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西暦1015年に、内裏に置いた物品は放火で被災する(長さん)

以前、本ブログの見解では、中国北宋の交易商人、周文裔親子によって
西暦1015年に、中国雲南省の大理国からもたらされた、原始平安小
将棋用の、黄金の将棋具は、藤原道長の土御門第が、その直後火事で
被災するためそこには無く、三条天皇の住まい、内裏に保管され、
1019年に、藤原隆家に使われたのだろうと述べた。そしてその際、
西暦1015年の内裏の火災は、規模が小さかったため、金銀将棋駒は
熔けなかったとの旨を仮定した。しかし、その後の調べで、

内裏に置いておいたのでは、西暦1015年の火事でも熔けてしまう

事が判明した。藤原道長の日記には、1015年の内裏火災の部分が、
抜けているようなのだが、他の記録から、

”三条天皇は冠をかぶる暇も無く、内裏から緊急脱出するほどの、被害
の大きな火事だった”

との史料があるらしい。以上は成書「藤原道長の日常生活」倉本一宏著、
講談社現代新書(2013)に、書いてあるで、その事実を私は最近
知った。従って、黄金の原始平安小将棋の将棋具が、実際有ったとして、

西暦1015年には、将棋具を藤原道長の住居の土御門第に置いても、
三条天皇の住居の内裏に置いても、それぞれ別々の火事で焼ける

のでどちらも駄目らしい事になる。そこでどうするかだが、結論を書くと、

後一条天皇の居た仮設住宅に保管し、西暦1015年の火事の後、再々
建された、後一条天皇時代の内裏に移せば、西暦1019年の刀伊の入寇
の時点で無事

との事になった。そこで今後は、このブログの言う、黄金の平安小将棋の
道具は、

「原始平安小将棋用の、”三条天皇の時代に、北宋の交易商人によって
もたらされ、恐らく後一条天皇の居所に保管されていた”黄金の将棋具は、」

と、問題の将棋具の形容詞は、本ブログでは、以上の””内のような旨に、
暫定的に表現する事に、私は決めた。
 なお、話がごちゃごちゃしてきたので、(仮説)将棋具の境遇を中心に
時間的順序をまとめると、以下のようになると、ここでは見ている。
以下”年”は、何れも西暦年である。

1014年に、三条天皇の住居である内裏は、一回目の火事になった。
その後、
1015年に、焼け落ちた天皇宅を装飾するための、黄金室内装飾品の
補充等のため、北宋から周文裔親子が、孔雀等といっしょに、原始平安
小将棋用の、金銀で駒ができた、立体駒将棋具を大宰府経由で、京都に
運んだとみられる。
その後
1015年に、藤原道長の住んでいた、土御門第(亭と同義)が、火災
で消失した。
その後
1015年冬に、三条天皇が突貫工事を、自らが命じて再建した、天皇
の住居である内裏が、二回目の火事になって、全焼した。
その後
内裏は更に、再々建されたが、三条天皇は眼病が悪化し、後一条天皇に
譲位した。藤原摂関政治は結果、絶頂期に達した。
その後
1019年に刀伊の入寇があり、藤原隆家が活躍し、京都に凱旋した。
藤原道長もこの頃に体調を崩し、長者役を藤原頼通に譲ったようである。
その後
恐らく1019年の同年に、後一条天皇と藤原頼通の御前で、上京した
藤原隆家が、後一条天皇の所有する、前記黄金の立体駒将棋具で、将棋を
指す等のイベントが、有ったものと見られる。
その後、その結果、
西暦1019年後半頃から、直ぐ前に書いた内容を聞いた、大宰府に駐屯
する藤原隆家の元の同僚の武士を中心に、将棋が指されるようになった。
更にその少し後の
西暦1020年、再び北宋から周文裔親子が、大宰府にやってきた。
五角形の将棋駒を作成するのに必要な経帙牌を、注文を受けた毎数だけ、
持参したと見られる。
以上の経緯で、日本ではその後、将棋が今までとは段違いに急速に、流行
ってきたと考えられる。

 以上の経過から、火災で壊れてしまうものを、藤原道長宅だけでなく、
三条天皇の住居に置いても、話のつじつまが、合わなくなる事は明らか
だろう。だが実は、以下の理由で、

第一回目の火事で再建した、極短命な、中間に建築された内裏に住んで
いたのは、せいぜい三条天皇夫婦だけである

と、考える事が可能なようである。というのも、第二回目の、

内裏の火災は放火で、犯人グループに、藤原道長自身が関与している

との見方が、歴史の専門家の間にあるようだからである。
第二回目の内裏の火災の直後に、藤原実資の日記に、藤原道長の息の掛かっ
た者が、内裏に火を付けた事を匂わす、

”予想された事態”との旨の、妙な発言を藤原道長自らがしている

との記録があるためである。ようするに”藤原道長は、三条天皇がいつま
でも、天皇ヅラをしているのが、元から気に食わなかった。ので、内裏に、
三条天皇が、天皇として、鎮座ましましているのを妨害しようと、常々
企んでいたのが、放火の動機”という事である。他方次の、後一条天皇は、
藤原道長にとって政治的にも大事な、自分の孫であった。だから、

第二回目の内裏の火災時点で、後一条天皇は、中間再建内裏に居無いよう
にして、被災から免れるように、藤原道長が、予め画策していたと考える
のが自然

と、言うわけである。つまり、

1015年の内裏火災の時点で後一条天皇は、後一条天皇用の仮設住居に
まだ居り、そこに、子供の遊び道具として、黄金の原始平安小将棋の
将棋具も有ると考えれば、少なくとも我々、将棋史研究家にとっては大切
な、輸入将棋具は無事

と、推定できるという事になるのである。
 なお、後一条天皇の時代に再々建された内裏は、そこらじゅう手抜きの
欠陥住宅だったと、藤原実資に評されていたという。最後の点が、地理的
に遠いために、大宰府の武士には、余り伝わらなかった点は、日本の将棋
文化にとっては、とても幸いだったのかもしれないと、私は思っている。

以上で本年も押し迫りました。本ブログにおこしの皆さん。では、良い
お年を御迎えください。(2017/12/31)

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