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ヴェトナムの象棋の駒と、中国のシャンチーの駒は見分けられるのか(長さん)

さいきん偶然、ヴェトナムの現代の、将棋道具を目にする事があった。
ヴェトナム南部の都市、ホーチミン市で、長年使われた近代の象棋
駒らしい。一見してシャンチーの類であり、中国シャンチーの道具と
は、ほとんど区別がつかない。盤の河の中に、船が浮かんでいて、
何人か人物が書かれているが、私には、中国人なのかヴェトナム人な
のかは、良くわからない。
 ただし今回は、昨年春、東京の北区の日暮里駅前で開催されていた
ときに見た、朝鮮チャンギの字の向きのチェックを忘れた、苦い経験
が蘇り、ヴェトナムのその将棋道具の写真を一瞬見ただけで、判った
ようなつもりで、通り過ぎるような事は、幸いしなかった。

ヴェトナム象棋.gif

おかげで、(多分)大事な点は、見逃していないと思う。
上の写真のように、中国シャンチーの駒と、ヴェトナムの象棋の駒と
で、

兵・卒の色が逆

になっている。すなわち、中国シャンチーでは、兵は赤側で、帥の軍
の配下だが、ヴェトナム象棋では、兵は黒側で、将の軍の配下になっ
ている。つまり、

中国シャンチーは、”帥兵、将卒”型であり、
ヴェトナム象棋は、”帥卒、将兵”型

なのに気がついた。なお、中国シャンチーは、以前は黒番先手法だっ
たが、西暦1981年頃に、帥側の赤番先手法に変わったと聞く。だ
が道具が、そのため入れ替えられたという話は、少なくとも私は、聞
いてい無い。ので、つまり中国シャンチーは、

”将卒先手、帥兵後手”で~1981年は指していたが、
”帥兵先手、将卒後手”で1981年~は指すようになった

と、言う事らしい。実は、岡野伸さんの自費出版書「世界の主な将棋」
で、私は初めて知ったのだが、それに対して、

ヴェトナム象棋は、ずっと”帥卒先手、将兵後手”で指している

らしい。つまり、中国とヴェトナムとで昔は、玉駒の帥・将が先後手
逆なのだが、どうやら

先手が卒で、後手が兵である事には、変わりが無かったらしい

という事である。つまり、ヴェトナムへは中国の宋~明王朝期に、
象棋は、卒先手で兵後手という情報が伝わったのだろう。にも係わらず、
赤の帥と、黒の将が(中国は黒から、ヴェトナムは赤からと)、先後
手逆転してしまったため、やむなくヴェトナムでは中世に、

兵・卒駒の帰属を、入れ替えたと考えられる

のだろう。結果的にはその中国に、ヴェトナムは1981年頃、裏切
られて、努力が水の泡になったらしいが。何れにしても、次回
ヴェトナムの象棋駒と出会った際、中国シャンチーの駒と、見間違え
ないように、気をつけたいものだとは思った。
 ちなみに、中国が1981年頃に、シャンチーの先手を黒の将から、
赤の帥に入れ替えた結果、

世界の中で、黒の将の軍が、先手のシャンチー系象棋は、沖縄の将棋
だけになった

と私は聞く。無論沖縄では、恐らく中国シャンチーと、同一タイプの
駒が使われているのであろう。だからその結果将・卒黒番が先手の、
唯一の将棋地域に、なったのであろう。沖縄が将・卒黒番先手の将棋
を、元々指していたらしい事から見ても、今も帥・卒赤番先手らしい
ヴェトナム将棋と違う事は明らかだ。だから、沖縄へ、

ヴェトナム等の東南アジアから、黒潮に乗って、象棋が伝わったとい
う事はありえず、
やはり明王朝の時代に、明の政府高官で、沖縄に移住した人物あたり
が、象棋を伝えた疑いが高い事は確か

とは言えるように、今の所私の得た情報の範囲内では、考えられると
思う。(2018/01/21)

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二中歴小将棋の銀将が、臥龍駒である可能性は有るのか(長さん)

2018年1月18日前後の、高見研究室の摩訶大大棋のブログに
よると、二中歴の銀将のルールは、五方向のマークルックの根の動きで
はなくて、摩訶大大将棋の臥龍の動きだそうである。ルール記載で、
不行左右下は、不行左右上(不行頭両角の意味)の誤記だというのである。
 そこで、さっそく8升目制の平安小将棋を、銀将を臥龍に変えたルー
ルで、以下の写真のような道具を作成し、最近指してみたので報告する。

高見小将棋.gif

結論から言うと、ゲームを実際に行ってみた限り、

本来臥龍の動きだった銀将を、マークルックの象と間違えた可能性は
少ない

という

高見研究室の論を否定する結果

になった。理由を最初に書いてしまうと、

相手を裸玉にすれば、勝ちであるというゲームにならないで、簡単な
千日手で、引き分けになる事が多いために、二中歴の小将棋の記載と
合わなくなり、よって二中歴の著者が、銀将のルールの記載を、間違
えている可能性は少ない

と、考えられたからである。なお、本ブログでは、

二中歴の小将棋の、末備裸王ルールの記載は”裸王の、自殺手に対する
優先”を主張する目的で、記載されている

との立場を取っている。
 次に結論がこうなってしまう、理屈を簡単に述べる。
 そもそも、8×8升目32枚制の平安小将棋では、旦代の難点を旨く
切り抜けて、駒の斬り合いが続く。そして互いの棋力が、ほぼ等しけれ
ば、このケースは、終盤

互いに、玉と臥龍が一枚づつ残り、盤の9段目の外側に座って指して
いる先手が、4段目に玉・臥龍を水平に並べ、盤の1段目の外側に座っ
て指している後手が、5段目に玉・臥龍を水平に並べた棋譜に、なって
いる

と、推定される。
 そして、この状態からは、互いに相手の陣に近い位置にある、自駒
を、自陣に引き戻すように指して、臥龍を取れば、裸王で勝ちになる。
しかし、重要な事は、相手に押されるのに”つられ”て、

