SSブログ

10世紀等に将棋が、黒潮に乗り東南アジアから伝来し無いのは何故(長さん)

持駒将棋の謎の著者、木村義徳氏が、繰り返し増川宏一氏の”日本の将棋
の遅い伝来説”を攻撃し続けているのは、そもそも、前世紀に増川氏自身
が、将棋が比較的早い時期に、今回の表題のように”船で黒潮に乗り、
東南アジアより伝来した”という説を掲げていたという、背景がある。
 増川氏は、その後文献史料を重視して、11世紀の平安(恐らく小)
将棋の伝来説に転じたが、元の早い伝来説の理由付けを、当然ながら、
切り捨てる事になったため、木村氏には、不信感が生じても、おかしくは
無かったのであろう。そこで今回は、前世紀の増川将棋伝来論である、
表題の伝来仮説が、なぜ成立しないのかを、史料とは別に考察してみる。
最初に結論を書くと、

原始マークルックや、原始シットゥインの情報、または無彩色の仏像、
仏塔駒類は、イスラムシャトランジよりも、低い頻度で、黒潮に乗り、
10世紀までに、日本に漂着していた可能性がかなり高い

と私は考える。ところが、原始マークルックや、原始シットゥインは、
現在のマークルックや現在のシットゥインよりも、
飛車と後期大将棋の跳ぶ飛龍の動きの駒が、逆の位置に配置される点
等を除いて、ほとんどアラブシャトランジと、同じゲームレベルのもの
だった。そのため、前に述べた、”イスラム教徒でないのなら、
面白く無い武術獲得ゲームを、日本人が敢えてする事は無い”という、
9~10世紀当時、天皇から平民に至るまで、日本人には行き渡っていた
”世論”が、イスラムシャトランジが立ち上がらないのと同様に、これ
らの将棋の流行のブレーキになり、日本で指されるゲームとならなかっ
たと、私は見る。
 今でこそ、マークルックやシットゥインは、兵や貝駒が、3段目や、
4~5段目に配列されるが、それは、11世紀以後に、各国で、ルール
がそのように、進化したものだと私は思う。実際の所、
当時のタイ地域の原始マークルックや、ミャンマー地域の原始シットゥ
インは、インドの”四人制チャトランガ時代の、二人制チャトランガ”
に、ほぼ近いものだったはずである。つまり、兵駒は、インドチャトラ
ンガ同様、マークルックでもシットゥインでも、二段目に配列されてい
たに違いない。
 そして、10世紀後半に、アラブのアル=ビルニがインドチャトラン
ガについて記載等しているように、アラブシャトランジと、当時のマー
クルック、シットゥインの違いは、ざっとでみると、

シャトランジでは、
象が跳ぶ飛龍の動き、車が飛車の動きであるのに対し、
マークルック、シットゥインでは、当時の2人制チャトランガと同じで、
象が飛車の動き、車が跳ぶ飛龍の動き

と、ひっくり返っている程度の違いだったのではないかと、想定される。
つまり、たとえばマークルックやシットゥインで、象が銀将の動き等とい
うのは、少なくとも本ブログの見解では、
日本に原始平安小将棋が伝来した頃に、同時に大理国の銀将が、マークル
ックやシットゥインの象を、飛車から銀将のルールに変えた、後代もの
と見られるのである。
 つまり、アラブシャトランジと当時のマークルック、シットゥインは、

少なくとも10世紀の日本人には、同じゲームの、駒の形とルールが少し
違う、互いに他方が”地方変種”に見える程度の差のもの

だったと、私は推定する。実際には、大臣駒が、アラブシャトランジで
は、猫叉動き、当時のマークルック、シットゥインでは、当時の四人制
チャトランガ時代の2人制チャトランガのように、近王型の、ひょっと
すると、金将の動きだったのかもしれないのだが。アラブシャトランジ
の方が、玉が詰み易くなる分、終盤のだらだら続きが、多少は緩和され
るので、インド4人制チャトランガ時代の2人制チャトランガや、東
南アジアの原始象棋よりも、ましと見られる位だったのであろう。

実際に差してみると、金将がある分、日本の将棋に近くなるだけという、
やはり、微差に、私にも見える。

 従って、中国唐代の都の人間を媒介として、イスラムシャトランジが、
吉備真備のような遣唐使を通して日本に、実際には頻度が、比較的高く
伝来する中で、

相対的に稀に、黒潮に乗って当時のマークルック、シットゥインが、た
とえば、船乗りが道具箱に、盤を描いた象棋具として、日本の港に流れ
着いたに違いない。しかしだとしても、イスラムシャトランジに関する
否定的な世論が、それらのゲームを、日本人がするかどうかをも、
否定的に決定していた

と、私は予想する。
 また、雲南の将棋については、以下の理由で、伝来は桁違いにしにく
かったと、私は見る。すなわち第一に、①中国の唐~五代十国~北宋と、
日本人との交流は、長いタイムスパンで見ると、連続的に続いたが、
実際の、その”中国人”は、長安・開封と言った、都出身の人物が、
日本の朝廷の墨付きを持って、来日するケースが、多かったはずである。
つまり、彼らは総じて、吸収する文化は、その時代の科学技術・軍事力
の世界最強国家、イスラム・アッバース朝の文物を、最重要視する、

いわゆるグローバリズムとして、その思想が現代人と、本質的に等しい

都会人であった。また二番目には、②後の自国内であったとしても、
もともと山岳部で、長安や開封に出るにしても、ヴェトナムのハノイに
出るにしても、雲南からはそれまでの道のりが遠かった。以上①と②の
理由だけからみても、中国の都人にとっては、地方文化でしか無かった、
雲南の将棋は、政治家で、雲南南詔国が吐蕃の緩衝国家となっており、
かつ吐蕃国と、政治交渉で交流の有ったと見られる、牛僧儒を除けば、
興味の対象から外れた。

その雲南の将棋は、10世紀に入ると、飛車等大駒を減らし、成りを
大臣に限定し、更には成る段数を3段目へ上げて、駒が成りやすくする
事によって、裸玉勝ちして、終わりやすくするルールを導入した。その
ために、それまでの象棋とは違う、新しいゲームの世界を作り出しつつ
あった。

が、だとしても、何かの理由(例えば、京都の内裏が火事で、金銀財宝
が消失したので、補充が必要になった)が無ければ、海のシルクロード
メインルートに比べても、雲南の将棋は日本には、桁外れに伝来し、
にくかったと考えられる。そして、三番目には、③そもそも雲南の
宝応将棋は、指す人間も、南詔や大理の王侯貴族に、基本的に限られて
いた事も、伝わりにくさを増大させた事だろう。
 以上のように私は、日本人の少なくとも一部の人間には、興味をそ
そらせるような将棋ゲームが、11世紀まで、以上3点の理由で、

中国雲南の山岳地帯に隠れていたのが、それまで日本に将棋文化が、
見出されない理由

であると私は見る。ようするに、本ブログの見解等によると、開発
テーマが、余りにもハードルが高く、12世紀まで未完成だった
シャンチー・チャンギを除いて、長い目で見れば、世界各国の象棋・
チェス類が、”イスラムシャトランジ類”と、日本人には、

一ククリにされて、無視されながらも、伝来はし続けていた。
その中には当然、東南アジアの、当時のインドチャトランガに近い
原始的な象棋類が含まれていた

という事であろう。
 つまり東南アジアの原始的将棋は、黒潮に乗って10世紀までに、
日本の港に、頻度が低いながら漂着はしていたが、日本人には、
指されなかっただけだと、私は現在考えているのである。(2018/03/06)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー