SSブログ

天竺大将棋の駒を碁石にしたバージョンを作成してみた(長さん)

昨日述べた、鉄将と桂馬を、堅将、横将に置き換えて、猛豹を香車の
隣にした、変形天竺大将棋のチェックも兼ねて、15路の碁盤に、
碁石を置く形の、中国シャンチー風の、碁石が駒の変形天竺大将棋を、
下の写真のように作成してみた。

天竺大将棋.gif

盤が黒いので、黒の碁石は、形がはっきりわからなくなってしまった。
上の方で白く見えるのは、駒名を書いて貼った、タックシールである。
そもそも全体写真では、駒名が細かくて、さっぱり判らない。ので、
置き換えた、堅将と横将の部分を拡大した写真を以下に示す。以下の、
赤い四角の部分が、天竺大将棋と交換した駒である。その直ぐ左隣が、
移動した猛豹である。この写真でも、文字は依然見えにくいが・・

天竺拡大.gif

 なお、堅将と横将の成りは、上の写真で黒石が、裏返して置かれて
いるので、本当は見えているのだが、牛将と猪将という名称にしてみ
た。ルールは、それぞれ飛牛と奔猪の、6方向走りが、6方向跳び越
えに変えた、ルールの駒のつもりである。(大局将棋の駒とはルール
が違う。)
 碁盤は碁盤ではなくて、本来は後期大将棋の将棋盤である。そのた
め写真にはかすかに写るが、聖星が、5線目ではなくて6線目になっ
ている。碁盤としては、メッシュが粗いのは、もともと、写真の”碁
盤”は、碁盤ではなくて、将棋盤だからである。
 ところで天竺大将棋は、跳び越え駒が有る為、砲駒の有る中国シャ
ンチーや、朝鮮半島のチャンギに、近いといえば近い。少し前に、
写真の後期大将棋盤に良く似た、新安沖沈没船出土の将棋盤(?)を
話題にしたので、その話にもオーバーラップするように、16升目の
天竺大将棋を、中国ないしは、朝鮮広将棋風に、碁石で作成してみた
のである。本当は14~15路の朝鮮広将棋が、その時代の大陸の
駒数多数将棋らしいので、チャンギは八角駒だから、今回作成した遊
戯具も、駒が碁石よりも八角駒で作ると、よりぴったりだったのかも
しれない。蛇足だが、新安沖沈没船からは、韓国の象棋駒は発見され
てい無いようだが、碁石は見つかっている。
 本格的な、この変形天竺大将棋のチェックは、まだだが。一応、片
付ける時に、ざっと指してみた。なお後期大将棋のような盤を使う、
との考えに、ここではこだわり、犬は中将棋等の仲人と違って、聖目
内に有るとし、自陣は5段までではなくて、試しに6段目にしてみた。
 ざっとだが、一段目駒の動きは、堅将が活躍するようになったため、
多少の改善感が、感じられるようになった。ただし、

このルールでも火鬼の序盤早々の、相手陣の喰い荒らしがひどすぎる

ようである。特に跳び越え将駒が、跳び越えたときに火鬼の所で、
火鬼を取って着地できないので、初期配列で火鬼を大将の前の、歩兵
のすぐ前の升目に、旨く繰り出されると、序盤でぎっしりと並んでい
る大将、副将、飛将の何れか同時に、”次に焼くぞの必死”となるた
め、火鬼で大駒が焼かれた後、陣形が大きく乱れて、玉回りがその後、
叩かれ放題に、なるようであった。

天竺大将棋の場合、火鬼は車兵型か、水牛型のどちらかで走ると
されているが、走り駒の火鬼の有る天竺大将棋は、もともとかなり
バランスを取るのが、困難

なように、私には思えてならない。
しかし、火鬼を単純な三歩歩み駒にしたとしても、実は副将の筋から
玉頭に突入できるので、それだけでも、まだ火鬼の動きが、素早すぎ
るようである。
(1)副将は玉将3回(なので、自駒が飛び越せない)ではなくて、
普通に、獅子型の三歩大阪電気通信大学の踊りルールで踊れるに、
変える。
(2)奔鷲を、前後左右は、1升目は跳び越えられる走り、ではなく
て、WIKIPEDIAに書かれているように、大将、副将型の跳び
越え駒にする。
とした上で、火鬼だけ、玉将3回(なので、自駒が飛び越せない)に
して、序盤早々、この駒に玉頭を焼かれないように、ルールを調整し
ないと、なおもこの将棋はだめなように、上記のように、ざっと一局
だけだが、指してみて、私は考えるようになった。(2017/12/21)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

天竺大将棋の作者のうっかり(長さん)

駒数多数将棋の中に、少手数で終わりすぎるという理由で、癖のある
将棋として、天竺大将棋がある。試しにプレーした方が居て、跳び越え
のルールを”進む升目数の多少に制限の無い、空升目でしか着地でき
ない、大阪電気通信大学の踊りルール”にすると、多少面白くなるの
を発見されたようである。なお、大局将棋の天竺大将棋から取り入れた
跳び越え将位駒は、(味方の駒も殺してしまうが)上記のルールに近い
との説が、webで広まっているようだ。
 しかし、こうして改善しても、次の不自然感が、どうしても、取り除
け無かったようだ。すなわち、天竺大将棋には、