自分の臥龍を強くするつもりで、相手陣で成らせては、だめ

なのである。なぜなら、自分の駒と自分の体が、相手の駒を挟み撃ち
にしているような、臥龍の1枚づつ残った8升平安小将棋のケースは、

玉と金(臥龍)成りの側の方が、玉と臥龍よりも、かなり不利

なのである。つまり成り臥龍は、後戻り攻めが出来ないため、臥龍が
まだ、成って居無い、相手に攻められて負ける確率が、高くなるから
である。そこで、両者中段で、がんばろうとするのだが。このケース
は、

升目が8段、中間段が2段しか無い事が、仇になる

のである。つまり、上記の手では指せる手が、両者限られてくる。そ
のために、

4手で循環する千日手になやすく、戦いが続かなくなる

のである。だから、

もともと玉プラス成り金の、2枚づつ残りの8升目タイプの
平安小将棋は、注意深く指せば、引き分け必然

なのだが、その2枚が臥龍プラス玉の場合には、引き分けがみえみえ
になる。そのため誰も、裸玉を目指して、更に進めないうちに、引き
分けにしてしまったに違いなく、二中歴に、平安小将棋の裸玉記載が、
特に強調されて伝わったという事実と、矛盾すると私は見たのである。
ようするに、

二中歴の平安小将棋の記載は、銀将のルールが間違っていたとしたら、
最後は、”裸玉の勝ち”の記載で、〆られてはいなかったはずだ

と、私は推定する。従って、

二中歴の平安小将棋の著者が、銀将のルールを書き間違えている可能
性は、かなの低いのではないかと、私は、上の写真の将棋を実際に
チェックしてみて思った。

 以上ではなはだ簡単ながら、この件の報告を終わる。
 高見研究室のブログの、今述べた論に関係したページには、

”銀将の駒の動かし方のルールについて、ここで異説を述べても、注
目者は、余り居無いのではないか”

との旨の記載もある。が、当サイトは、高見研究室の摩訶大大将棋の
ブログに、なんらかの新説が述べられた場合には、それに対して、比
較的速く意見を述べる事のある、今や有力なサイトの一つに成長した
と、勝手に自負しているのである。(2018/01/20)

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踊りのルール。”N踊”を”N升目まで走り”との解釈の当否(長さん)

web上の駒数多数将棋の駒の動かし方ルールで、たいへん普及したもの
に、表題の踊りのルールで、たとえば3踊りを、”3つ升目を走れる”と
と、解釈したものがある。wikipediaの踊り駒のルールは、獅子
や、狛犬を除けば、そのルールで、ほぼ統一されている。
 コンピュータ将棋ソフトでも、このルールを取る物が、実は主流である。
たとえば前に紹介したHachu将棋の、後期大将棋版でも、飛龍や猛牛
は、このルールになっている。が、言うまでも無く、この踊りの解釈は、

たとえば、大阪電気通信大学の踊り解釈とは、大きく違う。

大阪電気通信大学の踊りは、間相手駒の取れる跳びであって、飛車・角の
ような走りの類では、無いからである。ここでは、走り類似の踊りルール
が、存在する理由と、根拠を、私が知っている知識として書き、最後に、
私見を加えてみる。
 まず弱い走りが踊りになっている理由は、私は個人的には未調査なのだ
が、”世界の将棋”という近年の書が、そうなっているというのが根拠と
聞く。そこで”世界の将棋”が、”踊り弱走り説”をとった根拠だが。
「象棊纂圖部類抄の金剛の説明で、”或四方三目踊不踊一目二目越馬”の
部分を”それぞれ四方三目踊る。ただし1目めや2目めに、他の駒が
ある場合には、その駒を跳び越える事ができない。”と解釈した」という
話が、たぶんwebだけに、出ているようである。

上記読み下しが正しいとすると、大阪電気通信大学のように、将棋纂図
部類抄の、(実際には、更に限定されて、摩訶大大将棋口伝の)踊りを
間駒の取れる跳びと考えるのは、間違い

と、いう事になる。
 以上が、外部情報である。なお、世界の将棋の著者の、踊りの解釈の根
拠を、著者自らが、どこかで表明しているという話は、今の所私の耳には
入って来無い。
 そこで、次に”踊り弱走り説”についての、私の考えを述べてみる。

これが古文書の曲解であったとして、良いルールである

と思う。というのも、大阪電気通信大学流の、鳳凰の跳びに、少し色を付
けただけと、私は個人的に思っている、跳びの類の踊りの場合、それに対
する守り方(相手)が、囲いをいろいろ工夫した所で、終盤、多くの場合
は、踊り駒に、同じように踊られて、玉が取られることに、だいだいは変
わりが無くなってしまう。それに対して、走り型の踊りルールなら、

玉の囲いを工夫すると、終盤に変化が出やすいと考える

からである。個人的な推定だが、

世界の将棋の著者は、上記の事を知っていて、踊りを跳びの類にするのが、
嫌だったのだろう

と、私は思っている。では、走り型の踊りで行くと、全てが丸く収まるの
かと言えば、

将棋纂図部類抄の行然和尚まとめ部と、世界の将棋の走り型踊りは、残念
な事に、合って居無い

と、私は認識する。世界の将棋が、踊りを走りに弱めようとして考えた
根拠と私が見る

金剛の説明は、実質、将棋纂図部類抄には2箇所に、ミラーサイトのよう
に存在する

のである。つまり、同じ将棋纂図部類抄でも、

摩訶大大将棋口伝部の金剛の説明は漢文で書いてあるのだが、
行然和尚まとめ部の金剛の説明は、古文でカタカナでほぼ同じ内容がある

と、いう事である。しかも、摩訶大大将棋口伝部の金剛の説明を、web
の世界の将棋説の解説部のように、”それぞれ四方三目踊る。ただし1目
めや2目めに、他の駒がある場合には、その駒を跳び越える事ができない。”
と解釈する事が、行然和尚まとめ部からは、出来ない事は、明らかである。
ようするに、

