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中将棋。どのような経緯で玉将が左、酔象が右になったのか(長さん)

現在の定説では、日本の将棋で、偶数升目なのは、中将棋、天竺大将棋、
大局将棋の、ほぼ3種類である。これらの将棋では、”中央最下段”が、
右左2升目できるが、何れも玉将が左に、太子成り酔象ないし、玉将成り
太子が右の最下段中央に配列される。恐らく後二者は、中将棋よりも、
成立時代が下るとみられるため、

中将棋で左を重くする配列が、どのような経緯でできたのかが、問題に
なる

と、みられる。
 それに対して、本ブログでは、9升目制平安小将棋の時代の前に、伝来
元とほぼ同系統の、8×8升目制の、原始的な平安小将棋が有った、との
立場を取る。そう考える大きな理由は、本ブログの主題である、大将棋の
発生要因を解く為、西暦1080年頃の、大江匡房が日本の将棋の祖とい
う”噂話”が、何を発端にする物であるのかを、説明するためである。
 従って、表題の論題の回答を、本ブログ流に書くと、

インドチャトランガ系統である、8升目型の原始平安小将棋に準じて、
中将棋の玉・酔象(副官・大臣)の左右は決められたのであり、チャスや
象棋類としては最も古い、インドのチャトランガに習った事が、中将棋の
配列が、表題のようになった理由である

という事になる。しかし、8升目制原始平安小将棋は、今の所仮説でしか
無い。そのため定説では、

日本の官制度が、左の大臣をやや重く見ているため、中将棋という、初の
偶数升目将棋が成立したときに、それを見習って左を玉将にしている

と、考えざるを得ない状況のようである。なお、中将棋が文献に初めて
現われる、西暦1350年頃は、中国の王朝は元であり、東南アジア・
モンゴル、そして、イスラムシャトランジの情報も、有る程度盛んになっ
た交易の影響で、情報が入ってきていた疑いがあると、私は思う。従って

外国のゲームの影響で、中将棋の玉酔左右が決まったとも、理論的には
考えられる。がそうすると、実際には情報が、多すぎる状態だったのでは
ないか

と、疑われる。つまり、タイのマークルックや、モンゴルのチェス化する
以前のシャタルの、左王情報だけなら良いのだが、イスラムシャトランジ
は、西洋チェスと同様、もともと先手後手で、玉と大臣駒を、左右ひっ
くり返す、初期配列になると私は認識するからである。その際、どちらに
決めるかは、出た所勝負にしないとすれば、

日本の将棋では古来より、こうだった

という理屈が存在するの時にだけ、優先されるケースが多いのではない
だろうか。左大臣が右大臣より、少し偉かったというのは、イスラム
シャトランジびいきのゲーマーが、日本の南北朝時代に仮に居たとしたら、
彼も説得できるかどうかは、謎なような気もする。従って、

日本にも小将棋系列で、チャトランガを祖とする未知の偶数升目のゲーム
が、平安時代にも恐らく存在したのだろう

と、この中将棋の玉酔左右からも、淡くだが、疑われるような気がする。
 なお、その源流のインドチャトランガが、どうして王が、左配列だった
のかは、実は私には良く判らない。インド人は、左右で手の使い方が決ま
っており、おにぎり状の米の飯等は、右手でしか掴まないと、聞いている。
 インドチャトランガの駒は不浄なのか、煩悩の塊と考えられているのか、
インドでは四人制の時代に、プレーヤーの左に配列されるようになったよ
うだ。何れにしても、ゲームとしては、鏡映にしても、中身は変化しない
のだが。ゲームの歴史を紐解く上では、偶数升目盤将棋の、駒の左右は、
歴史に関する何らかの情報を、内在させているはずである。(2018/03/02)

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