最下段の各駒が、ほとんど動かされずに、終局になりやすい

という傾向が有る。強い駒を入れすぎた結果、小駒の使い道が、無くな
ってしまったのである。
 ところで、天竺大将棋は、中将棋の形の模倣である事は、明らかであ
る。駒の抜け方が、左右中段に二箇所で、中将棋型であるし、前後左右
走り等の駒と斜め走り等の駒を、隣接升目に、並べておいているのも、
中将棋型である。そもそも、偶数升目盤を使い、下段中央に、玉将と
酔象を並べて置くのも、中将棋とこの将棋と、偶数升目の大局将棋の三
種だけだ。更に小駒が盲虎と猛豹で、二種に絞ってあるのも、中将棋と
一緒。その盲虎と猛豹の配列も、天竺大将棋のパターンと、中将棋の
パターンとは、同じである。従って、中将棋に合わせたら、天竺大将棋
の、上記、最下段の各駒が、ほとんど動かされずに終局に、なるしかな
いのかというと、

それは違うのではないか

と、私は最近思うようになった。天竺大将棋は、実は

もっと、中将棋に合わせた方が、むしろ良かったのかもしれない

のである。すなわち、
鉄将と桂馬を、大将棋という名にしたいがために、中将棋から、足した
のであろう。が、実はそれがまずくて鉄将と桂馬を入れるよりも、もっ
と良い手が有るように、私には思えてきているのである。答えをようや
くだが書くと、

銅将より袖は、鉄将、猛豹、桂馬、香車と並べるよりも、
       堅将、横将、猛豹、香車と並べるのが、
正解だったのではないか

と私は思う。なお、通常、大将、副将、飛将、角将の有る天竺大将棋
では、これらの駒が、跳び越える事のできる駒種を、”駒の挌ルール”
を作成して、調整している。私は、個人的には

跳び越え型の将駒は、将駒が跳び越えられない(が、直射の場合は取れる。)

に単純化した方が、判りやすいのではないかと、思っている。ここで、
横将は、横行の横の走りを、跳越え型にするものであるが、相手の大将
や副将も、この駒が跳び越えられない守り駒にするために、加えたもの
である。なお、堅将も、鉄将と違って、跳び越え駒なので、中盤で相手
駒と討ちあうような使い方になり、タブ付く事は無くなる。
 もし、天竺大将棋の構成駒の要素が、これだけ変化するだけでも、

”空いていないと着地できない将駒ルールの天竺大将棋、有志(あーかさか・
さん等)の改良型”は、一段目駒ダブつき問題が、だいぶん改善される

のではないだろうか。なお、跳び越え将駒ルール改善型天竺大将棋の作戦
を、余り御存知無い方の為に、私が、つたない解説をすると、
真ん中の方の最下段に有る酔象、金将、銀将、銅将については、相手
”将駒”を、着地させないようにするため、下段にじっと、存在し続け
るということに、多少意味が有るのである。ところが、その更に袖の、
鉄将、猛豹、桂馬は、動きの速度が、天竺大将棋では単に遅すぎて、何も
使い道が無いので、最後まで初期位置のままに残った、無駄駒の感が有る
のである。つまり、

天竺大将棋に、中将棋には無い鉄将と桂馬を入れたのは、こうすると、
初期配列の、形がより尤もらしいように見た、作者の錯覚だった

のではないかと、私は最近考えるようになってきたという事だ。つまり、

中将棋に無い、鉄将と桂馬は、入れ無い方がよかった

と、私は思う。
 なお、天竺大将棋には、三歩不正行度駒が、強すぎるという問題もあ
る。これについては、以下余り、言及される方がおられないのだが、
松浦大六氏所蔵”象戯図式”の、中将棋の初期配列図の後、中将棋の
獅子のルールの説明の前に、

天竺大将棋より上では獅子も三歩不正行度駒にする

等との、記載がある。この話が余り評判が良くないのは、水無瀬兼成、
将棋纂図部類抄の、摩訶大大将棋口伝の、普通の獅子のルールと、合わ
ないからであろう。私見だが、象戯図式の”天竺大将棋より上”という
所で、”より上”が、余計だったような気がする。

天竺大将棋では獅子(と獅鷹)も三歩不正行度駒にする

にしたとしたら、賛成者は、多かったのではないのだろうか。つまり、

天竺大将棋では、獅子をディフェンスに使って、バランスを取るような、
ルール試案も、実は有る

のだ。
 以上のように天竺大将棋は、もともとオフェンスが強すぎて、箸に
も棒にも掛からない将棋ゲームのイメージが、一般にはあるようなの
だが。実は、鉄将と桂馬をムダに加えたという、

作者のちょっとしたミスで、ブレイクを逃してしまったボードゲーム

だったのかもしれないと、私は見るようになったのである。(2017/12/20)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

船霊(ふなだま)と、新安沖沈没船”将棋盤?”(長さん)

webで上記、船霊と検索すると、祈祷用で、今も船舶に乗せられる
物品が画像表示される。説明によると、航海の安全を祈願して、船舶
の操縦室の横等に、置かれるものらしい。”家型の中身をくり抜いて、
男女一柱づつの人形(ひとがた)、12枚の小銭、サイコロを2個、
五穀、女性の髪の毛を奉納する”とある。家型としては、立派な物は
神棚のように見えるものであるが、簡素なものは、五角形である。
そして、五角形の船霊の家モデルのケースについては、少なくとも
公開されている写真は全部、私は家と見ない。

