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平安大将棋の銅将は、なぜ斜め前に行けないルールなのか(長さん)

銅将は、平安大将棋の他、日本将棋等の小将棋系を除き、ほぼ全ての
日本の将棋に、存在する駒である。銅将の有る日本の将棋のうち、
平安大将棋を除くと、銅将は、前後と斜め前に計4方向に歩むルール
であると、私は認識している。ところが、銅将発祥の将棋かとみられ
る、

平安大将棋では、銅将は、斜め前に動けず、縦横計4方向歩み

となっている。今回の論題は、その原因を追究するものである。
 最初に、いつものように結論を書くと、

二中歴の時代には、双六が盛んだったため、サイコロの4の目のデザ
インの影響で、たまたま一時、記録のようなルールになった

のだろうと、根拠は乏しいながら、私は考えている。
 そもそも、平安大将棋の銅将と、他のたとえば中将棋の銅将のルー
ルとで、違う事による主な影響は、中将棋等では、攻め小駒として使
えるので、斜め前動き銅将は成りやすいが、平安大将棋型を仮に取る
とすると、動きが鈍くなるという差が、有ると見られる。中将棋では、
銅将は横行に成る。が、元来平安大将棋では金将、また、
西暦1320年~1350年頃の幾分後期の普通唱導集の大将棋でも、
銅将は、金将に成ったものとみられる。その後室町時代初期の、15
升目型4~5段組大将棋では、不成りになったのだろうが。
 何れにしても、最下段の駒が、金将等に成りやすいようにするため
には、銅将は平安大将棋のような、ルールにしない方が、本来は良い。
 しかし、敢えて銅将を縦横動きにしたとすれば、

成りやすさよりは、動かし方ルールの覚えやすさを優先した結果

なのではないか。つまり金将が、昔から斜め後ろへ行けない動きであ
って、猛豹の動き等へは、変えようがないのは、しかたないにしても、
銀将は、五角形に近い動きで、サイコロの目のようだった。ので銅将
も、サイコロの四の目の動きに、将棋纂図型のルール表の図を作った
ときに、見えるように、少なくとも西暦1200年時点では、したか
ったのであろう。
 恐らく初期配列で駒を並べた動かし方ルール表が、水無瀬兼成の将
棋纂図部類抄のように、鎌倉時代初期にも有り、その行き方方向に打
った点が、サイコロの目の形に似ている方が、平安大将棋のルールを、
覚えやすかった。ので、たまたまその時代には、銅将を”斜めへは行
けない動き”と、していたように、私は思うのである。
 なおそうすると、

鉄将が、後ろ三方へ後退できない5方向動き、であって3方向で無い
事が、一見すると説明し辛い。

これについては、二中歴の”鉄将不行下三方”の説明が、”鉄将不行
横下三方”の脱落の疑いを、私は、個人的に持っている。こうすると、
7個点打ちという駒は無いので、イレギュラーは有るのだが、金将が
6個点打ち、銀将が5個点打ち、銅将が4個点打ち、鉄将が3個
(サイコロのように)点打ち、桂馬が2個点打ち、香車が1線引きと
なって、

将棋纂図部類抄型ルール図の打点が、サイコロの目を並べた形になる

とみるからである。つまり、少なくとも西暦1200年頃には、金将
の立体駒の輝きは、立体駒将棋を止めた、初期院政期から120年程
度経っており、五角形駒に置き換えられて、記憶が薄れていた。その
ため、むしろ盤双六のような、ポピュラーなゲームの、サイコロの目
から、連想できるようなルールの覚えやすさが、優先されたのであろ
う。また恐らく、南北朝時代の中将棋の作者も、こうした、平安大将
棋の将棋纂図を、見ていたのであろう。
中将棋で、

銅将の成りを、横方向が歩みから走りに変わった、横行に充てた

のも、平安大将棋時代の、銅将のルールも、知っていたからだと見ら
れる。
 ただし、今に伝わる銅将の動きは、平安大将棋の銅将のルールでは、
少なくとも無い。ので、どこかで、敵陣に進撃しやすい、現行の銅将
ルールに、変えた事は、確かだと思う。
 それが、どこでかははっきりとはしないのだが、1段目と歩兵段だ
けが、上下非対称動き駒、2~3段目が成りルールも含めて、上下対
称駒で、占められていたと疑われる、本ブログの仮説である、

西暦1300年頃の、普通唱導集の13升目108枚制大将棋の時代
に、銅将は、斜め前と前後歩みの、上下非対称型に変えられた

のかもしれない。つまり、十字銅将は、最短では西暦1200年から、
西暦1290年頃までしか、存在しなかった可能性もあると、私は疑
う。なお、普通唱導集で、前記のように1と4段非対称、2・3段
対称に、ひょっとするとした理由は、ルールが規則的でリズミカルな
形になるから、というのは、有ると思う。
それ以外には、

仏教、神道、陰陽道、五行説とが、渾然一体となるものであって、私
には訳がわからないほど複雑な理由もある

のかもしれない。ただし解明は、複雑で困難だろう。また普通唱導集
を指す棋士の中でも、信心は、いろいろ宗派もあるので、温度差が有
り、ルールが規則的で、リズミカルな形にすると、覚えやすいので、
反対が少ないという点で、最大公約数の賛成のコンセンサスが得られ
て、これになっていたという、程度なのではないかとも、私は個人的
には疑う。
 以上のように、二中歴が書かれた時点で、恐らく立体駒の将棋の時
代よりも、約120年経っていて、銅将を金将等に敵陣で、成らした
いという要求に比べて、双六サイコロと似通わせて、動かし方のルー
ルを覚えやすくしたいという要求が、勝っていた。ので、銅将は少な
くとも一時期、縦横歩みに、なったのかもしれないと、私は考えるの
である。(2018/03/20)

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