては、今と違って、

この時代この地域では、”玉将”が、将棋駒の名称で、代表格だった

という事ではなかろうかと思う。今なら駒の代表格は、王将だろうか
ら、うさぎのしりとりで、玉将は使わないだろう。なお、この遺跡か
らは、王将も玉将も、どちらも出土はしている。
 前に、一乗谷朝倉氏遺跡で、裏にホータン(和田)と書かれた、
歩兵駒が出土している事を、述べたことがあった。今ではハッキリ
しなくなったが、玉将の玉がホータン玉である事を、一乗谷遺跡の
恐らく商人を兼業する駒師は、知っているという指摘をしたと、記憶
する。従って今から500年前の一乗谷朝倉氏遺跡には、今よりも
少なくとも幾らかは鮮明に、将棋史の記憶、「王・玉は玉が先」が、
残っていたらしい事を示す、この木札も証拠の一つなのかもしれない
と私は思う。(2017/11/14)

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猛将は悪狼・猛豹・猫叉が、西暦1300年の大将棋に無い証拠(長さん)

 以前、普通唱導集大将棋(西暦1300年頃)に石将が無い根拠と
して、中将棋から鉄将を除いて、”中”らしくしたのは、鉄将までしか
その時点での既存の大将棋に無い証拠、という論を述べた。
 また、もっと前に、悪狼は悪党の”しゃれ言葉”であり、鎌倉時代末
期まで、後期大将棋が無かった証拠に、挙げた記憶がある。その際、
猛虎のメスとしての猛豹や、十二支から外れる猫叉についても、論じた
かもしれない。
 何れにしても、中将棋(西暦1350年頃成立が定説)より普通唱導集
大将棋(1300年)の方が古く、15×15升目130枚制後期大将
棋の方が、中将棋成立以降のものであり、1300年版では無いと言う
ためには、石将、悪狼、猛豹、猫叉が、13升目108枚制とみられる
普通唱導集大将棋に無いという、もっと確かな証拠を、探す必要がある。
 なぜなら、後期大将棋から以上4種の駒だけを取り除くと、本ブログ
のモデルの、13升目108枚制普通唱導集大将棋の駒構成にほぼなる
からである。つまり両者には、もともと大きな差は無いと言う事だ。
なお、この4種類の小駒が減ると、大駒割合が増えるため、普通唱導集
で流行っているように詠まれる程度の、”ゲームとして出来の良い将棋”
に変身するという訳である。
 そこでここでは、以前のべた、以上4種類駒の欠落の根拠として、
総じて12支駒に含まれて居無い等という、過去示した証拠に加えて、

室町時代の国語辞典に載っている”猛将”という単語について、言及

しておく。
この単語は、三省堂時代別国語大辞典、室町時代編によれば、意味は
読んで字の如くで説明に要する点が無いのだが、室町時代に特有の、
有力な侍頭(将軍)を、賛美する言葉であるとのことである。

ところで中将棋では、一段目列に猛豹が配置される。

仮にだが、その理由を”猛豹”と”猛将”の洒落言葉にもなっている
からだと考えてみる。すると、

猛将を猛豹と洒落るのは、悪党を悪狼と洒落るのに、発明した人間の
思考のタッチが、明らかに似て居る

事が判る。
つまり、猛豹が中将棋で1段目に配置され、将と同格になったときに、

悪党を悪狼と洒落た疑いが、微かだが感じられる

と私は思う。なお本来の悪狼という語は、どちらかと言えば庶民の用語
で、山に住む狼の妖怪のうち、人殺しを働く方を言うらしい。つまり、
どちらも、南北朝時代には、ありきたりの言葉かもしれないが、
妖怪であるという点で、悪狼は猫叉と類が同じで、連想して同時に将棋
の駒になりやすいと、推定する事が出来るかもしれないとも言える。
だから、

悪狼、中将棋1段目猛豹、猫叉は、1350年頃に成立したものであり、
西暦1300年時点での、普通唱導集大将棋の時代には、将棋駒として
は存在しなかった

疑いも私には、淡いが感じられる。以上のように

猛将という、室町時代の流行単語があると言う事

だけしか無いとすれば、確定させるには余りに曖昧だが。12支とか、
悪党が活躍した時代に、蒙古の脅威は減っていたとか、その他の知見
を上記と組み合わせると。悪狼・猛豹等は、猛将という室町時代だけ
の流行り言葉の存在という点からみても、猛豹を銅将の隣に置いた、
中将棋の成立が引き金になって、生まれた駒。逆に言うと、普通唱導集
の大将棋には無かった駒。それ臭いように、私には感じられるという
わけである。(2017/11/13)