”或四方三目踊不踊一目二目越馬”を、、”それぞれ四方三目踊る。ただ
し1目めや2目めに、他の駒がある場合には、その駒を跳び越える事がで
きない。”と読むのは、語訳

である。なぜなら、行然和尚まとめ部の漢文ではなくて古文から、

”或四方三目踊不踊一目二目越馬”の訳は、”(或イハ四方)三目ヲトル。
一目二目ハオトラズ(間の)馬(ヲ)越(ヘル)”

と読める事が判るからである。従って、webに一部意見が出ている、

大阪電気通信大学説に対する否定的な批判は、恐らく間違い

であって、将棋纂図部類抄にも、踊りが大阪電気通信大学の高見研究室の、
3踊りとは、3という数字(長さ)に、跳べる升目の限定された、跳び型
の説で正しいらしい事が、出ているようだと、私は解釈している。
 
私もゲームをするときには、踊りは弱い走り型が良いと考える人間の一人

だが、そうするには残念ながら、近代の改善という、カテゴリーでの変更
が必要だろうと、今の所思っている。(2018/01/19)

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曼殊院所蔵古文書「将棋馬写」。成り角行の龍馬の馬の崩しが軽い訳(長さん)

2~3年前に、将棋纂図部類抄の15世紀半ばの元将棋図の所持で
名高い、曼殊院で、中将棋の将棋駒の字を習字して、製本した文書が、
公開された。「将棋馬写」という題目で、将棋纂図部類抄の成立から、
そう遠くない、江戸時代初期のころのものかと言う、古文書である。
 中将棋の駒を書写しており、中公新書の「将棋駒の世界」(増山雅人・
2006年)によると、この頃で、中将棋の駒と言えば、水無瀬兼成の
加藤清正保持駒が有名だと言う。そこで「将棋馬写」と、熊本市本妙寺
宝物館保存の水無瀬中将棋駒の、書体を比べてみた。
 成り駒の崩しが、少し違っていて、加藤清正中将棋駒の方が、少し
崩しが強いが、だいたいは同じで、書体のバランスからみて、将棋馬写
の元手本駒は、水無瀬駒と関連のある将棋駒のように、私には思えた。
ただし一箇所、「角行」の成りの”龍馬”の、しかも”馬”の書体だけ、

将棋馬写の龍馬の”馬”が、ほとんど崩されて居無い点が、際立って
加藤清正所持水無瀬駒とは違う

ように見えた。

龍馬.gif

 これが、何を意味するのだろうかと言うのが、今回の論題である。
そこで、何時ものように回答を先に書くと、

将棋馬写の手本となる中将棋の駒は、日本将棋の道具を所持しないよう
な、駒数多数将棋だけ指す専門家のものだった

のではないかと、私は個人的に疑う。理由は、本来

日本将棋を指す人間にとって、この角行の成りの龍馬の字は、桂馬と
紛らわしいはず

だからである。
 しかし、将棋馬写は、恐らく、

桂馬という駒とは、縁の薄い人物の所持品

だったのではないのだろうか。そのため実際に、書道の稽古で、彼の
将棋駒を写したときに、正直に、余り崩されて居無い龍馬が、将棋馬写
の作者によって、書写されたのではないかと私は推定する。
 それに対して加藤清正は、恐らく日本将棋も指したのではないか。
そのため、水無瀬兼成ないし、彼の一族の駒師が、加藤清正用の駒を
作るときには、当時は逆に注意して、今では普通となった、

”馬”がひらがなの、”る”の字のように見える、成り角行の龍馬にした

のかもしれない。
 何れにしても、曼殊院に、中将棋より駒数の少ない将棋を指さない、稀
な駒数多数将棋の専門家が居て、将棋駒を書道用に貸し出す状態だったか
ら、安土桃山時代の末期から江戸時代の草創期頃に、曼殊院には、水無瀬
兼成の将棋纂図部類抄の元になる、曼殊院の将棋図が、保持されていたの
だろうと、私は思う。
 今後も将棋馬写のタイプの中将棋の古文書が出てきたときには、馬の字
に注意してみる必要がありそうだ。(2018/01/18)

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摩訶大大将棋。成りが奔駒に半統一され、新時代駒多数将棋説は誤り(長さん)

大阪電気通信大学の高見研究室の”摩訶大将棋のブログ”には「摩訶大将棋
(以下『摩訶大大象戯』と記す)が、始原的な将棋である」と、繰り返し述
べられている。この高見先生の考えを、ものと人間の文化史、将棋Ⅰをざっ
と読んだ、この世界へのビジターが、私と違って、飛龍の初期段位置で、
高見研究室説を、いぶかしがる事は、恐らく少ないのではないか。
 むしろ、摩訶大大将棋の成りは、

奔駒にまとめられていて、すっきりしており、他の将棋からの進化した形態

と、増川宏一氏が将棋Ⅰという成書で論じ、松浦大六氏所蔵の江戸時代の棋
書、象戯図式の各将棋図の記載が、同じ成書に載っているので、ぱっと見で

なるほどなと思い”摩訶大大象戯は進化して、後から出来た将棋に違いない

から、高見研究室の説は、どうも判らん”と思う方が、実際には多いので
はないかと、私は疑うのである。このビジターの考えは、以下のように間違
いであり、駒数の多い将棋に頻繁に接していれば、このような誤解は

実は起こらない事を

以下示す。というのも、もともと

摩訶大大象戯より、成りが”ごちゃごちゃ”としているのは、大大将棋だけ
であり、かつ大将棋に駒を足すと大大将棋にはなるが、大大将棋に駒を足し
ても、摩訶大大象戯にはならない

のである。つまり、摩訶大大象戯は大将棋に駒を足すと出来るが、

大大将棋は摩訶大大象戯とは、別系統の駒が大将棋に加えられて、作られた
将棋であると言うこと

なのである。具体的に、駒の構成を見てもらえば、上記の事は、少し注意深
い方であれば、万人に明らかな事実と私は思うので、

ここではこれ以上、どうこう言わない

事にする。他方、後期大将棋について、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄が元ネ
タだと認めてもらいさえすれば、”奔駒で半統一され、すっきりとしている”
評されている

