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日本将棋の駒はなぜ40枚か(長さん)

今回は成書の表題を、ほぼそのまま論題にしてみた。webに、同名の
増川宏一氏の著書に、”その回答が書いていないのが不満”との、読後
感想文も、散見されるからである。その読後感想文の不満に対し、将棋
史に興味を持つ者の一人として、今回は回答する事自体に挑戦してみよ
うと思う。
 そこで、これを読む読者に、増川氏の成書と同類との心象を、
予め持たれないようにするため、いつものように回答から、先に書く事
にする。
 つまり、日本将棋が40枚である理由は、以下のようになる。
①原始インドチャトランガの32枚制から出発した事から、枚数は、そ
れと、桁違いには、違わなくなった。
②日本の役職に関する古代官制の影響、及び中国・シャンチーへの習い
で、9升目へ転換して36枚制になるのは、ほぼ必然だった。
③その36枚へ、更に別の駒を導入する事に関して、公的権力である、
朝廷が中世に妨害をしつづけた。つまり、②で成立した標準的な中間的
将棋の、それ以上の進化が朝廷により、平安末期から戦国時代まで
実質的に、ブレーキが掛けられ続けていたと、ここでは考える。
④鎌倉時代中期に蒙古来襲があり、龍神信仰が盛んになり”龍が、日
本を守っている”という、神道型の思想が、朝廷でも定着した。他方、
走り駒のネーミングとして、龍類にするという方法があり、縦横と斜め
で、龍駒が2つペアーで作られるのも、技術的には必然だった。より
正確には、龍の形が影絵のように浮き出るように、将棋図で、ルール
を示す記号を書いたときに、4方走りと、その他の方向への歩みの記号
から、龍の姿が出てくるため、龍王・龍馬の名称の駒が作られた。更に、
中将棋の元駒から、龍駒の隣接升目行きを除いた駒が、龍王、龍馬を
成り駒とする、元駒、すなわち飛車・角行として2種類選ばれた。
そして③の事情が有ったにもかかわらず、特例で、

龍が日本を守るという信仰から、朝廷に特別に駒の導入が許されて、
それら龍駒に成る飛車と角行が、②が理由で対局者それぞれの左右に、
最低量の一つづつ入って、4枚増え、40枚制日本将棋が、成立した

と、本ブログでは考える。
このうち、①と②は定説なので、成書を読んでもらえれば、納得できる
だろう。本ブログの独自な点は、③と④が存在する事であり、それらに
ついて、説明が要るだろう。
 まず③についてだが、本ブログの主張の特徴的な点は、

日本将棋の成立に、ちょっかいを出した天皇が、恐らく大江匡房の時代
の、白河天皇と、戦国時代で、酔象を取り除いた、後奈良天皇の、二
人どころではなくて、多数居る

と、仮定している点である。なお、②は、誰かがやったとすれば、②が
正しい事自体は、明らかだろう。が、本ブログでは特に、本朝俗諺誌は、
正しい内容で、②の9升目化を行ったのは、初期院政派の、大江匡房と、
白河天皇だと、独自主張している事が、これも特徴である。
 そもそも、このような将棋の進化妨害をする標準作りの起源は、

院政派が摂関派を排除するのが目的

だったと、ここでは見る。8升目等の異国風の原始平安将棋を、9升目
の、現在我々が、”日本将棋から飛車角を取り除いたもの”とみる、
標準的な、平安小将棋に規格化する本当の狙いは、宮中から、

(A)玉将的実体を排除する事、および、
(B)玉将と金将の力に差が無いとの印象を与える、配列のイメージを
排除する事、

の2点であったと見られる。つまり、”(C)左右対称にする”という
のは、実は表向きの理由だったと見る。それは国軍を初めとして、国家
権力の中枢に、西暦1000年前後に摂関派が居たのを、排除する狙い
をこめたもの、という事である。すなわち西歴1000年頃の当時、
大宰府の国軍等を、実質的に牛耳っていた、藤原摂関の長者である
藤原氏が、元々は中臣氏であり、天皇家とは直接に繋がらない、
アメノコヤネノミコトの子孫とされた為、その国軍に於ける長は、

