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雲南博物館所蔵品を見て気がつく、その他の事(長さん)

少し前に、雲南博物館に所蔵されている大理市三塔出土のミニチュア仏が、
鎧等の武具の材料を名前にしていない、左将、右将を除いて、泰将棋の
将駒全種類について、素材が同じものが揃っている点を、指摘した。web
のサイトには、そのとき私が”現存しない”とした、塑製の仏(土仏)も、
出土していると記載されたものもある。今の所、カタログ等で、個人的に私
は、土将に対応する、大理国の土仏の像は確認していない。
 さてその他、雲南博物館の所蔵品カタログには、本ブログの言う、
(仮説)普通唱導集大将棋等に関連して、次の情報がある。すなわち、

青銅の鋳造品として、時代は宋よりずっと古いものだが、牛、虎、猪等が、
”獣同士の喰い争いをしている様子を描いた姿”として造形された物がある

というものである。時代は大理国の時代よりもずっと古く、物によっては、
漢代以前に遡るものであるとの話である。また、出土したのは大理市等では
なくて、全体として、雲南省か、中国南部で製作された物とされる。なお、
同一系統の鋳造品で、
人、特に簡単な武器を持つ群集のような集団が、多人数で争っている姿を、
彫ったように見える造形物も、雲南博物館カタログには併せて載っていて、
これらが将棋系のゲームとの関連性を、多少だが匂わせる。
 元に戻すと、今述べた”動物同士の争いの造形品”で大事な事は、少なく
とも日本に来ている、雲南博物館のカタログには、十二支のうちで、
鼠、兎、蛇、羊、猿、鶏、犬が、他の動物種と喰い争いをしている形のもの
の数は、目立たないという事である。
 この中では蛇が脇役で素材となり、ヤギはヤラレ役、猿が一例ある。が、

鼠、兎、鶏、犬は、今の所見当たらない。

つまり、龍と馬も実は無いので、これらは別格で加わっているとすれば、
普通唱導集時代の大将棋に有ったと、本ブログでは、独自に推定する、

猛牛、猛虎、嗔猪に対応する動物に関して、喰い争いの立体造形の数が多く

て、十二支で、その他の動物、たとえば鶏や犬が、他の動物と、喰い争い
しているものが、日本に来ている、雲南博物館の遺物の展示品に関して、
余り紹介されていないように、見えるのである。なお、十二支以外では、
ヤラレ役で鹿が多く、後期大将棋の狼と、虎と区別がつきにくいが豹が、
後二者についてはかなりの数、摩訶大大将棋等の熊と見られる物が、1つ
有り、猫は無い。
 つまり、時代は北宋より古いわけだから、こうした青銅品は、

置物として、たとえば大理国の宮中に、かつて飾ってあった可能性も有る

と、言う事だろう。どこで、どうして日本人が、それを知ったのかは謎だが、
普通唱導集大将棋や後期大将棋の作者は、大理国の宮中で、動物が闘争の図
として登場し、かつそうした造形物の美術品で使われている主な動物が、
虎、狼、豹、そして、やや

雲南博物館の出土遺物の、数の多さが不思議だが、牛と猪である

事を知っていたようだ。そして、既に平安大将棋に有った、龍や馬は別と
して、また虎は、だぶってしまうが、牛、猪、狼、豹だけを、新たに
選択的に、それ以前の大将棋に対して加えたことを、匂わせているようにも、
私には見える。
 そもそもどうして、中国南部にも、中央アジア起源との解説のある、
”動物闘争図”を、立体美術品の素材として使う文化が有るのか、私には
不明だが。雲南省博物館の、以上の展示品については一応、事実として記憶
だけは、しておこうかと、私は考えている。(2018/02/18)

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興福寺ではなぜ11世紀、40年以上酔象有将棋が公然と指せたのか(長さん)

良く知られているように、現在、興福寺からの11世紀の酔象系出土品
としては、2品知られており、習字木簡が西暦1058年頃、不成り駒
が、西暦1098年頃のものとされる。つまり本ブログの論だと、
興福寺では、象駒が一枚残った、大理国の王室将棋のルールである、
8升目32枚制平安小将棋(原始型・取り捨て型)が、西暦1058年
ころから、西暦1098年までの、40年間以上、指されていたと言う
事になる。なお酔象駒の成りルールは、駒の遺物の方から、不成りと、
本ブログでは一応推定している。動かし方は、この酔象は、7方向歩み
ではなくて、大駒、恐らく角行の動き、すなわち10世紀の、四人制チャ
トランガ”象”類似のルールであろうと、本ブログでは、独自に考えて
いる。
 また一段目の配列が、香、桂、銀、玉、金、酔、桂、香で、酔象が、
右銀の代わりに入る以外、8升目型の、一般に推定されている、32枚
制の原始的な平安小将棋と、初期配列は、いっしょである。つまり、
この頃はまだ、標準的なチャトランガ類と同じく、

酔象は、玉将の前升目ではなくて、象-馬-車、の袖配列の象だった

筈である。ともあれその結果、ゲームは、象が入る事により、8升目の
原始平安小将棋よりは、小駒の消耗が増え、裸玉勝ちが、少し少なくな
り、本来の、正常な玉詰み将棋に、だんだん戻ってゆくような方向の変
化を、多少は、したのだろうと、私は推定している。
 更に本ブログの見解によれば、この西暦1058年から1098年ま
での40年間で、西暦1080年頃に、初期院制派の大江匡房等の進言
により、「酔象は取り除くべき」との、白河天皇の詔等が、発布され
たと見ている。ところが興福寺からは、西暦1098年ころに、酔象駒
が、相変わらず使われたために、実際2番めの証拠の駒が、出土してい
る訳だから、

