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日本の将棋にシャンチーの砲が導入されなかったのは何故か(長さん)

表題の議題は、前にも立て、日本の将棋の走り駒の流儀が、飛車角型で
あって、中国シャンチーのように車砲型にならなかったためと、述べた
記憶がある。しかしこの回答では、そもそも

中国シャンチーを見て、中国より当時全てを学んでいた日本人が、走り
駒の構成を、車砲型に変えない理由が、充分に説明できていなかった

と思う。最初がたまたま飛車角型だったので、その後もそうしたいう主
張を、本ブログでは、しただけだったと、記憶するのである。なお、
日本の荻生徂徠の広将棋のように、囲碁盤を用いても、角行動きの象の
あるゲームも、アジアでは作られているので、線の交点に駒を置くゲー
ムにしなかったためでは、厳密には、答えになったいないと、私は考え
る。では、

砲が日本の将棋に、9升標準型平安小将棋時代に導入できなかった理由

を以下で考えてみる。
 そこで、まずは答えを先に書くと、

と金の数が減る、取り捨て型の将棋を日本人が、嫌ったため

であろうと、私は考える。と金は、いうまでも無く、歩兵が成って発生
する。他方、砲を導入した結果、

砲のルールによる、豊臣秀吉将棋になる事を避けるためには、歩兵を
間引きするのが、必然であろう。

しかし、こうすると必然的に、歩兵が減るので”と金”も減ってしまう。
と金で相手玉の詰みを狙うにしても、平安小将棋二中歴のルールブック
にあるように、裸玉を狙うにしても、歩兵の数を減らしては、どちらの
戦術も、とりにくくなるのである。そのため、シャンチーに接した、
平安末期、鳥羽上皇の将棋占い時代の日本人が、砲という駒の面白さに、
当然気がついても、それを導入するために、9升目を11升目にした、
北宋大将棋のようなゲームは、作らなかったのであろう。つまりこれは、

と金、すなわち金将が、シャンチーの士と違って、動く方向が6方向と
多いこと

から、本質的には来るものと、私には推定される。よって、逆に言うと、
中国人の方が北宋王朝時代、宝応将棋のような”金象将軍”、つまり私
に言わせれば、金将銀将の有るゲームの言い換え象棋を、シャンチーの
母体(ベース)に、していたとすれば、

兵または卒が、金将ルールの成りになるので、日本人の将棋棋士と、
同じ事を考えて、砲という駒は加えづらい

と、私は推定する。つまり、逆にシャンチーと日本の将棋の差から、
シャンチーの母体は、唐代の宝応将棋のような、兵の成り先である副官
が、四人制チャトランガのルールブックの言う、「第5の王」のような
”近王的な将棋”ではなくて、

既に最初から、副官が動きの弱い、猫叉の動きになっていた、イスラム・
シャトランジである

と、充分に推定できるのではないかと、私は考えるのである。恐らく、
北宋時代の中国大象棋の兵・卒は、最初は盤の敵方半分のラインに入る
と、士に成ったのだろう。その後、九宮が出来ると、士のルールが変わ
り、その結果、ミャンマーやタイの将棋と同じルールは止めて、斜めと
縦横をひっくり返して、更に後退もやめ、摩訶大大将棋の嗔猪の動きに
したのだろう。つまり、現在の兵・卒の動きは、猫叉と嗔猪の動きの駒
は、ほぼ同格と中国人ゲームデザイナーが考えて、”たまたま”そうし
ただけなのだろうと、私は推測する。(2017/12/14)

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