王族の将とは名乗れず、玉将になぞらえるのが、相応しかった

という事情が有った。つまり、たとえば西暦1015年頃には、将棋の
玉将は、藤原道長のなぞらえであると暗々裏に見るのが、合い相応しかっ
たと言う事になる。しかし、藤原氏には専制的な権力者はおらず、道長
の時代にも、副官、すなわち

金将としての、藤原実資等が居た。

つまり、その姿を玉将・金将として中央列左右に1枚づつ入れた、

8升目制の偶数升目の将棋は、藤原摂関時代の国軍を模したものとの
匂いの、ぶんぶんするもの

であったと、院政期の白河天皇等には、感じられたのであろう。そこ
で、その側近の大江匡房らが、

王族の将としての王将を玉将とは別に発明し、偶数升目は辞めて、
奇数升目にして、王将を中央列に置く、王将が他の将駒に比較して、頭
一つ超えた、院政期に相応しい日本将棋の原型を作成し広めようとした

と、ここでは見るわけである。将棋は、突き詰めれば、単なる遊びでは
あるものの、

兵法との繋がりのあるゲームで国家的なもの

でもあった。そこで、朝廷は、鎌倉時代に入って、権力が後退したものの、

自身の顔を立てる意味でも、将棋のルールに介入する事がたびたび有った

と、本ブログでは推定するのである。つまり、白河天皇の詔が、俗人等
により、否定される事の方に、後代になると、目を光らせ始めたと、言う
事であろう。このような規制が、実際有ったと言う証拠としては、平安時
代から戦国時代にかけての、京都府と滋賀県の遺跡に、藤原摂関派の拠点
と見られる、奈良県の興福寺とは対照的に、玉将駒が出土した例が、今の
所無いという事実を、指摘する事ができる。また、”玉将・王将口伝”と
でも言うべきものが、将棋纂図部類抄著者の、水無瀬兼成の家にも、藤原
氏の支族の一つとして、安土桃山時代には、残っていたのだろうか。
将棋纂図部類抄に”王将”の記載が、見当たらない事からも、今述べた
事情の存在が、ほぼ推定できると、私は考える。
 なおその藤原摂関派は、その後13升目68枚制大将棋を作成し、後世
には中将棋が、12升目92枚制になった。ので、それら摂関派起源の、
駒数の60枚以上と多い将棋は、後白河詔の否定ではなくて、他の将棋種
のプレーと、次第に解釈されるようになり、規制対象からは、はずれた。
主に問題になったのは、8~9升目で、駒数34枚以下と38枚以上の、
小将棋型のゲームだったろうと、私には想像される。なおその規制が、
現実には機能したため、実際に9升目の将棋が普及した。機能した理由は
恐らく、特に、製作される将棋盤の形に対する詔の効果が、中世でも無視
し得なかったからだと想定する。 恐らく9升目盤が、鎌倉時代~室町時
代にかけて比較的、多数生産され、まるで卑弥呼の鏡のように、その文化
が広がっていったのであろう。
 また、その進化妨害に対する、反抗勢力の力も弱かったと見られる。
反抗勢力の力が、伸び悩んだ理由としては、

たかだか遊びなため、それに強く反対する理由も、日本の世論には特に
見出せなかったため

だと、私は考える。なお、本当に嫌なら、中将棋を指せば良かったし、
大っぴらに反抗して見せなければ、事実上、咎めはない程度という理由も
挙げらよう。たとえば後者については、普段8升目32枚制の、原始平安
小将棋を、鎌倉の賭博場等で指していたとしても、後鳥羽上皇の御前では、
9升目35枚制駒落ち将棋(旦代難点回避型)の話を、皇族の顔を立てて、
していれば、朝廷からも特に咎められない、という事もあったと見られる。
また鳥獣戯画の落書きの将棋盤が、はっきり書かれて居無いのも、ひょっ
とすると、規制に引っかかるのを、防ぐ配慮のためだったのかもしれない。
 但し、この朝廷の作り出した標準には、たった今述べた通り、ルールの
落とし穴が存在した。

旦代の難点

である。そのため、標準的平安小将棋には、走り駒を追加するか、駒落と
して指すか等され、常に改変の潜在的力が、約450年に亘り、延々と存
在し続けていた。つまり、ゲームとしての出来の悪さから、この