初期院制派や白河天皇の命令は、結局、興福寺の僧等には無視された

と、当然推定する事が、出来る訳である。では、なぜそのような”大そ
れた事”が、興福寺には平然と出来たのかを、今回は論題とする。
 そこでただちに回答を書くと、その時代既に

興福寺は独立して大きな武装勢力を伴っており、中央の命令は無視して
も怖くはなかった。特にこの時代は、その管理者のトップが、院政派と
争っている、そこの有力檀家等である、摂関派の藤原家の長者であった
ため、当然、初期院政派の、大江匡房等の進言により標準化された、
9×9升目36枚制の標準型平安小将棋(取り捨て)型が、該寺内で
指される訳がなかった

からだと、本ブログでは考える。
 以上の論は実際には、私のつたない、通俗日本史についての知識から
割り出した。が、私は歴史の専門家ではないので、以上の仮説が日本史
の常識に照らして間違っていたら、ただちに論を、取り下げる事にした
い。
 なお、9×9升目36枚制の標準型平安小将棋の特徴は、酔象が無い
以外に、もう一つある。それは玉将を使わず、玉駒は、

彼ら初期院政派が、西暦1080年前後に発明した”王将”である

という事だと、これまた、本ブログで独自に、見ているという点である。
従って将来も、興福寺からは、古代末期の遺物としては、

”王将”と書かれた駒が、一枚も出土しないはずだ

と言うのが、

本ブログに、特徴的な予想

でもある。興福寺から今後、平安時代の将棋駒として、王将が出土して
しまったら、以上の論を直ちに、取り下げる予定である。(2018/02/17)

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小山義政祈祷寺。埼玉県久喜市鷲宮神社領、旧大利根町円満寺の調査(長さん)

栃木県小山市の、裏金一文字角行出土駒関連の南北朝時代の武将で、小山
城(群)を本拠地としていた、小山義政は、埼玉県久喜市、当時の太田荘に
ある、鷲宮神社の守護者であった。彼は、鷲宮神社の社殿を、再興した記録
が残り、また彼が神社に奉納した、刀が現存する。その埼玉県久喜市の鷲宮
神社には、かつて、埼玉県加須市(旧大利根町)北大桑に、神社の領地が
あり、そこを、小山義政が死ぬまで、彼専用の祈祷所に使用していたという
話を、私は最近webで聞いた。現在は、円満寺という名称の、真言宗の寺
となっており、毎年2月18日前後に祭りがあるという。そしてその時には、
小山義政が拝んでいた、千手観音ともみられる、そこの仏像が、年一回だけ
開帳されるとも、そのwebのサイトでは、紹介されている。
 個人的にこの話は、最近のwebの情報から、初めて気がついた話であっ
た。そのため、”千手観音の開帳”には早いが、気づいて、文献の予備調査
後、ただちに現場へ、様子を見に行って来た。下の写真は、寺の門の傍らに
建つ、近代の作と見られる、寺名を掘り込んだ石柱である。

大利根円満寺.gif

入ると、円満寺の、千手観音の説明書きの立て札が、さっそく目に入る。埼
玉県加須市と、栃木県小山市とは隣接していないが、太田荘をも支配した、

摩訶大大将棋の駒のような、不思議な将棋駒を出土させた、その小山義政に
関連する場所である事は間違いない

事が判る。

円満寺立札.gif

 すぐ横には更に石の板碑があり、寺の説明書があり、中身で重要なのは、

”小山義政の乱後、寺に義政の遺品が奉納された”と書いてある点である。

”毒を盛った匙”とは、矢に塗る道具の事なのか、私には良く判らないが、

概ね武具であって、将棋道具の記載は無い。

縁起.gif

 窓から寺の本堂内部を覗くと、開帳される千手観音とは違って、立像の
代理仏があり、千手観音とは何たるかが、判るようになっていた。また横
に写真のように、馬の木彫の像があった。本堂の内部を、更に良く見ると、

千手観音.gif

馬の模型が、計3~4体あるようで、”左馬介”の名の通り、小山義政の
寺の雰囲気は、馬の彫り物の多さからは、多少感じられた。

 ただし、残念ながら、ここには将棋駒のヒントになるような、物品、
情報は、表面を眺めた程度では、みつからないようだ。

 またこの寺の周囲には、工場用地が隣接しているようであるが、今の所
静かであった。場所は東武伊勢崎線の、花崎駅に近い所で、散歩がてらに、
行く所としても、一応手軽な場所だと考えられる。(2018/02/16)

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なぜ大大将棋や摩訶大大将棋には、耐久度の低い、瓦将等があるのか(長さん)