将棋駒の形と、私は自信を持って見る。

理由は、柱の部分が、目の錯覚効果が大きいと見られるが、末広がり
に斜めに建つように、見えるようになっているからである。つまり、

家の柱は、真っ直ぐに立てるのが普通なのに、そう見えるような形に、
理由有って、敢えて工夫していないのではないか

と、その形を私は疑う。
そう思って、船霊に納める物品を、もう一度見直すと、霊が宿る女性
の髪の毛と、陰陽道に関連する、男女人形と、同じく12か月を暗示
させる小銭と、五行に対応すると見られる五穀、そして

遊戯具で代表的なサイコロが、盤双六で必要な2個

である。つまり、家型が5角形に変形した方の船霊は、

家ではなく将棋駒の中に、陰陽道や祈祷の道具、遊戯具を入れている

ように、見えると言う事である。
上記の通常”家”とされる船霊の格納容器も、複数の意味が恐らく込
められてはいるのだろう。そして五角形でも、実際に末広がり型の物
も明らかに有る事から、

船霊と将棋が関連付けられた事は、有る

と見るべきなのではないだろうか。そう考えてみると、船霊の容器等
のアイテムは、

将棋でも、駒ではなくて盤の方が、モデルで使われたケースも有り得

るような気がしてくる。一例としては、船員が手製で作成したらしい

1320年代に韓国の新安沖で沈没した、東福寺の難破船から出土し
た、従来、五目並べ盤とされた、

将棋盤(?)も、遊戯具ではなくて、こちらの方が呪術具のカテゴリー
の物品として使われた可能性も、考えに入れる必要がある

ように、私には思えてきた。根拠としては、

(1)15×15升目盤であり、5線ごとに、はっきりと聖目が打た
れている点が、気晴らしの道具にしては、意味ありげに見える事。
(2)左右辺の袖にだけ、升目のない空白部があり、これ自身を飾り
付けの際の関係で、そのようにする必要があったようにも、見える事。
(3)将棋駒が別途発見されているが、この盤の升目が少し細かく、
共出土の将棋駒が、使え無いものを、わざわざ作成している事。

は、挙げる事ができるように思う。
 将棋駒がしばしば、呪術具と区別がつきにくい場合が有るのと反対
で、ひょっとすると呪術具が、将棋の道具等をモデルにしているため
に、将棋道具と間違えられている例が、ひょっとしたら有るかも知れ
ないと、船霊の写真を見て私は考えるようになって来た。(2017/12/19)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

日本の将棋に鯨駒が有っても、鯱駒が無いのは何故か(長さん)

話は、動物信仰事典(1999)に有っても、日本の将棋駒種に無い
動物の蒸し返しになるのだが。芦田正次郎著「動物振興事典」㈱北辰
社に、シャチが日本人に信仰されていると、書かれている。が、たま
たまだろうが、鯨信仰の話が載って居無い。中将棋に、室町時代の言
葉として存在していたと、辞書に記載された”鯨鯢”はあるのだが、
信仰対象の、シャチホコで著名な、鯱駒は無い。鯨を入れたから、鯱
は、省いても良いと考えたのかも知れないが、大局将棋で、駒名が、
不足した状況でも、たとえば”飛鯱”という駒を入れなかったのは、
何故だろうか。
 そこで、いつもように先に回答を書くと、

駒数多数将棋の盤駒は、後に寺院に保管される例が多かったため、
生臭物の、魚駒の類が、存在したとしても取り除かれた為

ではないかと、私は考える。つまり、五角形駒の後部に切れ込みが
入った、凹六角形の、魚の形を連想するような駒形に、日本の将棋
の駒が、変化しなかったと、前に述べたのと同じ理由だと考える。
 つまり、

魚を入れるにしても、食卓に出てくるのが、”生き造り”に出来る
ような、通常の大きさの海の生き物は、”魚を食べる”を連想する
ためNG

だった、と言う事であろう。鯱は、鯨より小さく、シャチホコの形
から、魚型が連想できる程度で、ぎりぎりの大きさだったので、明
らかに、

肉から、元の形が連想できない程度に巨大な、鯨に取り替えられた

のではないかと思われる。鰹や鯛は、その点で論外だったので、
そのような名称の将棋を、誰かが作成して、亡くなってから寺に盤駒
を持ってきても、寺の方で鰹駒や鯛駒は、処分してから、残りを保管
するという事が、ひょっとすると有ったのかもしれない。だから逆に
摩訶大大将棋あたりの変種で、そのような駒が入った将棋が中世に、
作られた可能性も、有るのかもしれないと私は思う。
 というのも、摩訶大大将棋には摩羯があるし、それと対で鉤行が、
左右の前の方に配置されている。が、鉤行は、鍵ではなくて釣り針が
元ではないかと、私には思われるからである。前段に魚と、それを
釣る道具の一部が、配置されている訳だから、もともとの配置に魚駒
が無くても、だれかがその変種に、鯛とか鰹とかを、更に追加しそう
な気も私にはする。しかし、そのような変形摩訶大大将棋を作成して
も、保管寺は盤駒のうち、魚駒は保管しなかっただろう。そのため、
そのような”魚将棋”は、海に囲まれているにも係わらず、日本では
廃れてしまったのかもしれないと、私は思う。動物信仰事典を見ると、
日本の将棋駒から、魚駒はごっそり削除されているようにも、イメー
ジできる。ので少なくとも、以上のような事が、絶対に起こりえない
とまでは、言えないのでは、ないだろうかと思う。
 他方、