36枚制で、進化が本当に止まるという事が、結果として許されなかった

と、考えられるのである。ところが実際には、
朝廷の改変に対する反撃は根強く、それに対する抵抗勢力も、特に人の命
や生活に関わりが無かったため、脆弱であった。そのため、小将棋の進化を
阻止しようとする、朝廷のバリアーのポテンシャルの壁を、乗り越える事
は、実際には、長い期間に亘って、容易ではなかったとみられるのである。
 そこで、いよいよ冒頭で述べた⑤の、龍駒に成る、飛車・角行が、
登場する事になる。そもそも、龍駒自体は、

平安大将棋の飛龍が起点

だったと見られる。もともと龍という名称の駒は、走り駒を作り出す、
アイディアとして使用された。すなわち、龍の首の長さを、将棋ルール図
の走り記号にみたてて、龍が付くなら、首を振りながら、縦横か、斜め
4方向に走りとする、2種類の走り駒の作り方が、開発された。なお、
龍は、体が大きいため、走らない隣接升目に、歩みの記号が、絵画的に付与
される事が、しばしば有った。そのために、現在の龍王や龍馬のルールに
なったとみられるのである。そもそも走り駒は、1枚でも導入すれば、
旦代難点が簡単に無くなることは、少なくとも西暦1450年頃の、
将棋の相手が余りに弱いので、相手に「飛車を1枚与えることにした」と
伝わる、甘露寺親長の時代には、充分に知られていたようである。
 なお、走り駒を作るほかの方法としては、行駒、車駒が初期から知られ、
後には鷲鷹等、”鳥は遠くに飛べるため走りとする”方法等が、現われた。
なお実際には、もっとあるのだが、近代に形成しかつ、きりが無いので、
今回は省略する。ちなみに、行駒・車駒・鳥駒については順に、行駒が
縦・横・斜めの3種類、車駒が、前、前後、十字走りの3種類、鳥駒は、
より多種類作られる傾向が、有ったようである。
 元に戻すと今述べたように、龍は首を振って、走り方向に任意性を、
2種持たせられるため、駒種を2種ペアーで、作り出しやすかった。
 この龍駒、すなわち、龍王と龍馬を、成りとする、飛車・角の登場が、

権力は低下したものの、思想界には影響を与えていた、戦国時代の朝廷の、
駒数36枚の、標準平安小将棋保持のバリアーを、上の理由⑤で述べたよ
うに、たまたま有った龍神信仰のおかげで、初めて打ち破る

事になった。裏にそのような事情がある事は、前に本ブログで言及した、
三条西実隆が、飛車成りの龍王、角成りの龍馬を書き忘れて、自身の
将棋の先輩、甘露寺親長の息子で、皇族と接触のある、覚勝院了淳に、
送ったところ、書状まで添付の上、駒を突っ返されたという史料から、
推定できる。すなわち突っ返し方にしても、その文書を、後生大事に
後世まで、保管し続けた、突っ返された方にしても、そこまで仰々しかっ
た理由は何だったのかを、良く考えれば、おのずと明らかになるので
ある。恐らく長年に亘り、

覚勝院了淳らは、いわば日本の将棋文化の遠い未来を考えて、そのような
行動をとった

と、書状を見た近親者に見られたからに違いない。
 ちなみに、現在の定説は、

”試行錯誤により飛車角が導入され、たまたま40枚制になった”である。

 この説の難点は、本ブログによれば、たくさんある旦代難点の解決策が、
比較的混乱も無く、ある時点から急に、40枚制の一種だけに、収斂して
行ったようにみえる、36枚から先の

40枚制日本将棋成立の謎を、明快には解いていない点

にある。
 またそもそも、従来の定説が正しいとすれば、成書のような表題は、
きつく言うと、そもそも考える意味が、最初から無かったと言うのに、
近いのではないか。
 何れにしてもその結果、龍王と龍馬にそれぞれ成る、飛車と角行という
走り駒が、標準型の平安小将棋に導入されると、旦代の難点が解消された。
そして、もともと中盤以降は、持駒ルールが、既に有ったためとここでは
見るため面白かった日本将棋は、序・中・終盤を通じて、卓越した面白さ
を発揮した。

そのため、

昭和時代の中期以降は、中将棋の残り火をも消し去り、現行の
駒数40枚の日本将棋が、日本の将棋ゲームの代表格の地位を、
不動のものにした

と言う事になったのである。(2018/03/11)

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