日本の将棋で、将駒名で有るのは、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、
石将、瓦将、土将、木将、火将、水将、大将、副将、飛将、角将、
雑将、左将、右将、その他、概ねそれなりに強そうな、大局将棋の、
七国将棋系+将駒、動物名+将駒等である。このうち、固体かどうか
不明等の理由で、火将、水将、大将、副将、飛将、角将、雑将、左将、
右将、大局将棋の、七国将棋系+将駒、動物名+将駒等は、的確性は、
有りそうだが、議論がごちゃごちゃになるので、これらの駒種につい
ては、今回は、その的確性を、それ以上つっこんで議論しない。
 残りの泰将棋にもある、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、
瓦将、土将、木将のうち、それが鎧等の材質の名称だとして、
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将については、敵側からの攻撃に
対し、将の体を守る効果がありそうに見える。が、残りの、

瓦将、土将、木将

については、鎧の材質からみて、存在がクエスチョンだと思える。す
なわち、瓦は、石でも投げつければ割れそうだし、土は木の棒で叩け
ば、こなごなに砕けそうだし、木も火をつければ燃えて、将は、焼け
死ぬように思える。なお、これらの将駒を加えたのは、恐らく大局将
棋や泰将棋の作者ではなくて、大大将棋と摩訶大大将棋の、ゲームデ
ザイナーだったと思われるが、そこでいったい彼らは、この

戦争をするにしては、いかにも弱そうな名称の駒を、なぜ加えたのか

を、今回は論題とする。ちなみに、この回答は既に、だいぶん前に
した記憶がある。回答の要旨は、ようするに、

大理国の三塔主塔からの、ミニチュア出土仏の材質から、将棋駒の
名称が来ているという事を、デザイナーは実質知っていた

との事だったと思う。なお、”大理国の三塔主塔からの、ミニチュア
出土仏”ではなくて、”将棋の伝来元の、ミニチュア仏像”程度の、
やや曖昧な知識が、大大将棋と摩訶大大将棋のデザイナーの頭の中に、
情報として存在したのだろうとは思う。また、仏像が将の人形の形と
同じと見なせるという事は、これも前に述べたと思うが、

大理国の将(王様)は信心深く、人生の後半で仏門に入る習慣がある

という情報が、彼らデザイナーに伝達されていたか、あるいは、

ミャンマーのシットゥインの象棋の将駒等の形態が仏像形である

という情報が、同じく大大将棋や摩訶大大将棋のデザイナーへは、
伝達されていたかのどちらか、または、どちらも知られていたのだと、
私は見る。
 ところで瓦将、土将、木将、のうちの後2者と、それに大局将棋の
火将、水将については、”五行説から、鎧の強度に関係なく、土将、
木将、火将、水将が、金将と共に加えられた”という説明も、成り立
つかもしれない。が、そのように五行説を持ち出しても、

残りの瓦将だけが、どうにもならない

のである。
 ようするに、特に瓦将等という、将棋駒として相応しくない、
弱そうな駒が、実際には無造作に加えられている事から、

日本の将棋の駒の原型が、大理国の王室に、当時陳列されていたと見
られる、立体の仏像を思わせるものであったという事が、かなりの後
世、室町時代の初期頃までは、日本に情報として残っていた

と、考えざるを得ないのではないかというのが、

本ブログの独自の見解

である。
 ちなみに、以前、大理市の三塔主塔からの、玉系の駒に相当する
仏像や、仏教関連物として、水晶仏と、琥珀仏塔(宝塔)を紹介した
事が有った。つまり、ずばり

ネフライト(ホータン玉・軟玉)の小型仏像を、本ブログでは示した
事が無かった

のである。大理市三塔主塔からは、西暦1200年以前の遺物なため、
塑像の

土仏だけが、劣化して残らないため出土していない

と見られる。が、文献ではその他の、鎧の材質名で、その名称にはな
って居無い、左将、右将を除けば、泰将棋に存在する将駒の分の、

玉、金、銀、銅、鉄、石、陶磁、木、の全種類と、それに、金銅、
水晶の仏像が出土している

と、聞いていた。日本に情報が、断片的にしか無いためかと思い、も
う一度、雲南博物館のカタログを当たったところ、かんじん要な物で、
日本に情報が来ていないと思っていた、ずばり玉将相当の、

ホータン玉(軟玉・ネフライト)の仏像も、高さ16cmと、ちょっと
大きめだが、観音菩薩像が発掘されている

という事実が、日本でも知られていた事が判った。

玉仏.gif

そのホータン玉仏は形から、

南詔(唐代)ではなくて、大理(宋代)のもので有る事も、間違いない

とも聞いている。同様なものが、当時の大理国北端部(今の四川省)で
も発見されている、というから、大理市でかどうかは不明だが、大理国
内の細工師によって、11世紀頃の当時、作成された可能性が高い事は、
ほぼ確かなようである。つまり、南詔時代には、玉将が無かったとして
も、大理国の時代には、雲南で”玉将立体駒”は、作成できたのである。
(2018/02/15)

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中国シャンチー。交点に駒を置くルールになったのは何故(長さん)

中国シャンチー、朝鮮チャンギ、沖縄シャンジー、ベトナムの象棋は、
良く知られているように、日本の将棋や西洋チェスと違い、駒は升目
の中に置くのではなく、路の交点に置く。なお、元を辿れば、中国シャ
ンチーが、これらのゲームの出発点だというのが、今の所定説なよう
だ。そこでここでは、仮に中国シャンチーの駒の、配置の仕方のみを
問題にする。今回の設問は単純で、シャンチーでは駒を交点に置くよ
うになったのは何故か、というものである。ただし今回は、最適解で
はなくて、

