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日本の桂馬は、なぜ塞馬脚ルールを導入せずに済んだのか(長さん)

良く知られているように、中国のシャンチーと、朝鮮半島のチャンギの
馬や象には、塞馬脚という、駒の動き等を制限するルールがある。確か
に日本の桂馬は、シャンチーの馬やチャンギの馬等とは異なり、2方向
動きであるため、この制限ルールは過酷である。従って、シュンチーの
馬のルールが、たとえば鎌倉時代の中期に、日本人に知らされても、
平安小将棋には、たまたま熟慮により導入しなかった可能性も、完全に
は否定できない。しかし当時、何でも大陸の模倣をしたはずの日本人が、
桂馬跳びに関しては、宋や元王朝の模倣ではなくて、チェスと同じく、
桂馬の自由跳びを、結局選択したのには、何か隠れた情報が、ひょっと
して、存在する事を示唆しているのではあるまいか。
 そこで先ずは、考えうる事を回答として書くと、

イスラムシャトランジの情報は、鎌倉時代の後期、元王朝との交易の時
代には、日本にも入っていた

のではないかと、推定されるという事がある。なお、イスラムシャトラ
ンジの、ナイト駒のルールは、モノと人間の文化史「チェス」、
増川宏一著によると、11世紀に、次のように表現されたと私は聞く。

「1つ跳んだ向こうの2つ目の升目の、直ぐ縦横に隣接する升目に跳ぶ」

つまり、二中歴の平安小将棋の、桂馬の動きの説明である、「前に一つ
前進した所から角へ、途中を1升目跳び越える。」は、中国シャンチー
流の表現であって、西洋チェス系のナイトのルールの表現形式ではない。
しかし、

以下の理由で日本人は、八方馬のルールが、チェスのナイト形式で表現
できる事を、元王朝の時代の頃に、大陸から学び得る可能性が、かなり
高いと考えられる。

理由は、イスラムシャトランジ時代の、チェスのナイト形式の、ルール
表現方法だと、「1つ跳んだ向こうの2つ目の升目」が、斜め進みだと、
実際には、ナイトの行き所は16箇所のようにも思えるのである。そし
て、朝鮮半島の現在のチャンギの象と、チャンギの馬を足すと、その
16箇所のポイントになるのである。つまり、朝鮮半島のゲームデザイ
ナーは、アラブシャトランジのナイトのルールの、

表現形式を知っていて、チャンギの確立者は、結果チャンギの象を、シャ
ンチーの象/相から、変化させる事ができた可能性が、相当に強い

と、言う事である。つまり、

朝鮮半島には、恐らく元王朝時代には、イスラム文化がかなり入ってき
ていて、朝鮮半島から日本にも、そのイスラム文化は、更に流れる可能
性が強かった

と、考えられるという事ではないだろうか。
 ようするに、平安末期から鎌倉初期の日本人と異なり、鎌倉時代末期
の日本人は、平安小将棋の桂馬のルールが、2通りで表現できる事や、

中国シャンチー等に塞馬脚ルールが有っても、桂馬の動きが合計2升目
のどちらかにしか、行けないルールの場合には、イスラムの将棋ゲーム
のように、塞馬脚ルールを敢えて選択しなくても良い事にも、容易に
考えつけた

と考えられるのである。そして、実際に、アラブシャトランジの馬の、
前方の2方向の動きに、結局、日本の桂馬のルールは固定される事に、
なったのであろう。ところで、アラブ・シャトランジの知見が、
日本にも、鎌倉時代末期の、日元貿易の盛んな頃に、入ってきていた
とすれば、

金将の動きが、猫叉の動きに変化する危険性もあった

とも、考えられる。しかし、日本にイスラム文化が幾らか入ってきた
にも係わらず、各種の平安小将棋(持ち駒有り・無し型)の金将は、
猫叉動きにはならなかった。これは、歩兵が金将に成るというルール
に、当時の日本人の将棋の棋士が、愛着を持っていたからではないか。
つまりこのケースは、

日本は島国なので、古い金将という近王型の駒文化が残ったというよ
りは、歩兵の金将成りルールに、日本ではたまたま人気があったので
大臣駒が、猫叉型に変化しなかった

という事情だったのかもしれない。以上のように最近になって私は、
以前の”文化人類学の純粋学術的な論”を、日元貿易の隆盛の話を聞き、
縄文時代等と中世との差から、むしろ個人的には疑問視するように、なっ
て来ているのである。(2018/01/05)

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