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徳島県徳島市川西遺跡出土駒の内訳(長さん)

個人的にうっかりしていたのだが。現時点で、2009年前後に
奔横駒が出土している、徳島市近郊の川西遺跡で、将棋駒が何枚出土し、
内訳がどうなっているのか、私は個人的に、正確に把握できていなかっ
た。
 前に調べた事があり、かなり多数の小将棋の駒の中に、奔横が一枚
混じって出土したという話のような印象を、私は少し前まで持って居た。
しかし、さいきん江戸東京博物館で公開された、川西遺跡の出土駒出展
の記録等によると、

奔横駒一枚、恐らく裏無地の金将駒2枚、無地駒1枚の、合計4枚だけ

であると、大概のwebサイトには記載されているようである。歩兵駒
等も有ったような記憶が、うる覚えだがあったが、私の勘違いだったら
しい。が結論として、こんなに枚数が、少ない話だったのかどうか、
私には8年前頃の話を、良く思い出せない。
 駒の写真の載っているサイトの、その写真を見ると、無地駒はだいた
い金将位だが、金将よりも少し大きく、それに対して奔横駒は、跳び
ぬけて大きい。

無地駒については、私のぱっと見では、玉将を製作しようとした

ように、たとえば中尊寺近郊の、出土駒のパターンからは見える。
出土駒の数が少なすぎて、はっきり断定するのは、とても無理だが。
一応江戸東京博物館出展品を、見たとしたら、枚数がこれだけだと、

小将棋とその当時の大将棋の兼用品

だと、私はイメージとして作るに違いない。大将棋の駒は、やや大きさ
が釣り合わないが、後から付けたしのイメージである。ちなみに、

金と奔横の間の大きさで、金に近い大きさに作る駒は、玉将位

しか、思い当たらないので、玉将は、小将棋をするときだけ、最大の
大きさの駒になり、私の”付けたし説”が成り立つ。

飛龍、横行、猛虎等は、有ったとすれば、やや小ぶりに、細長く作る
ような感覚

が、他の場所から出た駒から、個人的には有るのである。
 なお、ここでイメージしている大将棋は、本ブログの見解によれば、
徳島川西大将棋とでも言うべき、歩兵が四段に配列され、奔横が中央
の、平安大将棋の横行の前の升目に、加わった仮説でしか無い未知の
将棋を指す。従ってここでは、平安大将棋が、後期大将棋へ少しずつ
進化して、到達した事を示した、

”奔横”駒は、大将棋研究史上、跳びぬけて重大な史料の発見

と、本ブログでは、位置づけられていると、言う事である。
 なおマスコミの一部には、この”奔横は奔王の当て字だ”との、現在
有力な説が書いてある場合がある。本ブログでは、川西出土駒の時代に、
奔王駒は存在しないと見る。根拠としては、

”当て字”で駒名を書く例は、少なくとも元駒に関しては他に例が無い

という点が挙げられる。
 また、今では余り聞かない説だが、川西出土駒が”中将棋の駒である”
と書いてある、マスコミ記事があるようだ。これについては、舌足らず
な記事だと、私は思う。なぜならその文面の中に、共出土した

金将の裏が、どうなっていたのかについて、記載が見当たらない

からである。中将棋なら金将は飛車に成り、草書体で飛車と、2枚の
金将の裏に書いてないと、おかしいからである。
 ともあれ、この4枚だけだとすれば、

これらが川西遺跡時代(鎌倉中期、西暦1230年前後か)の大将棋
専用の駒群

だと言われても、余りに奔横以外の駒枚数が少なすぎて、はっきり否定
もできない事に、なっているように思う。(2018/01/27)

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