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将棋系ゲームの”走駒相手駒升目で取り止る”は何故世界共通なのか(長さん)

二中歴の香車、反車、横行等の駒のルールの記載を見ると、進む升目に
際限が無い事が書いて有るが、相手駒があるときに、そこの升目で、
相手駒を取って、その升目で止まる事が、文献に記載されている訳では
無い。ところが、実際には、この走りは、たとえば、チェスの城(ルーク)
でもルール内容が同じだし、中国シャンチーの”車”でも、日本の香車
と、パターンがいっしょで、世界中で違いがあるとの兆候もない。各国
のゲームがある時点から後は、それぞれ独自に進化したにも係わらず、
この”走りルール”に、

ゲームによる地域ごとのフレが、どうみても起こっていない

ように見えるのは、いったい何故なのであろうか。まずは例によって、
答えから書く。
 この事は、将棋型のゲームが、世界中どこの地域で指されるにしても、

無限級数の計算が可能な、知識人のいる雰囲気のゲーム場でしか、指さ
れた事が過去無かった事を示している

のではないかと、私は疑っている。何が言いたいのかと言えば、

たとえば、ケースバイケースで、走った駒の方が死んでしまう事も有る、
軍人将棋のようなルールに、変質しないようにするためには、相手の駒を
一つ取って、相手のいた位置に進む、というルールの正当性を示す必要が
ある。そしてそのためには、無限級数の演算が、簡単に頭で出来、結果を
ゲーム仲間に説明できるような人間が、数学が必ずしも得意とは限らない、
一般ゲーマーの近くに、たびたび出没している必要がある

と、私は考えていると言う事である。つまり、
そもそも、実際の戦いでは、走った駒が、相手に返り討ちに合う確率が、
概ね1/2あるはずなのである。小駒同士の白兵戦の局面なら、通常の
ルールと、実際の戦場の情景は、多少似て来るのかもしれない。が、
走り駒が走ると”静止していて、それに当たられた駒がいつも死ぬ”と
言う事は無く、実際には半々程度だろうという事である。つまり突撃作戦
については、実戦情景とルールが、必ずしも一致しておらず、言葉だけで
”新人ゲーマー”を納得させるのは、実際には困難なのではないのだろうか。
 にも係わらず、”走ってその手で位置を変化させた方が、特定升目等に
到達したとき、静止して存在した、相手の駒1枚に勝つ事”にきめると、
不合理性が無いというルール論理に、従わされようとしている新人の棋士が、
世界中何処でも、結局は納得してしまって、実際ルールに従っているから、
世界の走り駒のルールは全部、ほとんど同じ、パターンになっている
のである。だから、現実には、
以下のように、相手兵を倒せる数の期待値を計算するための、下記の

走り兵が倒せる敵兵の期待値に関する、無限級数の極限が1になる事を、
各時代・各国で絶え間なく、数学の得意なゲーマー仲間が、新人に
示し続けたと考える

しか、現実に起こってることを、説明のしようがないのではないかと、
私は疑うという事である。

0×1/2+1×1/4+2×1/8+3×1/16+4×1/32・・・

言うまでも無く、この無限級数の計算は、まず次のように変形し、

(1/4+1/8+1/16・・・)+(1/8+1/16+1/32・・・)
+(1/16+1/32+1/64+・・・)+・・・

それぞれの総和極限で、また無限級数を作り、

1/2+1/4+1/8+・・・・

その極限が1になるから、期待値が1なのである。よって、相手の升目
で相手の駒を、升目内の当然1個について取り、そこに走った方の駒が
進めば、期待値に等しい事になる。
 現代人は、長い時間をかけた”教育”により、将棋やチェス、シャン
チーの走り駒のルールは、しかじかだから、それで良いと信じ込んでい
るから、もはや文句が、何処からも出ないだけなのである。しかし、
チャトランガ系のゲームが、実戦の参謀の戦略シミュレーション道具か
ら、ゲームに進化し始めた、たとえば西暦400年から500年の頃
には、走り駒のルールを、将棋型にするか、軍人将棋のようにするかで、
しばしば議論が有ったのではないかと、私は疑う。
 そのとき、近くに数学の出来る人間が居れば、軍人将棋派を、以上の
演算を示して、とりあえず説き伏せる事ができたのではないか。
 逆に言うと、しばしば発生した、チャトランガ系