本ブログの、固有な見方

について、紹介するに留める。シャンチー史が、本ブログのメインで
は無いから、このブログの説が広まることは、当座余り期待していな
いからである。そこで、とりあえず、先に結論を書くと、ここでは、

”中国では囲碁が盛んな為、象棋の駒も交点に置く”とは見て居無い

という点に、このブログの特徴がある。つまり本ブログでは、

都の条里が、直接的に、盤のデザインのモデルであると見ている

と、言う事である。つまり、
中国シャンチーは、中国の都市部、恐らく都のど真ん中で発祥した
ゲームな為、日本の京都ような、規則正しい碁盤目の道の中に、駒を
置く形式になったと、見ているのである。なお、11世紀の北宋時代
には、中国シャンチーの元の、北宋象棋は、チェスや将棋同様、駒は
升目中央置きだったという説が、現在の所強いと私は聞いている。
 本ブログの推定では、駒の交点置きと、九宮の発明は、さほどの
時間差が無いのではないかと思う。そもそも、京都のような碁盤の
目の街の中で、真ん中に小さな川が流れているとはいえ、日本の南北
朝時代のように、皇族が南北に宮を作って分かれて争うような、盤構
成は、実際の日本の南朝が、吉野に都を移したことから見ると、

それよりも更に合戦の距離のスケールが小さく、都という、狭い空間
の中で暮らしている、中国シャンチーのゲームデザイナーの、個人的
な心の世界観を良く写している

ように、私には見えるのである。
 従って、この事から、中国には

地方に別の象棋型ゲームが、シャンチーとは無関係に、北宋期には
存在していたのが、むしろ当たり前

だとも思える。そもそも、

雲南には、北宋とは別の、大理という国が存在していたのだから、
雲南の大理の、金回りの良い王室で、都の開封には無関係に、別の
王室専用のような象棋が有るのは自然

なのではないだろうかと、私は思う。

以上が、本ブログの基本的な、中国の古代象棋文化に対する見方

である。
 なお、中国シャンチーが都会で流行のゲームであると言うことは、
地理的には中国から遠くても、

都会の人間に、最も興味のある、科学技術文明がその時点では最も
進んだ国、イスラム・アッバース朝の、イスラム・シャトランジと、
最下段の帥/将周りの駒の、動かし方のルールが、全く同じゲームを
している事からみても明らか

なように、私には思える。前に述べたが”グローバル化に付いてゆく”
と、己の生き様を表現しながら、その実は、ローカル文化の吸収を
否定し、列強国の文化のみを選択的に吸収して、それに追従して行く
というのが、時代や民族文化に無関係な、都会人の一般的な特徴だか
らである。
 他方定説については、中国の囲碁文化の歴史の古さは、良く知られ
ているので、駒を交点に置くという点から、囲碁の影響との論が出て
くるのであろう。が、むしろ私は、

敵味方同士にしては妙に接近した、二つの九宮が有る、いわば首都の
真ん中で生まれた少年の、心の世界地図のように盤構成を見る方が、
シャンチー系ゲームの盤意匠を、より正確に把握したもの

ではないのかと、個人的には考えているのである。つまり交点置きは、
都での人や馬車の通行、往来の仕方を模したものであって、囲碁とは
直接には、繋がっていないのではないかと、私が考えているという事
である。(2018/02/14)

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プレ後期大将棋から後期大将棋には、なぜ更に進化したのか(長さん)

本ブログの見解によれば、普通唱導集で唄われた、普通唱導集時代の
大将棋が廃れたのは、”角行をタスキ掛けに発進させた上で、飛車を
退ければ、勝負がついてしまう”という、指し方のパターンの単純さ
という事であった。所で、前回述べた15升目124枚制のプレ後期
大将棋が、仮に普通唱導集で唄われた大将棋だとすると、
普通唱導集の編集者である良季等の認識は、間違っており、唄われた、
15升目124枚制のプレ後期大将棋で有る所の”普通唱導集大将棋”
は、終盤も猛豹/銅将の作る堅陣が、攻めきれずに、攻防が結構面白
いはずである。
 つまり、

15升目124枚制大将棋は、廃れたり、更に進化する理由が、その
考えだと、余り無いはずだ

という事になる。にも係わらず、実際には大将棋は、その後、恐らく
小駒(一例として悪狼)と、獅子が加わって、15升目130枚制の、
現在も記録の残る、後期大将棋へ変化した。今回の論題は、15升目
の後期大将棋の、124枚制から130枚制への変化に関して、

ゲームの面白さ以外に、改良の原動力として何があったのか

である。
 そこで、最初に答えを書くと、

①”普通唱導集に記載のように、大将棋を指す”という、序盤の戦術
の単純性が嫌われたため、終盤面白いとしても、124枚制大将棋は、
好まれなかった事
と、
②中将棋の、”特別の規則”が有る状態での生獅子の導入が、一応
ゲームとして優れ物だったため、中将棋のように、獅子を入れ込まな
いと、指す人間が居なくなった事
と、
③中将棋の初期配列で、角行の両側が空の升目になっている形、およ
び、歩兵列で陣の内外が区別される形が、見栄えとして、室町時代の
棋士に好まれたため