摩訶大大象戯よりは、後期大将棋の成りの方がごく単純である。なぜなら、
水無瀬の後期大将棋では、歩兵と酔象と麒麟と鳳凰の4種類しか、成らない

からである。
 ただし実は、将棋Ⅰで、江戸時代の成り改良版後期大将棋を、混ぜ込んで
書いているように、

摩訶大大象戯の成りは、それより更に下位の、中将棋よりは、すっきりして
いる

のである。なぜなら中将棋の成りは、成れる駒の成り先が、全部ばらばらに
なるように、むしろ工夫されており、統一要素は、全く無いからである。
だが増川宏一氏が、成書、ものと人間の文化史将棋Ⅰで、”摩訶大大象戯は、
中将棋に比べて、よって優れた将棋である”とは、力をこめて書いていない。
ので、中将棋だけの例を指摘しても、「摩訶大大将棋が、改良を重ねてでき
た、より後の時代の、完成度の高いゲームである」との論の根拠と言うには、
かなり弱い。
 また更に遡って考えてみると、

”奔の字を、元駒の修飾詞に変えて成り駒を作ると、ルールの判りやすい
成り駒が出来る”との増川氏の指摘は、一般的には、もともと間違い

なのではないか。なぜなら駒名の固有詞を例えば”熊”としよう。駒数多数
将棋の場合、駒の種類数が増えてくると、例えば熊駒であれば、盲熊という
駒種だけでは足りなくなり、猛熊、走熊、熊兵等、いろいろな修飾詞を付け
た駒名を、元駒で作る必要性が出てくる。そのとき、それらの成り駒名を考
えると、

特に動物駒で、そのような例が多いのだが、修飾詞が別々の、複数の同じ
固有詞の駒がある、そのような状況になった場合には、例えば”奔”という
特定の修飾詞1種だけでは、今度は成り駒の種類が、必然的に不足する

のである。つまり上の例では、実際に大局将棋では、猛熊の成りを大熊、
走熊の成りを奔熊、熊兵の成りを熊将とした結果、走熊に成りの奔熊を取ら
れた盲熊に、成り名が無くなってしまい、無理やり(?)盲熊の成りを飛鹿
にするという事が、起こっているのである。ちなみに、摩訶大大象戯にも有
る熊駒以外についても、大局将棋では、たとえば臥龍が大龍に、蟠蛇が蟠龍
に、悪狼が毒狼に、猫叉が龍馬に成り、奔駒は別の駒の成り等に代わる。
以上の事から、

摩訶大大象戯の成り駒名の作り方には、更に時代が進むと限界が出る

のである。よって結論を言ってしまうと、

大大将棋は、だから最初から諦めて、奔駒で成りを統一しなかった

と言える。事実、大大将棋の方が、同じ動物名を固有詞とする駒種が、摩訶
大大象戯よりも多く作られたため、仮にどちらも、後期大将棋から出発して
ゲームを作成したとすると、大大将棋の作者の方が、奔駒による成り駒作り
の限界に、より速く気づく状況に、摩訶大大象戯の成立期よりも後世に、到
達したと推定できる。

よって、同じ後期大将棋に駒を加えて作成できる大大将棋が、摩訶大大象戯
に比べて、成り駒の作り方が、交錯している事だけを見たところで、必ずし
も古いとは言えない

と、いう事になる。
 今回は多少出しゃばりだったかもしれないが。大阪電気通信大学の摩訶大
将棋のブログの”摩訶大大象戯は古い”という論について、補足説明を試み
てみた。何か、諸氏の参考になる点が有ればと期待する。(2018/01/17)

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泰将棋の猛鷲は、なぜ走り駒ではないのか(長さん)

泰将棋の駒に、猛鷲というのがある。個人的には、私が駒の動かし方の
ルールを記憶しようと努力する際、最も違和感を覚える駒である。
というのも、鷲駒は大体大駒で、走りや、走り+跳びの駒ばかり、だか
らである。猛鷲は、例えば水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の泰将棋では、

斜めに2つ点、縦横に歩みのルールとなっている。恐らく斜めには踊る
のであろうが、何れにしても小駒である。

今回の論題は、何が原因で、この弱い鷲駒が出来たのかを、考えようと
いうわけである。そこで、最初に結論を書くと、恐らく泰将棋の作者は、
水無瀬兼成であろうが、

泰将棋の作者が、大大将棋の成立過程で、作りかけが出来ていて、その
中には、今は大大将棋には無い、猛鷲が存在するのを知っていたから

だと私は考える。つまり、

それほど、大大将棋と泰将棋の成立時代は、近い(どちらも、恐らく
安土桃山時代後期)

と、いう事である。ちなみに、”幻の”大大将棋プロトタイプの猛鷲の
初期位置はずばり、

毒蛇の位置であって、成ると鉤行では無いが、それに近い飛車二回動き
型の駒に成った

のだろうと、私は推定する。
 この猛鷲を持つ、プロト大大将棋から、何故”猛鷲”を除いて、新た
に考え出したとみられる毒蛇を入れ、恐らく”プロト”鉤行を、普通の
鉤行に変えたのかが、

問題を解く際の、最大のポテンシャルの高い山

とみられる。極めて理由を解くのは、難しい。が、私がいろいろと考え
て見た結果、このプロト大大将棋のプロト鉤行が、仮に、

”猟犬”という駒名であったとすれば、摩訶大大将棋と同じ、鉤行に
変えなければならない、動機付けは、一応は存在するように思え

てきた。何故なら、

猛鷲の成りが猟犬とすると、大大将棋の成立時代は、江戸時代に近い

と、誰もがイメージするからである。
 つまりこの駒名の組み合わせは、”猛獣狩り”の洒落なのだが。猛獣
狩り、すなわちスポーツハンティングが、例えば室町時代の前期頃に、
日本人に知られていたとは、考えられ難いという事である。それが知ら
れたのは、恐らくヨーロッパに、少数ながら、日本人が行くようになっ
た、戦国時代の末期の頃からに違いない。つまりは、猛鷲が、泰将棋に
残っているという事は、泰将棋の製作者とみられる