摩羯や鯨鯢は、元々巨大だったので、食卓での”生き造り”のイメー
ジは作れず、そのような駒を寺に置いても、例外的にOKだった

のかもしれないと思う。なお、昨日述べた、動物信仰事典に無い
大局将棋の飛鰐は、ワニではなくて、伝説上の鮫(サメ)の一種、
鰐鮫(ワニザメ)から、来ているようにも、私には思えてきた。
だから、ワニと書かれていても、実態は鮫なのでNGリストに、入ら
ないのかという、問題が生じる。これについては、江戸時代になると、
南西諸島でたまにだが、鰐が漂流して生け捕りにされるような、ニュー
スが、有ったのが、幸いしたのかもしれない。つまりワニが捕まりだ
したため、

鰐駒の場合、鰐という字が、鮫であるような無いようなで、曖昧に
なって来ていた。だから江戸時代の寺院では、食用してはっきりイメー
ジできない謎の駒”飛鰐”は、将棋駒種に加えても”良し”とされた

と言う事だろうか。何れにしても”大将棋が賭博の道具として、禁止
された”という記録が一例ある程度で、史料は少なく、はっきりとは
しないが、

少なくとも日本の駒数多数将棋類は、少なくとも中世頃になると、道
具が有るとするなら寺である、という事が、恐らく多かったのだろう

と魚駒の欠乏からも、推測できるのではないかと、私は考えている。
(2017/12/18)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

歴史的民間動物信仰のリストに無い日本の動物将棋駒(長さん)

前回に引き続いて、今度は、芦田正次郎著「動物信仰事典」(1999)
㈱北辰堂の方に無い、日本の将棋の動物駒種について考える。
 駒の種類数が、圧倒的に多い大局将棋では、上記の成書に無い動物
名が、余り多くないが現われる。ただ、鵰(鷲の異字)とか鶻(はやぶさ)
は、鷲鷹の類だし、金車の成りと見られる”鴫(シギ)”も、石車の成り
で振かんむり鳥の異字を書く、”歩しん”の鷺(サギ)が、動物信仰事典
のリストに有る。このパターンは、そのものずばりが無くても、民間信仰
に無い、動物駒とは言えないだろう。このような例としては、他に木車
の成りの、鼈(亀の類)とか、土車の成りとみられる咫鳥(”三本足の烏”
の類)を挙げる事ができる。なお右(古)鵬の鵬と鳳とは、同義だと思う。
 そうしてみると、大局将棋で現われる動物駒で、民間動物信仰事典とし
ての、上記成書に無い種類の駒は意外に少ない。飛将の成りの”鰐”の、
飛鰐位だろうか。なお、鰐が日本に民間信仰として無いのは、言うまでも
無く、ワニが日本に生息しないからである。ただし、江戸時代になれば、
中国から、東南アジアの動物種に関する知識は、幾分かは入っただろう。
だから、鰐一種程度なら、紛れ込んでもおかしくはないと、今の所私は考
えている。ただし、カバやサイが、大局将棋に無い理由については、今の
所、私には良くわからない。
 他の将棋種に目を移すと、中将棋等の”豹”がリストに無いのが目立つ。
ただし、豹は近世までは虎のメスの事とされたので、これは虎の信仰とし
て、有るも同然の動物だろう。大大将棋の時鳥(ホトトギス)については、
中国の古蜀の王様の事であるとの旨、本ブログで既に、指摘している。
山の怪の山母は、鬼子母神の類であろうと、個人的には解釈する。
 そして、謎が最も大きいとみられるのが、摩訶大大将棋の驢馬である。
驢馬は、中国にはたくさん居るが、日本では余り知られておらず、平安時
代草創期の日本霊異記の頃から、経文等の中でだけ、日本人が接した動物
だとされている。摩訶大大将棋の初期配列の、驢馬の位置を見ると、桂馬
と対にして置かれているようであり、桂馬程度に弱い駒で、馬に近い動物
を無理に探した結果、驢馬に到達したと見るのが自然だと思う。この事か
ら、摩訶大大将棋のデザイナーは、江戸時代の将棋書で言われたように、
経文と身近に接した人物、つまり僧侶が疑われると言う事になるのだと、
私も思う。つまり、

摩訶大大将棋の驢馬は、そのデザイナーの正体に関してヒントになる、駒
の種類の一つと、言う事

だと、本ブログでは、今の所解釈する。
 実は丹念に探しても、以上で例外駒は種切れになる。

”骨折り損のくたびれもうけ”とはこの事

だろうか。つまり何百種類もの日本の将棋駒種の中で、動物駒は、過半数
の割合を越えるが、ほとんどが、民間動物信仰対象の動物駒種に、限られ
るという事である。(2017/12/17)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

芦田正次郎著”動物信仰事典”(1999年)の動物類と日本の将棋(長さん)

表題の、㈱北辰堂の成書、芦田正次郎著”動物信仰事典”(1999年)
と、大局将棋までの日本の将棋種類に有る、動物種を比べてみると、
魚類とされた、鮑、鰯、海老、オコゼ、貝、鰹、金魚、鯉、子安貝、鯛、
蛤や、虫類とされた、蟻、優曇華、蚕、蝸牛、蜘蛛、玉虫、蝶、トンボ、
腹の虫等、明らかに戦力にならない動物は別であるが、他は大局将棋まで
に有る、動物駒と、ほとんど中身が一致している事が判る。
 なおこの本には、鳥の類には鳳凰、金翅鳥が入っているし、鬼形類とし
て、鬼、風神、雷神、夜叉、羅刹、天狗等を加えている。更に獣類には、
当然のごとくに、獅子と狛犬と麒麟が入っている。
ようするに日本人の感覚では、身近に有る、動く生き物は、ほぼ信仰の
対象になり、それは、日本の将棋種には、ほぼ全て加えられていると、言
うことである。なお、この本は、最も遅く見積もっても