だと私は考える。
 特に①は、普通唱導集大将棋から中将棋を作成するときに、中将棋
の現在の形から推定して、

これでもかと、要因を排除し(すぎ)ている点から見ても、この要因
の存在は、明らか

であると、前から私は思っている。
 しかし、それだけでは、現行の後期大将棋に、獅子が元から存在す
る事は説明できない。だから、②の要因も、獅子を入れ込むために、
実質的に陣を、4段配列から5段配列に膨らませる、要因になったと
私は思う。
 また本ブログの推定では、中将棋の進化に関して、

最初期には、角行の袖横の位置には、猛豹が有って空ではなかった

と、推定している。猛豹の位置が、盲虎と並んでおらず、当時の雄雌
の認識にしては、おかしいからである。本ブログでは、すなわち、

中将棋には最初は鉄将が残っており、角筋に当たる堅行を逃がすため、
少しのちに鉄将を取り除いて、猛豹を、猛将と洒落て、一段落として
将列に加えた

とみる。その結果、空き升目に関して、各辺に対し、中将棋では、
1升目から跳びとびの2升目になった。恐らく、この

中将棋の、袖の駒の並びの形が、かっこうが良いと、当時考えられた

のであろう。特に③の要因が、結構大きく、

中将棋が現在の形になってから、後期大将棋に悪狼等が一種類入って
陣が一段、餅のように膨らみ、現在の15×15升目130枚制の
後期大将棋になった

のではないだろうか。むろん、その方が、小将棋、中将棋、大将棋が、
3、4、5段配列であり、升目数、9、12、15のちょうど1/3
になっていて、更に全部、歩兵の列で自陣が始まるため、

書物等で初期配列を書いても、その方が見栄えがしたし、李氏朝鮮の
ゲーマーにも褒められ、外人の煽てもあって、そうした

に違いない。
 以上の事から、ほぼ見栄えと、中将棋に合わせるという観点から、
124枚制の、前に比べれば性能の改善された大将棋は更に変化し、
かつその結果、中将棋に対する差別性が薄れ、結局は室町時代の間に、
ほぼ廃れたのだと、私は考えるのである。(2018/02/13)

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普通唱導集大将棋には、別解が有るようだ(長さん)

前回最後の方で述べたように、15×15升目124枚制の、130
枚制後期大将棋を、4段目までに、押しつぶしたような、
プレ後期大将棋でも、普通唱導集第2節、”仲人に、嗔猪と桂馬で、
紐をつける駒組”が、可能かどうかを、実際に15升目盤に、四段組
の駒を並べてチェックしてみた。
 結果を先に書くと、
 予め嗔猪を堅行で守りながら、七段目まで嗔猪を上げる、駒組の仕
方の工夫が、この124枚制のケースには要る。が、普通唱導集の、
第2節に書かれた、相手右角の、タスキがけ走りの攻撃を避けるため
と見られる、仲人位置で、利きを止める陣を組むのは、13升目で
108枚制の場合と同様、15升目124枚制でも、一応可能なよう
であった。つまり、普通唱導集大将棋には、普通唱導集の大将棋の古
文書の唱導内容の文言を満たす別解があり、

解が、ざっとで2つは有りそうだという

事になった。
 以下の写真は、124枚の駒を、前回の説明したように初期配列で
並べたものである。ぎっしりと、15升目に4段まで、駒が並ぶ。
前回説明したように、この124枚に、獅子2枚、悪狼4枚を加える
と、登場する駒は全部揃い、後期大将棋になるのである。

プレ大将棋.gif

続いて、下の写真が、普通唱導集の第2節を満たすように、”仲人と
嗔猪が腹を合わせ、桂馬を上げて支えた”ものである。
 ここで13升目モデルと違い、15升目モデルでは、仲人が守って
いるのが、横行ではなくて、袖の飛車になり、そのため仲人は、初期
位置から2升目上げて、角行筋に、当たるようにしているのである。
従って、前回の説明に加えて、後升目の歩兵も2歩動かしている。
 写真で赤い○で示したのが、両者の守りの右仲人、灰色の○が、仲
人と”腹を合わせ”ている嗔猪、青い○が”支え”ている桂馬である。

普通唱導集陣.gif

このケースは、以前示した13升目108枚制の仮説普通唱導集大将
棋と違い、成り麒麟を横行前の歩兵ではなくて、麒麟は、端筋から
真っ直ぐに進み、端列の飛車前の歩兵の地点で、獅子に成らせる作戦
になる。従って、飛龍は角行の動きではなく、”1目をば踊らず”の
踊りのルールに、なっていなければならない。飛車前の歩兵に、斜め
隣の飛龍が、更に利いていてはまずいのである。
 そこで、この将棋をさらに進めてゆくと、飛車を退けてしまうと
確かに成り麒麟を、飛車の前の歩兵の位置で、突入させる事ができる。

だから、普通唱導集の記載と、第1節の”飛車を退け”では、ドンピ
シャ

だ。ところが、13升目型から15升目型へ変えたときに、普通唱導
集から、小駒として導入された、猛豹と、恐らく中将棋の成立時に、
猛虎から改善されるはずの、盲虎という、小駒の改善が、このケース
には、当然だったかもしれないが、ディフェンスが、強くなりすぎる
という、効果をもたらす。特に、このゲームは、後期大将棋に近いわ
けであるから、後期大将棋型ゲームの守りに特徴的な、縦に2段目と
1段目に並んだ、下の写真の囲みの、猛豹と銅将の存在が大きい。