水無瀬兼成自身も、当時の時代劇のアイテムのような大大将棋を、作成
するという事をやるにあたっての、時代考証のつじつまあわせに、一枚
絡んでいる疑いがある

という事を、示しているのかもしれない。
 次に以上のような知見に基づいて水無瀬は、プロト大大将棋の初期配
列にある猛鷲を、自分の作成した泰将棋に持ってきたとすれば、猛鷲が
小駒である事が、容易に説明付けられる。何故なら、プロト大大将棋の
時代に既に、

猛鷲は、天狗に成る同じ鳥類の古鵄と、対になるようなルールだったと
見るのが、自然

だからである。なお古鵄も猛鷲も、実はルールの異説が幾つか並存して
いる。だが、たまたま水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の大大将棋の古鵄と、
泰将棋の猛鷲は、どちらも、冒頭に述べた斜めに2つ点、縦横に歩みの
ルールとなり、

古鵄と猛鷲のルールは、そっくり同じ

であり、上記の対駒の推定と合っている。(合いすぎである。)なお、
個人的に私なら、

仮説プロト大大将棋の、猛鷲の(仮説)成りの”猟犬”は、斜めに歩める
鉤行にする

だろう。もともとプロト大大将棋では、水無瀬兼成の泰将棋流のルール
を基準にして、

摩羯が角行二回、天狗が縦横に歩める摩羯。
鉤行が飛車二回、(仮説)猟犬が斜めに歩める鉤行

だったのではないかと推定する。猟犬は、獲物を追って、飛車の動きを
2回するほどにもすばやく動き回り、かつ、獲物を捕らえる寸前には、
八方に翻って激しく動けるイメージのため、上記のルールで、名称とし
ては適切なのではないか。しかし犬を矢で射るのではなく、犬を家来と
して使った娯楽の狩猟が中世までは、日本では余り行われていなかった。
そのため、猟犬を大大将棋の駒として加えると、大大将棋が安土桃山時
代から見て、新しい将棋であるのが、バレるとみられる。そこでそれを
防ぐため、猛鷲~猟犬という駒を作るのを止めたと考えてみる。そして
その代わりに、新たに毒蛇を考えた上で、毒蛇~鉤行という駒を作って、
大大将棋が完成したで、話は合うのではないだろうか。
 しかし、恐らく水無瀬兼成が、その人だろうが、泰将棋の作者は、
プロト大大将棋の初期配列と、構成駒に猛鷲が、古鵄と対になる形で
含まれる事を、プロト大大将棋の時代が、ほぼ泰将棋の成立時代に近く、
かつ作者を、知人として知っていたため、情報を貰っており、たまたま
知っていたと見る。そこで、泰将棋の構成駒を決めるとき、古鵄同様
に、成り前の小駒としての猛鷲が、数を合わせる為に必要になったため、

鷲駒としては珍しく、小鵄並に弱い小駒としての”猛鷲”を、泰将棋で
は導入する事になった

のではないかと、私は推定するのである。逆に言うと、これは今までに
このブログで述べた事が、仮に正しいとすると、繰り返しになるが、

大大将棋の作者と疑われる書道の先生と、水無瀬兼成とが、実は顔見知
りであった疑いが、かなり高い

との推定も、出来るという事ではないかと、私は見ているのである。
(2018/01/16)

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大阪商業大学古作登論文の大局将棋の指し回しについて批判してみる(長さん)

少し前に、大阪商業大学の論文に、古い時代の日本の将棋に関するものがあり、

批判した上、対抗論文を書くべきではないか

という主旨のコメントが、本ブログのコメント欄に記載された事があった。
 本ブログでは、大阪商業大学の古い時代の日本の将棋に関する、たとえば
古作登氏の論文には、

学ぶべき事柄が多い

との立場を取る。従って、否定的に批判した上で、私が対抗論文を書くのは、
基本的には困難だ。しかしここでは、無理にその例外を探すとすれば、上記
表題のカテゴリーの事柄が、古作登論文に書いてあり、

大局将棋は”何時果てるともない、必要手数が超長手数となる欠陥を持つ
将棋である。”

との旨の主張、つまり、”600手も経過しているのに、勝負の先行きは
全く見えず、指し手の善悪よりも早く駒を減らして、わかりやすい局面に
したいという気持ちだ”等との、苦言の記載がされている点について、

私は反対する

と、意見を述べて見た上で、その内容を論文にするべきかどうか、ここでは、
判断してみる。なお上で述べた古作登氏の論文とは、”大局将棋考案の背景
と創作過程に関する考察──各種大型将棋との比較と天竺大将棋の影響、
なぜ804枚の超大型将棋が作られたのか(大阪商業大学 2017年)”
である。結論を述べると、

反対だという立場の論文は、特に書かなくても良い

と私には思う。理由を最初に述べてしまうと、日本将棋の

セミプロの古作登、日本将棋の奨励会三段の、特定の対局におけるゲームの
差し回しを個人が批判するのなら、自分のブログで、意見内容を書けば良い
程度

だと、私は考えるからである。たとえば、

「○○プロ棋士×段の、今回の△△戦における、あの戦術で、第□□手目の
あの手については良かった」という内容を、○○プロ棋士×段ないし、別の
学者が、何らかの学術論文で表明していたとする。だからといって、その手
が悪手だと感じた、特定の将棋愛好家が、”その手は悪手だ”との旨の表題
で、対抗の学術論文を書いたという話は、余り聞かない

と、私は認識するからである。ブログか、仲間との話とか、将棋関係の同人
誌に、個人的意見として書く程度なのではないのだろうか。
 そこで次に本題に入ると、大局将棋の古作論文についての、古作登氏の差
し回しだが、書いてある内容から見て、