少なくとも唐代には完全成立していたとされる、中国古代、三国鼎立時代
の、呉の陸幾の著作と伝わる”毛詩詩経草木鳥獣虫魚疏”を真似ており、
それに、日本人の一般的な、信仰対象動物類を、著者芦田氏の知見により、
集積したもの

のようである。目次を眺めると、まるで将棋駒の駒種のリストを、見てい
るように私には思える。誠にお見事である。
 従って、あるいは

大大将棋や摩訶大大将棋の作者の方は、陸幾(王へん)の著作と伝わる、
”毛詩詩経草木鳥獣虫魚疏”の動物リストを参考に、駒名を考えている
可能性がある

ようだ。
なお、芦田正次郎著”動物信仰事典”(1999年)に含まれる動物類で、

日本の将棋類に無いが、駒にもなりそうなありきたりな”動物”類として、
河童と鯰

もある。これについては、動物信仰事典の中で、1712年成立の、

”和漢三才図会に、河童については、『川太郎という妖怪が、西国には
居るが一般的でな』く、河童の項目は無い。また鯰については、『鯰が
地震を起こす』という説は書かれて居無い”

と、紹介されている。河童が著名になり、鯰が地震が起こるときに、騒ぐ
のに、日本人が気がついたのは、18世紀からなのかもしれない。恐らく
その事は、18世紀頃の大局将棋のデザイナーも知っていて、どちらも、

江戸時代の人間にとっては、最近の話

と、当然思っていたのだろう。そのため、河童は将棋駒に加わらなかった
し、地震を起こすという修飾詞を持つ鯰駒を、大局将棋に加える事も、
実際には無かったのかもしれない。その際参考までに、大局将棋のデザイ
ナーは、ひょっとすると和漢三才図会の記載を、チェックしたのかもしれ
ない。つまり和漢三才図会は、将棋史研究にとって、必須の文献であると
同時に、

大局将棋のゲームデザイナーが、新たに加えた将棋駒種の妥当性について
チェックする際にも使用した文献

なのかもしれないと言う事だと、私は動物信仰事典を読んで解釈した。
(2017/12/16)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

ミャンマー象棋シットゥイン。シャンチー砲が導入されなかった訳(長さん)

前回、9×9升目36枚制標準型平安小将棋(持ち駒無し)に、平安末期
の鳥羽上皇の頃、占い駒として輸入されたと、本ブログでは推定している
中国シャンチーの砲駒が導入されなかったのは、歩兵がシャンチーの士よ
りも、ずっと攻撃力の強い、金将に成るため、数を減らす事に、日本の
当時の将棋棋士が、嫌気を感じていたためとした。
 ところで、日本の平安小将棋は、タイのマークルックと類似である。が、
タイのマークルックに、砲駒を導入した変種があるという話は聞かない。
もっとも、タイのマークルックは、本ブログの言う、8×8升目32枚制
原始平安小将棋型の升目である。だから、中国シャンチーのように砲駒を
導入しようとして兵駒(貝)を減らすと、陣形が乱れてしまう。前に、原
始平安小将棋に砲駒が導入されないのも、偶数升目であるため、との論は
本ブログでも、指摘したと記憶する。
 しかし、もっと考えると、これでも話は終わらない。タイのマークルッ
クと、駒の構成が同じで、

初期配列が自由な、表題のミャンマーのシットゥインという象棋がある

からである。初期配列にこだわらないのなら、歩兵が乱れた抜け方をして
いるという理由で、ミャンマーの棋士(モン族)が、中国のシャンチーの
砲を、導入できないという、理由が無いからである。もっとも、バガン国
と北宋には11世紀頃、余り交流が無かったから、たまたま砲は伝わらな
かった、という言い訳が、絶対に無理とまでは、言えないだろう。しかし、
仮に中国の北宋時代の交易商人は、活躍していて、中国北宋原始シャンチー
は、東南アジアに伝わっていたとして、それでも

ミャンマーのシットゥインに砲が無いとすれば、理由は何だろうか。

そこで、さっそく回答から書くと、

シットゥインの副官駒(シッケ)は、もともと金将に近い動きだったに
違いないから

だと私は思う。つまり、初期配列ルールが違っていても、11世紀頃は、
副官のルールが、日本の将棋の金将や、四人制チャトランガルールに
書かれた、幻の2人制チャトランガの大臣の”玉将と同じだが、取られて
も負けでない”というルールに、近かったのではないかと、私は考えると
言う事である。根拠は、ミャンマーの副官に成る”兵”の、現在の成り制
限ルールが、私にはほぼ、意味不明に見えるからである。猫叉の動きでし
かない”成り兵”を、1個しか許さない根拠が良くわからない、という事
である。つまり、

ミャンマーのシットゥインの成り兵が、仮にシッケチュウで幾つでも成れ
るに変えたとしても、ゲームがおかしくなるほど、小駒である猫叉の寄与
は、それほどには無いのではないか

という事である。私に言わせると、この不可解なルールの理由を説明する
ためには、

もともとシットゥインの兵は、猫叉の動きの駒ではなくて、金将の動きの
駒に、少なくとも11世紀程度の昔には成れた

と考えるしか無いように、思う。つまり、ミャンマーのシットウィンも、
タイのマークルックも、そして、現代のインド人の言葉で表現された
”現チャトランガ”も、副官・種駒ないし大臣駒が猫叉の動きになったの
は、シャンチーで、そうなったよりも、かなり後の事なのではないかと、
私は思う。