124終盤.gif

つまり、

飛車を退けても、成り麒麟攻撃だけでは、今回の将棋は通常、”勝ち
を取れ”ない、終わりにくいゲームになる

のである。その点だけがどうやら、

13升目108制型と、15升目124枚制型の違いによる、普通唱
導集の記載との、つじつまの合い方の差になる

ようだ。何れにしても、普通唱導集時代の大将棋が13升目の仮説
普通唱導集大将棋である事を証明するには、

”石将は無かった”等の、何らかの別の証拠が、更にあった方が良い

事は、ほぼ確実だとみられる。(2018/02/12)

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水無瀬兼成の将棋纂図部類抄。”(或説云)仲人立聖目外”の謎(長さん)

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄では、中将棋の成り図の後にある、中将棋
のルールの注釈部で、項目名”仲人”以下の、6カラムの解釈が、しば
しば将棋史家の間で、議論の対象になっている。これに関しては、今回
議論しない5カラムの文についての解釈として、大阪電気通信大学の、
高見友幸氏らの先行研究が、特に名高い。そこでここでは、高見友幸氏
等の考察では、まだ言及されていないと私が認識する、表題の、
”仲人立聖目外”について考えてみる。
 そこでいつものように、最初に結論を述べる事にしよう。

水無瀬兼成は大将棋について、13升目の普通唱導集大将棋型と15升
目の後期大将棋型の中間種について、なんらかの情報を持っていた、可
能性が、この事から言えるかもしれない

と、私は思う。
 次に私が、この項目名”仲人”の中段左カラムをどう、解釈している
のか、私見を述べる。

”或る説によると、大将棋・摩訶大大象戯・泰将棋の仲人も、そこで成
りが可能な自陣のラインの、直ぐ外の段に配置されていると言う事だ。”

というのが、私の意訳である。そもそも、この一文に言及のある、先行
研究例はたぶん、まだ無いと思うので、以上に対して賛成意見も反対意
見も、特に無いのではないかと、私は思っている。
 次に、この”或る説”が正しいのかどうか、という点に関する私見を
述べる。
 普通唱導集大将棋、後期大将棋については正しい。摩訶大大象戯につ
いては、室町時代の摩訶大大将棋の作者は、成りの条件について、元も
と述べていないと私は見るので、恐らく本来不定なので誤り。泰将棋に
ついては、作者の水無瀬兼成が、自分で決める問題だが、関心が薄く考
えなかったのだろうから、間違いだろうが、水無瀬兼成は、自分の著作
の中で、他人を責めてもしょうがないと思う。蛇足だが中将棋の仲人は、
聖目の直ぐ外段に、将棋纂図部類抄では配置されているのが、図から明
らかなので、正しいのは自明と見る。

 つまり、大将棋に関して、水無瀬兼成が、将棋纂図部類抄の中で言う
ようには、”奇説”になって居無い、謎が存在する

と、言う事である。
繰り返すと摩訶大大象戯については、将棋纂図部類抄の書き方は、正し
いとみる。すなわち、摩訶大大将棋・象戯等については、何らかの情報
に基づいて、松浦大六氏所有の象戯図式の著者は、江戸時代に”それら
は、自陣・相手陣の区別が無く、相手駒を取ると、駒が成るというルー
ルだと述べた”と、私は了解している。摩訶大大将棋、象戯の成りルー
ルは、江戸時代に、それまで何も無かったので、成りのパターンから想
像して、後世新たに作られたのでは、ないのだろうかと、確証は無いの
で曖昧性は残るが、とにかく存在自体を疑う。つまり、摩訶大大将棋類
の聖目(成りラインの印)は、元々無かった疑いが強いという事である。
 そこで以下、或る説についての信憑性の問題を大将棋に限る事にする。
 後期大将棋の仲人が、聖目の直ぐ外段なのは、水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄では、恐らく誤記で抜けているので証拠が無いが、

新安沖沈没船出土の将棋盤(?)の聖目が、升目5個毎になるように、
打たれている等から、或る説が正しい

と、私は思う。後期大将棋の自陣が5段で、升目が15升目なのは、盤
のフォームにあわせたのだというのが、このブログでの見解である。そ
のために、その前の時代の普通唱導集大将棋は、道具の見た目が悪形と
見られて、室町時代前期に消滅させられたのだろう。
 次に、その普通唱導集大将棋の仲人が、自陣ラインの、直ぐ外升目配
置だった事も、以下の点から、ほぼ確実だと私は考えている。すなわち、

そうしないと、成り麒麟の獅子が、早く出来すぎてしまう

のである。この将棋は、成りは太子成りの酔象、奔王成りの鳳凰、獅子
成りの麒麟、と金に成れると見られる、歩兵の4種類だったとみられる。
 実際にゲームしてみると、後半鳳凰と麒麟が成るから、この将棋は
バランスが取れるのである。また、その成りの段も、相手陣歩兵の列で
ある事は、ゲームバランスから確実視される。だから、4段目で麒麟や
鳳凰が、獅子と奔王に成るのは、確実だと私は今の所見ている。
 そうしてみると、水無瀬兼成にも真相は不明なはずの、摩訶大大象戯
と、自分で決めれば何とでもなる、泰将棋は別として、

ほぼ、仲人立聖目外は確実なのに、”ひょっとしたら違うかも”を匂わ
せる、或説云が、”仲人”の節中段左の所に確実に掛からない様に、
水無瀬兼成は、なぜしっかりと文面を組み立てなかったのか