日本将棋の奨励会三段の古作登氏は、大局将棋については”ヘボ大局将棋”
しか、指せない程度の棋力だったのではないか

と、私は疑っているのである。理由は私が、

開始早々、端列から2列目の、歩兵の下に横猿のいる列の、その今述べた
歩兵(左右二箇所)の所で、左右二枚の車兵か飛鷲を、できるだけ多数成ら
せて四天王と大鷲を作り、敵玉ならびに、敵太子を、生き埋め状態で捕獲
する手が、急戦戦法として、大局将棋では自明に存在する

と、wikipediaの、”大局将棋の成り駒についての説明”の
中に出てくる、”序盤の戦法”は正しいと、私も認識しているからである。なお、
端列の隣の列の頭を、成るための突入用の位置として狙うのは、日本将棋の、
角頭の歩兵と実は一緒で、駒数多数将棋では、昔からこの列の守りが、
軟弱である事が多いためである。つまり端筋の隣筋は、

慣れたらノータイムで反射的に、チェックしなければならない、自駒の成ら
せ所

だと、私は認識するのである。なお少し前に、大局将棋のような初期配列で、
本ブログで引き分け必然になるような、ゲームに言及した。しかし、あのと
き言及したゲームは、走り駒だらけの、奔鉄駒過剰将棋であったから、

成ると駒を全く制限無しに全部飛び越せる、四天王とか、霖鬼、大鷲、大鷹
となる、車兵や角将、飛鷲、角鷹のある大局将棋とは、類が根本的に違うと
私は見る

のである。他方玉将や、太子は、大局将棋の初期配列では身動きができな
いので、仮になんらかの方法で、車兵や飛鷲等を成らせて四天王と大鷲を
作ると、これら玉将と太子の計2種類、2枚の玉駒に王手を掛ければ、
すなわちこのケースは必死であり、王駒を2枚とも倒せば、大局将棋で
は、相手が負けになるのである。
 従って序盤で、陣の上の方の浅い位置に居り、八方が障害物の全く無い
跳び駒、四天王に成る車兵と、縦横斜め後ろの六方に走り、斜め前が、
同じく障害物の全く無い跳び駒の大鷲に成る飛鷲は特に、敵陣のどこかの

先頭の歩兵の位置で成らせるのは、大局将棋の序盤の定跡手であって、
急戦狙いの緊迫した手

だと、私も思う。しかし、古作論文を読むと、彼の大局将棋に於ける差し
回しは、第600手前後の、かなり進んだ局面で、

”何時果てるとも知れない、(単純に駒の相討ちをし合う)大局将棋を
指した”

ように読めるので、対局相手は不明だが、両者がwikipediaの、
”大局将棋”の記載等を参照して、

何でも跳び越せる四天王や大鷲を早く作ろうとやり合って、序盤から激しい
やり取りがあった

とは、少なくとも私には、読み取れないのである。つまり、古作氏に関し
ては、上のweb上でも有名な、大局将棋の序盤定跡を忘れた、初心者的
な大局将棋を、

少ない局数だけ指して、”大局将棋に飽きた”と苦言を述べただけ

か。あるいは、最初から、超長手数になるというのが、大局将棋の、日本
将棋のプロの間や、遊戯史界での常識だったため、当たり障り無く、

反対者の出にくい説を、述べてしまうのが、最初から”ありき”だったのか

の、どちらかだったのではないか、と私は疑う。つまり私が、古作登氏が、
彼自身で指したと論文で表明した、大局将棋の対局に関して、戦い方に
ついて、否定的に見ているという事である。
 しかしながら、以上のような私の批判内容の領域は、

はたして、対抗論文として書くような、カテゴリーのもの

なのであろうか。私は高々将棋雑誌のコラム程度に、有名棋士の、日本将棋
以外のゲームでの、展開についての”笑い話”としてでも書けば、済むよう
に思うのだが。というのも、

以上のような内容は学術論文に書いても、強い大局将棋棋士を生み出しは
するが、より賢い学者を量産するという効果に、必ずしもつながって居無い

のではないかと、私が疑っているからである。(2018/01/15)

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中将棋指南抄先獅子。付け喰い/先獅子優先の日本人/外人組の勝敗(長さん)

前回、中将棋指南抄の、先獅子のルール表現をとった場合、先獅子規則が
適用されるような、別々場所での獅子の取り合いのようなケースは、
中将棋連盟の規則と異なり、後攻め側付け喰いでも、先獅子が優先されて、

付け喰い、先獅子が、混合して起こるケースには、外国の中将棋愛好家の
”先獅子優先”の解釈が、基本的には、正しい

のではないかと述べた。
 しかし、中将棋の指し方記載の、付け喰い説明部の「この場合」が、
「先手が動かした獅子を取り返す場合」には、先獅子が適用されないケース
と、本ブログ独自の解釈をするため、そのケースで「獅子をうつ」になった
場合は、先獅子ルールは関係なく、つなぎ駒で、ただちに取り返せているの
だろうと、岡崎七段の中将棋の指し方の、「獅子をうつ」を、本ブログ独自
の解釈をしてみせた。
 今後半で述べたのは、「獅子をうつ」となるケースであったが、これが、
「獅子をうつ」ではなくて、「付け喰い」の場合も、先手が先に繰り出して
来た獅子を、付け喰いで、成り寸前の麒麟が取る(稀な)ケースでは、
先獅子ルールが適用されない事には、変わりが無いのではないかと、私は
考える。
 単に適用されないためだけなのだが、獅子の取り合いと言う点では、最後
に述べたケースは、先獅子に対して、付け喰いが優先したようにも見え、
そのように”誤解”すれば、中将棋連盟ルールが正しいようにも、見えるの
であろう。
 以上言葉で述べたのでは、極めて判りにくいので、簡単に例を出して説明
してみる。
 まず、前回のべた外人中将棋愛好家が”勝つ”、付け喰いに、先獅子が
優先するのは、下のような局面とみられる。つまりこの後、上段の獅子↓を
横の↑側の端の獅子↑で、横向きに動いて、銅将↓、獅子↓と取り、次の手
で後攻めになった方が、最下段の↓側の獅子で、同じく横向きに動いて、
銅将↑、獅子↑と、互いに取り合おうとした場合である。なお、敵陣に食い
込んでいるのは両者とも成り麒麟、自陣の近くに居るのは、もともとの獅子
であると考えよう。