当てずっぽうで言うと、日本の江戸時代、ムガール帝国の頃

にやっとではないのか。つまり、

ミャンマーのシットウィンに、砲駒が導入できなかったのは、日本の
標準型平安小将棋に砲が導入できなかったのと、もともとは同様な理由

だと、私は考えるのである。前に述べたように、本ブログでは、ミャンマー
のシットウィンの、兵の成りの制限ルールは、上座部仏教が”金品で布施
をもらうことによって、仏教道の修行者が、現世でどんどん、金持ちにな
って行くこと”に、比較的否定的な見方をしているという、

宗教上の理由から来る

のではないかと見る。逆に言うと、11世紀頃の昔のシットゥインでは、
兵が、金将の動きをする副官(シッケ)に、幾つでも成れる、”羽振りの
良いルール”だったのではないのだろうか。
 そして、イスラム系のムガール帝国が、インド亜大陸を支配する頃に、
ミャンマーのシットゥインの副官駒シッケが、金将動きから猫叉動きに変
わったとき、兵の成りも、金将から猫叉に変わり、本来は”シッケチュウ
経過自由成り”で、問題が生じなくなったのだろう。しかし、相変わらず、
副官駒は、副官(シッケ)という名称で有り続けた。そこで、合理的なルー
ル調整で、兵を”シッケチュウ経過単純成り”に再調整する事が、シット
ゥインでは、おそらく不可能だったのではないのだろうか。
 よって以上の事から見えてくるのは、

現在は日本の将棋に、金将としてしか残って居無い、四人制チャトランガ
ルールに、”五番目の王”として登場する、幻の二人制チャトランガの
”大臣駒”は、かつては、日本と、その源の中国雲南だけでなく、インド、
ミャンマー、タイにも存在した、副官駒の、ありきたりのルールだった
可能性が、かなり高い

と言う事だと、私は考えるのである。(2017/12/15)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

日本の将棋にシャンチーの砲が導入されなかったのは何故か(長さん)

表題の議題は、前にも立て、日本の将棋の走り駒の流儀が、飛車角型で
あって、中国シャンチーのように車砲型にならなかったためと、述べた
記憶がある。しかしこの回答では、そもそも

中国シャンチーを見て、中国より当時全てを学んでいた日本人が、走り
駒の構成を、車砲型に変えない理由が、充分に説明できていなかった

と思う。最初がたまたま飛車角型だったので、その後もそうしたいう主
張を、本ブログでは、しただけだったと、記憶するのである。なお、
日本の荻生徂徠の広将棋のように、囲碁盤を用いても、角行動きの象の
あるゲームも、アジアでは作られているので、線の交点に駒を置くゲー
ムにしなかったためでは、厳密には、答えになったいないと、私は考え
る。では、

砲が日本の将棋に、9升標準型平安小将棋時代に導入できなかった理由

を以下で考えてみる。
 そこで、まずは答えを先に書くと、

と金の数が減る、取り捨て型の将棋を日本人が、嫌ったため

であろうと、私は考える。と金は、いうまでも無く、歩兵が成って発生
する。他方、砲を導入した結果、

砲のルールによる、豊臣秀吉将棋になる事を避けるためには、歩兵を
間引きするのが、必然であろう。

しかし、こうすると必然的に、歩兵が減るので”と金”も減ってしまう。
と金で相手玉の詰みを狙うにしても、平安小将棋二中歴のルールブック
にあるように、裸玉を狙うにしても、歩兵の数を減らしては、どちらの
戦術も、とりにくくなるのである。そのため、シャンチーに接した、
平安末期、鳥羽上皇の将棋占い時代の日本人が、砲という駒の面白さに、
当然気がついても、それを導入するために、9升目を11升目にした、
北宋大将棋のようなゲームは、作らなかったのであろう。つまりこれは、

と金、すなわち金将が、シャンチーの士と違って、動く方向が6方向と
多いこと

から、本質的には来るものと、私には推定される。よって、逆に言うと、
中国人の方が北宋王朝時代、宝応将棋のような”金象将軍”、つまり私
に言わせれば、金将銀将の有るゲームの言い換え象棋を、シャンチーの
母体(ベース)に、していたとすれば、

兵または卒が、金将ルールの成りになるので、日本人の将棋棋士と、
同じ事を考えて、砲という駒は加えづらい

と、私は推定する。つまり、逆にシャンチーと日本の将棋の差から、
シャンチーの母体は、唐代の宝応将棋のような、兵の成り先である副官
が、四人制チャトランガのルールブックの言う、「第5の王」のような
”近王的な将棋”ではなくて、

既に最初から、副官が動きの弱い、猫叉の動きになっていた、イスラム・
シャトランジである

と、充分に推定できるのではないかと、私は考えるのである。恐らく、
北宋時代の中国大象棋の兵・卒は、最初は盤の敵方半分のラインに入る
と、士に成ったのだろう。その後、九宮が出来ると、士のルールが変わ
り、その結果、ミャンマーやタイの将棋と同じルールは止めて、斜めと
縦横をひっくり返して、更に後退もやめ、摩訶大大将棋の嗔猪の動きに
したのだろう。つまり、現在の兵・卒の動きは、猫叉と嗔猪の動きの駒
は、ほぼ同格と中国人ゲームデザイナーが考えて、”たまたま”そうし
ただけなのだろうと、私は推測する。(2017/12/14)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

増川宏一著将棋Ⅰ(1977)に記載された”タイ将棋”の変遷記録(長さん)