という謎が発生する。
 そこで、私はひょっとしたら、”プレ後期大将棋仲人立聖目内”なの
かもしれないと、一応は疑ってみようと、考えるようになった。
自陣の歩兵段が5段目ではなくて4段目。仲人が5段目で、自陣が、歩
兵段まてではなくて、仲人段までの5段目である、

15×15升目124枚制プレ後期大将棋の存在が、水無瀬兼成の時代
には情報として、まだ残っていた可能性もある

と、一応は疑うという事である。たとえば、その大将棋には、後期大将
棋には有る駒のうちで、特別な禁止手が、まだ未発明だったため獅子と、
たとえば小駒でどれでもよいのだが、一例として悪狼が無く、向こう側
の左辺の1/4の配列を、こちら側から見た配置を書くと、
麒麟は右辺が鳳凰に変わるから、その点に注意するとして、

向こう1段目が、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車
向こう2段目が、酔象、麒麟、盲虎、猛豹、嗔猪、猫叉、猛牛、反車
向こう3段目が、奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、横行、飛龍、飛車
向こう4段目が、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
向こう5段目が、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升

という、びっしり駒配置の15×15升目124枚制大将棋という、
仮説普通唱導集大将棋と、後期大将棋のの中間形も考える事は、一応
は可能だと思う。そして、このプレ後期大将棋という

例外の存在を知っていたので、水無瀬兼成は、ひょっとすると、
”仲人立聖目外は、一説に過ぎない”と、断っているのかもしれない

と私は一応は疑う。
 ただし、この形のゲームの出来については、角行が、相手の反対側の
飛車に直射してしまうので、余り作りの良い大将棋ではないと、私は考
える。ゲーム出だしから、最初に左辺の飛龍前の歩兵を進めて、相手右
飛車を、いじめるように指すのだろう。が、面白いことに、この将棋も、

5手も余分に手数が掛かるが、”二つ進めた仲人と、五つ進めた嗔猪が
腹を合わせ、更に二つ進めた桂馬で支える”と、13升目の私の普通唱
導集大将棋モデルと同様、タスキがけの角筋の障害物にする事もできる。

 よって、今述べた事からも、将棋纂図部類抄の水無瀬の仲人節中段左
カラムは、要注意だと思うようになった。(2018/02/11)

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日本の将棋は”漢字圏だから、字書き駒”になったでは無いのでは(長さん)

日本の将棋のもとが中国起源なのか、東南アジア起源なのかに関して、
将棋駒が、漢字で名称を表記しているため、中国寄りだという議論が
されている。しかし、本ブログでは、以下述べる理由で、

日本の将棋駒が立体造形駒になるか、書き駒になるかは、元々微差だ
った

との立場を取る。五角形駒木地に近い木片のある経帙牌は、写経所の
坊主がたまたま役得で、それが入手できたから、将棋駒が誕生したの
だろうと、私は考える。だが実は、さらに発明者は、五角形駒の他に、
小石や木片等、より安定して入手できるものを、立体駒として用い、

将棋駒の完成品として、複数の案を元々持っていたのかもしれない

と私は推定する。小石で立体駒に代用するケースは、
玉用に2個、金将用に22個、銀将用に4個、桂馬と香車用にそれぞ
れ4個づつ、歩兵用に16個、それぞれ形や大きさを変えて、小石を
集め

32個ではなくて、52個で一組の将棋道具にしようとしていた

に違いない。なお、経帙牌を使うケースでも、
裏の成り金だけを書いた駒も、元々は独立して作るつもりであった、
のかもしれない。そしてそのケースは必然的に、52枚経帙牌が、
本来は要るところなのだが、

両面字書き駒を28枚作成し、

32枚で済ましたのは、たまたま、彼の居た写経所には、経帙牌が
52枚もは、無かっただけだった、可能性もあるかもしれないと思う。
 しかし、こうした複数の、将棋ケーム用の駒セットの案が有ったと、
疑われるのだが。実際にはそのうち、駒をひっくり返して成りが、
駒木地の裏に書いてあるケースが、道具として選択された。そしてそ
うしたのは、

発明者の恐らく僧侶ではなくて、実際に最も初期に将棋を指した武家

だったと、私は推定する。なお理由は、

その方がゲームがしやすいという、理由ではないと見られる。

なぜなら、二中歴の将棋の記載に”裸玉ルールが有る”事から、西暦
1015年頃には、取り捨てルールだったろうと、見られるからであ
る。持ち駒ルールがある場合、元駒と成り駒を分けると、成り立体駒
の形を、元駒毎に、元銀将金将、元桂馬金将、元香車金将、と金で、
微妙に形を変えておいてから、相手から成り駒を取った時に、寝かせ
た元駒を、いちいち、探し出して相手に渡さなければならない煩雑さ
がある。しかし、西暦1020年当時は、取り捨てルールだったろう
から、元金、元銀将金将、元桂馬金将、元香車金将、と金は、全部同
じ形でもよいし、使わなくなった、元駒は、復活して使わないはずだ。
 他方、少し前に述べたように、もともと伝来した将棋を、経帙牌の
駒で指した、恐らく大宰府の、国境警護を兼務する警備兵の武家は、