 横行↓ ・・・・・・獅子↓ 銅将↓ 獅子↑
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 獅子↓ 銅将↑ 獅子↑・・・・・・・横行↑

この場合、↓側は、中将棋指南抄流には、先獅子の規則が優先適用され、

1手置いてからでないと、上図の最下段に、ここではなっている列での、
付け喰いが出来ない

と、私は考える。
 次に、中将棋連盟ルールの通り、中将棋の指し方流の記載での、付け喰い
が、”先獅子”に優先するように見えるケースは、次のような局面である。

 獅子↓ 不成猛豹↑ 獅子↓ 空升目 麒麟↑・・・金飛車↑

なおこの列は、↓の陣内とする。

このケースは、まず右側↑側の麒麟で真ん中の↓の獅子を取り、麒麟↑は、
獅子↑に成るとする。その際、先獅子の規則が適用されると、左端の残った
獅子↓(成り麒麟↓)で、返しで獅子↑を取れない。が、もともと、この
ケースは、先獅子の規則が、中将棋指南抄流では、動いた駒、麒麟の、更に
成った獅子には適用されないケースのため、付け喰いはできると解釈する。
すると、”中将棋の指し方”流に観察すると、

あたかも付け喰いが、先獅子に優先されたかのように見える

ケースとなる。つまり本ブログでは、先獅子と付け喰いは、見かけ上だが、
優先が条件により逆転するようになるとの、立場を取って居るという事で
ある。
 以上で説明を終わるが、中将棋の駒の動かし方の制限ルールの話題に
ついては、この大将棋のブログでは、前回と今回程度にし、これ以上、
連続しては、議論を続けない予定で、今の所居る。(2018/01/14)

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中将棋、先獅子の規約。岡崎史明氏記載と、中将棋指南抄の優劣(長さん)

西暦1970年頃に発行された、将棋棋士で亡くなられた、岡崎史明七段
の”中将棋の指し方”には、獅子の規則という名称で、(A)から(C)
という項目名で、中将棋の”駒の動かし方の制限規則”が記載されている。
 他方、ものと人間の文化史23-1の将棋Ⅰにも、元禄時代の文献で、
中将棋指南抄に書かれた、”駒の動かし方の制限規則”が、”イ”から
”ホ”の項目名で、記載されている。
 実は両者を比べると、

説明の順序と、”つなぎ駒の付いた獅子を獅子で取るメイン規則”の表現
は、岡崎史明氏の記載の方に、正確さの点で軍配が上がる

と、個人的には見ている。たとえば、獅子は隣接升目の獅子を取った後、
何処に逃げても、相手の駒で取られてしまうような、走り駒が交錯して
利いているような場合は、それも禁手なのではないかと、私は疑ってい
るから等である。
 ここではむしろ、敢えて岡崎史明氏記載で、中将棋指南抄より、劣って
いると私が見ている、先獅子の規約だけ取り上げる。岡崎氏の記載は、
ほぼ次のようになっている。
 「敵の獅子に味方の駒が当たれば、これを取る事が出来る。

この時、敵の駒が味方の獅子に当たっていても、足(つなぎ駒)のある
場合は直ちに獅子は取れない。

一手間をおいてからでないと取れない。これを先(せん)獅子という。」
 次に、中将棋指南抄の増川氏の訳の説明は、ほぼ次の通りである。

「双方の獅子が尻駒に当たれば、先手から獅子を取る。後手はその次の手
で獅子を取る事が出来ず、一手置いてから取る事が出来る。」

つまり、先手の獅子に繋ぎ駒が必要であるという点を、中将棋指南抄は
落としており、その点では、岡崎氏の方が確かに正しいのかもしれないが。
しかしそれ以外に、

岡崎氏の記載では、”先手が獅子を取った時点の局面”を問題にしている

のに対し、

中将棋指南抄では、”これから獅子を切りあおうとしている局面”を論の
出発点にして説明している

点も、違うのである。

私は、中将棋指南抄のこの、局面の設定方式の方が判り易い

と、個人的には考える。なぜなら、岡崎記載では、先獅子の規則の適用範
囲が見えず、適宜拡大解釈すると、

自身の繋ぎ駒を背に、突進してくる相手の獅子に対する、自分の獅子に関
しては、繋ぎ駒が存在しなくなってしまう

からである。つまり、何時も一手置いてから取らなければならないのなら、
一見すると獅子に、特定の駒を利かせているように見えても、その特定の
駒は、相手の獅子につなぎ駒があり続けると、その相手の獅子を、次の手
では取り返せないので、つなぎ駒では無いようにも、

岡崎方式だと、誤解が生じる懸念がある

と、私は考えるからである。それに対して、元禄時代の中将棋の本である、
中将棋指南抄なら、

前の手で動かした駒には、それが獅子である場合には、その獅子に対して
は、先獅子の規則は、適用されず、獅子を取らそうなため、合い取りしよ
うとして、苦し紛れに仕掛けた、八つ当たりの犠牲者の獅子に関しては、
先獅子の規則が適用される事が、はっきり見えてくる

のである。その結果、岡崎史明氏が、うまく構成して、付け喰いを次の
項目で持ってきた結果、”付け喰いした獅子は、直ちに相手の駒で取ら
れる”獅子討ちの規則が、先獅子の規則が適用されるパターンの、そも
そも範囲外で、あるため合法である事が、

中将棋指南抄のように、適用範囲を具体的に絞れば、はっきり判る

事になる。なお、外国の中将棋愛好家と日本とで考え方が違うらしいのだが、
この事から、

中将棋の駒の動かし方ルールの制限則のうち、直前手で使われない獅子に
関しては、先獅子の規則が、恐らくもっとも高いプライオリティで、適用
されるらしい事が、ややぼんやりと見えてくる(外人組に、軍配が上がる)