ゲームの走り駒ルールの”改悪の危機”は、数学という科学文明によっ
て、各国毎に阻止された

のではないかと、私は想像する。わが国の将棋の走り駒ルールも、二中
歴の記載が、かなり雑なものであっても、世界標準と同じもので、あり
続けた。それは逆に言うと、上代後期や中世の僧侶や藤原貴族には、上
記程度の級数計算の数学的能力が、備わっていた事を示しているのでは
ないか。また、

たとえば日本では、将棋を指す棋士の近くに、必ず知識人としての僧侶
等が居た

事を示しているのではないかと私は思う。また各国毎に、チャトランガ
系ゲームというのは常に、知識人の関与がなされるような雰囲気の場所
でしか、現在まで残るゲームに関しては、指される事が無かった事を、
示す手がかりを与える、貴重な痕跡と言える情報だと私は考えるという
事である。(2017/11/12)

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日本の将棋の伝来のシルクロードは、陸か海か(長さん)

増川宏一氏の各将棋ルーツ成書に、必ず出てくるうたい文句に、”海のシル
クロードを伝って、日本の将棋は、東南アジアから伝来”というのがある。
それに対して、「『中国の将棋が日本に伝わって、日本の将棋になった』と
の説は、陸のシルクロード伝来説である。」と増川氏には評される。本ブロ
グでは、日本の将棋は、古タイ人居住国の、大理からという事になっている。
では、大理国から将棋が伝来したという説は、上記の海説と陸説の、どち
らに分類されるのであろうか。回答を書くと、

 西暦1015年の、周文裔から結果としての藤原道長への、孔雀の贈答の
事実が実は重大で、それと将棋がいっしょでなければ、どちらかと言えば陸
だが、実際には孔雀が居るおかげで、海説に近い

という事になる。本ブログでは、孔雀と大理の黄金将棋は、たぶん
西暦1015年伝来で、いっしょと見る。ので、ベトナム・ハノイから博多
までの航路は、一部、海のシルクロードを使っているという意味で、11世
紀の東南アジア国の、典型例としてたとえばバガン国をとり、バガンから、
ベトナムまでの分を、差し引いて、ハノイから博多だけを考えると、
増川宏一氏の精神で厳密に言うと、

”1/2海のシルクロード説”である

と、言う事になる。なお、陸路のケースも、正しくは陸のシルクロードは
使わない。大理国の大和城からは、開封経由の、シルクロードに合流する道
ではなくて、成都で枝分かれして、南を通る上海への、揚子江沿いの中国南
部の変州路~淮南道という道を、通る事になるのではないかと思う。陸路の
ケースは、何れにしても、日本の将棋の、中国起源派に近いルートに、どの
みちなってしまう事は確かだろう。
 なお、私の手元には、北宋時代の道路図・航路図は無い。がアジア歴史地
図に載っている、唐の時代の道路図を見て、上記の推定をしている。五代十
国の時代等に、戦乱で唐の時代の道が、無くならなければ、ほぼ同じだろう。
 上記で孔雀と、黄金の大理国王室将棋具が、西暦1015年の、京都内裏
の火事見舞い品として、いっしょだったとすると、孔雀は、中国内陸の、
揚子江沿いには、数が少なく、陸路では入手困難なように思える。従って
海路が正解であって、その経路途中の、ベトナムあたりの市場等で、東南
アジア産の孔雀が入手されて、周文裔のハノイから船出の船舶上で、大理王
室の黄金将棋と、合流したのではないかと推定される。従って以上の事から、

将棋具の船積みが、上海付近ではなくて、ベトナム北部の、ハノイ市付近の
港ではないかと、私には推定される

のである。
 逆に、西暦1015年の孔雀の伝来と、仮説黄金将棋の伝来が別のケース
は、ベトナム北部の海岸から、海のシルクロード説と、上海まで中国の古道
を陸路での2つの説が、孔雀の手がかりが無いため拮抗して、事実上、それ
以上解明困難と、言うことになるのではないかと、私は思う。将棋の伝来は

何れにしても、何処からかが大切なのであって、途中が陸・海のシルクロー
ドのどちらかなのかと言う事は、説を印象付けるための、単なる表現方法

とは言えるのではないかと私は思うが、”海のシルクロード”が通常強調さ
れるため、ここでは一応考えてみた。(2017/11/11)

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