願掛け等、出来の良いゲームを楽しむのとは別の動機で、原始的な
平安小将棋を指した

と見られる。つまりは、
成る前と成った後とで、物体としては同じ物を用いる、経帙牌型の文
字駒の方が、物体としては別々の、52枚セットの立体駒より、仮に

願掛けだとしたら、その目的に合致していた

のである。なぜなら、歩兵駒が、物としてはそのままで、相手陣に突
入して金将に成った時こそ、満願成就を象徴する姿だからである。そ
のとき、元の歩兵小石と、成った後の多少大きめの”と金”小石とを
交換するやり方よりも、同じ歩兵という駒木地のままで、ひっくり返
して名称・肩書きが、金将に変わったとの表現のほうが、

歩兵としての国境警備兵の己の勇士を、ありありと映し出していて、
一種の”お祈りの場”としての、将棋場の雰囲気を、より盛り上げる
ことになる

のであろう。ちなみに、将棋を指す動機である、願掛けの願の具体的
な内容が、”藤原隆家のような「と金」の身分に、自分もなれますよ
うに”であるという証拠としては、時代は下るが、普通唱導集の、
小将棋の第一節の、”歩兵が進むと金に成る、さあ聖目は、もうすぐ
そこだ!!”という威勢の良い唱導文句が、ドンピシャ、その内容で
ある事を、一応挙げる事が出来ると思う。ともあれ以上の事から、
(推定)写経所の坊主が、日本の将棋用の駒の発明として、
第一案:32枚の経帙牌型の文字駒
第二案:52枚の小石から作られた立体駒
の2種類を、仮に実際のゲーマーとしての、大宰府武家に提示すれば、
その結果、経帙牌の費用を、地元の写経をする寺から、請求されたと
しても、当然

武士達は”縁起物には多少の金を出すべき”と考え、第一案を選んだ

のであろう。なお、大宰府の武家が、最初の日本の将棋の棋士である
と仮にすれば、

駒の字の読めない、より位の低い者も、かなり混じっていた

と見られる。しかしながら11世紀の初頭の頃、少なくとも字の読め
ない兵士の、上層部・仕官クラスは、駒の字位、読めたのではなかろ
うか。
 そして、判読しなければならない文字も、6種類の駒字であれば、
字数も限られていたから、字の読めない下っ端兵士は、その字だけ、
彼の上官に教わって結局、皆で将棋が指せたのではないかと、私は推
定する。なお識字問題については、前に同じような事を、故溝口和彦さん
も、彼のブログで書いていたような、記憶がある。彼の言っていた事
に一理が有ると、私も思う。
 以上のような経過で、日本の将棋が字書き駒に決まったとしたら、
それは、たまたま人間型の変身駒が、立体駒の造形では、作れなかっ
たからだという事になるだろう。以上の事から、日本の将棋駒が、字
で駒を区別しているという点で、中国・韓国型である事は、必ずしも、
日本の将棋とシャンチー・チャンギの、部分的な近縁性を、証明して
いるわけではないと、私は考えるのである。
 そして、そう考える事により、シャンチーの成立より幾分早い、
興福寺出土駒の謎も”シャンチー駒を真似て、五角形駒が作られたの
ではない”と考えれば、少なくとも部分的には、解けるのではないか
と、私は考える。(2018/02/10)

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玉詰みルールが無く裸玉勝ちルールのみの平安小将棋のチェック(長さん)

前回のべた、表題の玉詰みルールが無く、裸玉勝ちルールのみの平安小将棋
を、二中歴の時代は標準型(9升目)であると見て実際にチェックしてみた。

裸玉のみ小将棋.gif

写真の局面は、両者の玉が互いに相手陣に突進して、駒の取り合いが、始ま
ったばかりの所である。次は先手番で、▲9三歩成と指すものと見られる。
△同香で、

この場合は、▲同香ではなくて、▲同玉である。

更に△同桂は後手に勝ちが無くなるので、指さないとみられる。また、そも
そも写真では、後手の1七の位置の玉が、先手の桂馬に当たっている。が、
先手が▲1七桂と、後手玉を取る事も同様に、こんどは先手に勝ちが無くな
るので、そのような手は指さないとみられる。
 このゲームを実際にしてみると、コツは、
①玉をひたすら進めること
と、
②最後に切られる駒と、終盤の相手玉との距離が開くように、この例では、
香車だが、1枚だけ駒を、相手玉の位置から離すように指す
の2点位しか、見当たらないことがわかる。なお①は当たり前、②も、初め
て指す前に、私にも、概ね予想のできる程度の手法であった。
 その点”序盤に右銀、桂、香、歩の連携で、相手の左辺を破って行く”
といった、指し方に、曲がりなりにも多少のテクニックがある、8×8升目
32枚制玉詰ルール有・持駒ルール無しの原始平安小将棋とは、大違いの
ように、実際指してみて思えた。
 正直な所、実際にやってみれば、さすがに何か出てくるだろうと期待した
のだが、現実には

これほど、”勝つためのコツ”の乏しいゲームというのも珍しい

のではないかと、私は思ったほどだった。
 もともとが、ゲームを楽しむためのものでは、初期の頃には無かったとし
ても、このタイプが本当に、二中歴時代の平安小将棋だったとしたら、現在
の将棋文化が、発生するのかとうか、すこぶる怪しいのではないだろうか。
 毎度おなじみの結語になるが、100円ショップの将棋道具を用いる等に
より、出来るだけ多くの方に、以上の点の追試をお願い、致したいものだと
私は思う。(2018/02/09)

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