増川宏一氏著書のものと人間の文化史、将棋Ⅰを所持しているとすれば、
それを読んでくださいで、以下の文章は不要なのだが。この本には日本
の将棋だけでなくて、外国の将棋史についても、他の著書に無い情報が、
書いてあるケースが多い。
 最近私が気が付いた中で、重要事項と思われるのは、タイのマークル
ックの駒の動かし方について、ルールの変遷史の情報が、ちらりと、書
いて有る所である。本ブログでは、日本の将棋は、タイのマークルック
とは、兄弟関係にあり、タイのマークルックも、大理国の象棋の子と、
いう立場を取っている。が、

以下の将棋Ⅰの記載は、この説にとって、とても有利な情報

である。情報の出所だが。詳しい経歴は、この成書だけからは不明であ
る。が、タイのマークルック史を少なくとも、研究している現地の人物に、

チバラント・チャンドラタットという人物が、1970年代におり、

この人物から、増川氏が聞き取った情報のように、将棋Ⅰからは読める。
チャンドラタット氏によると、どうやら、

マークルックの根(象と、将棋Ⅰでは書かれている)は、昔は銀の動き
ではなくて、角行の動き

だったとの事である。この説は、大理国の象、興福寺出土の成らない酔象
の動きを角行と見る、本ブログの立場を支持するものである。正しくは、
マークルックの根(現在の象)は、大理国で、角行動きの象、銀将動きの
銀将に分岐したあと、銀将の動きの方を再採用したと、本ブログでは見る。
 次に、

マークルックの馬は、昔は桂馬と香車を組み合わせた動きだった

との情報を増川氏は、チャンドラタット氏から、得たようである。
 将棋Ⅰの記載は良くわからないが、馬の古い動きは、スペインの、
古大将棋のグリフォンのような、タイプの動きと、チャンドラタット氏
は言ったのであろうか。あるいは、私流に良いように解釈すると、

マークルックの馬と舟は、それぞれ昔は桂馬と香車の動きだった

という話の、誤伝なのかもしれない。こうなると、古マークルックの
ルールは、種(副官駒)と、相手駒を取るときの貝(兵)を除いて、
ほとんどルールが原始平安小将棋と、同じになってしまい、

大理国将棋が親で、平安小将棋とマークルックが子供という説にとって
誠に都合が良いようにも、すくなくともいっけんすると見える

のである。ただし、チバラント・チャンドラタットという人物が良く見
えないで、議論はこのあたりで、今の所行き止まりだ。
 だいぶん寒くなってきた。体を温めるために、以上のように心理的に
盛り上げたところで、今回のこの論題を終わりとする。(2017/12/13)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

平安大将棋の猛虎と飛龍。元は四神か十二支か(長さん)

仮説13升目108枚制普通唱導集大将棋の説明で述べたように、
”この将棋に、牛、虎、龍、馬、猪駒が有るのは、平安大将棋に、
猛虎、飛龍、桂馬がある事の拡張のため”が、本ブログの説である。
 ところで、このうち馬駒が有るのは、全世界の将棋類で、全部
有る為として、平安大将棋の残りの猛虎と飛龍は、十二支の中で、
馬より強そうなのが、龍と虎だったから、有るようにも見えるし、
四神、白虎、青龍、玄武、朱雀のうち、兵器になりそうなものが、
前二者だったため、それだけ残したようにも見える。後世、どち
らにも取れると、少なくとも解釈したから、大将棋に猛牛や嗔猪
が入ったのであろうが、もともとは、どちらだったのだろうか。
 この点についても、本ブログではブログを開設した当初に、見解
を述べており、

四神の方だろう

と、している。理由は、中国の北宋広象棋を、平安大将棋を作成する
ときに、ある程度参考にしており、その中に、

四神は有っても、12支駒は無いのではないか

と考えているからである。根拠は、

中国王朝内部で、唐、宋、元の各王朝の頃に、日本のような十二支
信仰があったとの証拠となる、出土品が有ると言う話を、今の所、
私が察知して居無い

ためである。銀で出来た像として、雲南博物館の金翅鳥の象が、私
の場合、直ぐに思い浮かぶ。だから晁無咎が作成したとも、晁補之が
作成したとも私の聞く、中国宋代の19路とみられる広将棋には、
金翅鳥の類の鳥の神様の駒はあるだろう。だがその他の、新たに加わ
る駒としては、碑、偏と言った、軍事的な階級を示す駒と、砲、弩、
弓、刀、剣と言った、武器を意味する駒しか、シャンチーに対して、
加えられては、い無いだろうと、そう想像(空想)している(だけの)、
状態である。なお、少なくとも現在、北宋広象棋に関する情報は、
たぶんほぼ、どこにも無いと、私は認識している。
 むろん、中国にも十二支はある。しかし、駒数多数象棋の中に、
馬は、元から有るので別として、それらを持ち込むような

十二支(動物)信仰が、少なくとも政権を担う皇帝の周囲のような
上流階級には、日本の貴族のように存在はしない

のではないだろうかと思う。十二支信仰は中国の唐~元代は、高々民
間信仰のレベルのように、私は今の所予想している。なぜなら、子丑
寅卯辰巳・・が、冬春夏秋の、季節の移り変わりの風物から生まれた、
順番を示す漢字である事を、漢字を母国語とする代表の中国唐~元
代の知識人なら、皆知っており