という事も有るのかもしれない。実はここを押さえると、(1)幾つかの
規則要素が重なっていたり、(2)「成り麒麟がつなぎ駒となり、制限規則、
それ自身が、つなぎ駒か否かの、”つなぎ駒適格性”を決めているような、
トートロジィ模様」の厄介なケースに、

その駒の動かし方が、制限されるのか合法なのかを決定する、手がかりに
なるケースが多い

と、私は考える。こと先獅子の禁手に関しては、

岡崎史明七段は、中将棋指南抄の先獅子規則を、単純になぞった上で、
先手八つ当たり被害の獅子には、繋ぎ駒が必要である点を加えた方が、
更に良かった

のではないか。そうしていれば恐らく、”付け喰い”の項で、彼が”獅子
討ち”が、「直ちに出来る」事を、説明するために、”この場合”と書い
ている、「その」場合が、いったいどういう場合の意味なのかが、
現在のゲーマーには、より適切に伝わったのではないかと、私は現在疑っ
ているという訳なのである。(2018/01/13)

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将棋纂図部類抄。中将棋図跡注記部の中将棋の鳳凰ルールの謎(長さん)

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、中将棋の成り馬配置図の後ろに、中将棋
の駒の動かし方のルールの注記部があり、鳳凰のルールで、”斜め跳びで
あって、大将棋の飛龍の、斜め動きのルールでは無い”と、書いてある。
しばしば議論になるフレーズで、本ブログでも、既に2~3回言及してい
る。なお水無瀬の時代は、安土桃山時代の終わり頃であり、日本将棋が、
かなり盛んになり、中将棋も、まだ彼ゆかりの大阪では、盛んに指されて
いた時代である。つまり、

大将棋で始めて現われる飛龍よりも、鳳凰の方がポピュラーな駒だった
時代

という事である。この時代、将棋の愛好家は鳳凰のルールを、ほぼ知って
いたとみられる。それに対し、飛龍のルールは、ほとんど知られていなか
ったし、実は、

将棋纂図部類抄自身にも、飛龍についてきちんと書いた記載は無い

位なのである。ではなぜ、

水無瀬兼成が、判りきった鳳凰の駒の動かし方のルールに関して、自書で
は未定義な、中身不明な事柄との差に”意味不明な言及”を敢えてしたのか

という”そもそも論”が、今回の論題である。
 そこで、これについても、最初に回答から書くと、
 水無瀬兼成も、鎌倉時代草創期の二中歴の平安大将棋の記載を読んでいて、

二中歴大将棋の飛龍の斜めの動きと、鳳凰のそれとの差が、気になってい
たから、比較を記載する事に思いついた

のでたまたま書いたと、私は考える。なお私の認識によると、実は”時代に
より飛龍のルールは変化した”が現在の定説であり、しかもその内容は、

二中歴の平安大将棋の飛龍の斜めのルールと、鳳凰の斜め跳びのルールとは
同じという意見が、現在の遊戯史界では、かなり強い

と見ている。ちなみに、二中歴の平安大将棋の飛龍の斜めのルールは、

四隅超越

と書かれている。現代の漢和辞典を任意に引くと”超越は、跳び越えるの
意味で使われる事が有る”と、書いてあるので、

現代の遊戯史研究者は、意味が通る、この解釈をする場合が、かなり多い

と、私は認識しているという事である。なお、私の、飛龍四隅超越は、

飛龍は斜めに、全ての升目数の場合について、それを越えた升目数の所
を、超えて進む

と、数学の、無限大の極限の定義流に解釈している。ので、角行の動きだと
思っている。
 私の推定によると、この2つの解釈が、実際にもずっと並存したらしく、
そのため、以前述べたように、私的な説だが、

後期大将棋では、飛龍が走り駒列に、室町時代初期に置かれた

と見ている。つまり、飛龍は角行動きだが、二中歴大将棋の飛龍のルール
記載は、2つの解釈が残ってしまうような、曖昧な書き方であるという点
については、私も認めるという事である。
 以上ごちゃごちゃ書いたが、結局の所

水無瀬兼成の言う、鳳凰飛角不如飛龍は、元々ウソだ

と、私も思っているという事である。
 水無瀬兼成が、自書で定義済みの事柄に関して、論理的に述べるとすれば、
鳳凰のルールは、

鳳凰飛角不如力士

と記載して、飛龍や力士が、安土桃山時代の末期には、平安時代末期の跳び
ではなくて、”升目数が1通りだけに限定される踊りルール(飛龍は2、
力士は3のみ)”に変化した事を、示さなければならなかった、はずである。
 なお、この部分の水無瀬の記載について、遊戯史界で現在、私が今のべた
ように、苦言を呈する事が無いのは、安土桃山時代の時点で、

飛龍と猛牛は、斜めと縦横の違いはあるが、似たルールの駒

であると、ほぼ皆が仮定しているからである。ただし”踊り”の定義が、
まだ固まっておらず、ここでは大阪電気通信大学解釈を、仮に取っている位
であるから、”同床異夢”だが。しかし、水無瀬の将棋纂図部類抄録を、
良く見ると、猛牛のルールは、大大将棋では大局将棋に似ているし、
摩訶大大将棋口伝の、猛牛の記載だけを見て、飛龍の8打点の意味を、正確
に理解せよというのは、

現在の学会の主張は、やや弱い

ような気も、私にはする。
恐らく、二中歴の平安大将棋の飛龍は、跳び駒、水無瀬兼成が製図した、
将棋纂図部類抄の後期大将棋の飛龍は、「2踊り隣升目には行かない」の
つもりで、水無瀬兼成も書いている可能性も、有るのは確かかもしれない
のだが。水無瀬が中将棋成り駒図後、注釈部に書いた、中将棋の鳳凰の
駒の動かし方のルール記載から判る事は、厳密には、たとえば

後期大将棋の飛龍のルールではなくて、水無瀬兼成が、恐らく二中歴を
読んでいる

という事実だけではないかと、私は最近推定するようになったのである。
(2018/01/12)

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