中国の知識人にとって十二支は、数詞の類と正しく認識されていた

はずだからである。つまり、鼠牛虎兎龍蛇・・・が、子丑寅卯辰巳・・
を理解するための、身近な名詞への、単なる置き換えに過ぎないこ
とを、中国宋代の19路とみられる広将棋を作成したほどの、知識
人の、晁無咎なり、晁補之なりが、知らないはずは無いという事で
ある。

つまり、そもそも彼らには鼠牛虎兎龍蛇・・が、将棋駒に加われる
ほど、大それたものであると、考える理由が何もない

と言う事だ。そして、晁無咎なり、晁補之なりが19升目の中国北
宋広象棋を仮に作成する際には、日本の陰陽道師のように、大将棋
に、12支駒は加えない代わりに、桂馬を八方桂には、しただろう。
つまり、イスラムシャトランジの、将棋は日月惑星の動きにちなむ
を、惑星学的な意味に解釈することが、当然出来たのだろう。そし
て、彼らにこの能力が存在する理由は、日本の古代末~中世の時代
にも、中国歴代王朝には、暦を改良する能力が保持されたからだと、
私は考える。ようするに、

中国の知識人には、唐、宋、元代、夜間天球上に、恒星と惑星が見
えているのを誰もが理解していたが、日本の藤原摂関の長者は、少
なくとも、そういった惑星観測の世界に、興味そのものが無かった

という事実が根本問題として、有ると思う。藤原摂関長者が、惑星
学に関して、無知だったという証拠としては、

藤原道長の日記に、藤原一族の上層部が、ある年の宣明暦7月7日
に、こと座アルファー星と、わし座アルファー星が”天球上で移動
し、接触するのを仲間が観測した”と称して盛り上がる記事が有る

点から見て、明らかである。むろん当時の日本の天文博士が、中国
製の星図を持ち、普段は恒星の配列に変化が無い事。新星や超新星
が現われたときには、朝廷や藤原摂関に、報告する事になっている
という事に関する知識を、藤原長者は、役目上知っていたはずであ
る。長者がどうかは別として、鎌倉時代に入ると、藤原氏貴族の一
部、たとえば、藤原定家が、超新星に興味を持っているとの証拠が、
明月記から出てくる。しかし彼らは、少なくとも平安時代末には、

恒星という概念には、余り興味が無かった。ので、何がどうなって
いるのかは、そのうち忘れてしまっただろうし、恒星の他に陰陽師
がしばしば話題にする、惑星があり、その天球上での動きは、独特
である

という論を、日本のきらびやかな貴族文化の中に於いて保持は、特に
していなかったのだろう。そのため、平安末の院政期に、恐らく中国
から、将棋の駒の動きは、「日月惑星の動きに因むべきものである」
という、水無瀬兼成が、将棋纂図部類抄で冒頭に書いている
”イスラム天文学思想”が不意に流入したとき、彼ら摂関派がした事
は、それならばと、

平安大将棋の原案作りを、陰陽道師に”まるなげ”した事だけだった

と、私は個人的には、予想するのである。他方陰陽道師の心の中では、
合戦の中にも、神が兵士と共に交流し、助けたり妨害したりするとい
う、現代社会では”代表的迷信(世界大戦に於ける精神論)”とイメー
ジされる概念が、平安末院政期には、別に中国人に問い合わせなくて
も、自分で作れる程度に”日本人の心の文化”として、充分確立して
いたと見られる。そこで陰陽道師が平安大将棋の原案を、中国広将棋
の19升目型で、たまたま作成したときに、中国流に、四神を加えて、
藤原頼長等に上奏しただろう。がそのほかに、八百万を神に仕立て上
げる、日本の陰陽道師らしく、動物としての十二支を入れた第2原案等
も作成していたとしても、余りおかしくはないように、私には思えるので
ある。
結局その第二原案の

12支駒を、大将棋の駒類の中に入れるという思想は、直ぐには平安
大将棋としては採用されなかった。が後々、普通唱導集時代の
大将棋に、猪駒等の十二支駒が入る遠因になったのかもしれない

と、私は思う。つまり、
もともと”将棋の駒が日月惑星の動きに則る”とは、アラブのシャト
ランジでは、馬駒を、前後対称の八方桂馬にルールを変えて、火星の
ように、動くようにするのが目的だったのだが。暦博士との関連の
強い陰陽道師に、日本の大将棋を作らせた結果、地球の公転運動と、
月の地球の周りの周回運動の問題だけが、クローズアップされた、

暦に関連する十二支駒の含まれる大将棋を、生み出す結果になった

という事だと思う。なお将棋史研究家の増川宏一氏は”平安大将棋こ
そ、日本独自の将棋文化の基点”と、確か将棋Ⅰ等で述べられている。
惑星天文学の暦学へのすり替えが、この日本独自遊戯文化の発生原因
と私は見ているため、この独自文化に、”賞賛すべき”という、形容詞
をつける事に、個人的には今の所、ためらいが有る。
 以上をまとめると、
”日月惑星の動きに則る”の正しい意味を、暦改良を続けた中国王朝
知識人なら、中国では惑星の精密な位置観測が、継続されたため、
専門家ほどには興味は無くても、正しい意味を知識人なら誰もが知っ
ていた。そのためと、もともと

十二支駒を象棋に入れる習慣というのは、中国王朝内では、誰も考え
もしないために中国では発生しなかった。結局、駒数多数将棋または、
象棋としては、日本でしか、こんな不思議な、動物の将棋の発生その
ものが、なかったのだろう

と、かなりの確度で予想はできるのではないかと、今の所私は、考え
ているというわけである。(2017/12/12)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー