SSブログ

大理国原始平安小将棋が、日本と大理国の中間地点に残って居無い訳(長さん)

かつて増川宏一氏が将棋Ⅰで言及したように、中国交易商人を媒介とし
た、定期航路による将棋伝来の東南アジア説には、たとえばタイと日本
の間を、海路で直線伝来するために、中間地点の中国の大陸奥地までは、
将棋を伝来させずに、日本にだけ上陸できる利点がある。それに対して、
本ブログのように、大理国から日本にゲームを伝来させようとすれば、
中国揚子江地域か、ヴェトナムのハノイまでは陸路のはずであり、その
中間地点に、ゲームが伝わる”種”をばら撒く事も予想される。ところ
が実際には、大理国の将棋は、基本的に日本でだけ花開き、中間地点に
は、痕跡をほぼ残さなかった、というのが、本ブログの主張である。
そこでこの矛盾の謎は、どう説明されるのか。以上が今回の論題である。
 そこで、最初にいつものように結論を書く。
原始平安小将棋は、大理国に於いて既に、板切れでそのゲームを置き換
えると、”金将”と書かれた経帙牌が、ゲームの中盤以降に多数発生す
るゲーム、

すなわち、ほぼ日本の最初の将棋に近い所まで、進化してから伝わった

ものである。ので、その将棋をすれば、金将と書かれた経帙牌等の板切
れではなくて、本当に金の塊駒が、自分の手に入るような身分に、伸し
上れるという野望が、将棋指しの心の中に抱けないような条件の、日本
の大宰府と大理国大和城の中間地域では、将棋指しにとって、そもそも
縁の無い将棋だった。つまり、

金将が多数盤面に残って、玉が詰むやら詰まぬやら、さっぱり判らない
原始平安小将棋(実は8升目と推定)は、それ自身は、ゲーム性能とし
ては低い、はなはだ、ばかばかしいゲームであった。がために、中国
揚子江地域ないし、ヴェトナム等の中間地域では全く流行らなかった。

以上のように、今述べた中間地域では、象棋が指せる能力を持った中国
人、ヴェトナム人等は、誰にも雲南・大理国の将棋は指されなかったの
で、日本の将棋と同じ系統のゲームは、現在日本と、中国雲南省の間の
内陸部には、全く残って居無いと私は考える。
 では、以下から、その説明に入る。が、その前に、回答すべき内容と、
少しズレるが、伝来元そのものでの跡の欠如と、松岡信行氏が、歴史時
代の、中国交易商人による定期航路伝来説の、難点として挙げている、
日本での伝来から将棋の完成までの、期間の短さについて言及する。
後者を先に言うと、従来の将棋伝来説は一般に、私に言わせると、

日本に来てから、日本の将棋にしようと、しすぎている

と思われる。そもそも中国周辺部のどこかに、晩唐代に既に宝応将棋が
あり、それを改善して日本の将棋にする事は、可能とここでも見る。の
で、それを日本の一条天皇の側近ではなくて、南詔国の後継国家の、大
理国の宮廷内で、ゆっくりすれば良いだけの話なのである。つまり、約

150年も猶予があれば、一条天皇の側近が急いでやら無くても、雲南
の王朝に任せれば、ネフライトを宝のトップに据えるという点が、日本
のゲームとしては、糸魚川流域の翡翠の算出量の多さから見て謎だが、
とにかく、日本の将棋は完成したのではないか。

 その後大理国は、モンゴル帝国によって、国家権力の座から追われ、
明王朝の時代に、完全に滅亡させられてしまっている。だから、大理国
の将棋は、いわゆる日本の将棋の、中国起源説派流の言い回しを借りて、

滅びてしまった大理国の運命と共に、中国では全く残らなかった、
名実共に、完成されてから日本に来た将棋

と考るだけで良いのである。つまり日本の将棋の元が、いわゆる中国の
中原王朝のゲームではなくて、雲南省一帯のローカルゲームでるがゆえ
に、北宋の首都の開封に住んでいたと見られる、シャンチーのゲーム
デザイナーにとっては、それは当時は、”近くて遠い外国のゲーム”で
しかなかった。だから、そのゲームがどんな内容であっても、シャンチー
の歴史にはほとんど、何の影響も無かった。

つまり、仮に日本の将棋が一時期、世界の2箇所で指されていても、
中国の現在のゲームにとって、ほとんど何の影響も無いので、そう仮定
して問題は無い

と本ブログでは考えていると言う訳である。なお、大理国将棋が日本に
上陸してから必要だった進化といえば、大宰府の写経所の五角形経帙牌
駒への置き換えは、高い才能が必要だが、直ぐにできたとして、その他
には、将棋場を”後一条天皇用の黄金将棋の、将棋盤のシナ桂は良い香
り~”と盛り上げておいてから、馬駒と車駒に、桂と香の修飾詞を付け
る程度で、実質大丈夫であったと私は見る。だから伝来は、歴史時代の、
北宋交易商人の(推定)周文裔により、西暦1015年であれば、
興福寺出土駒の西暦1058年に、充分に間に合うと私は思うのである。
 次に本家のゲームの消失についてのべる。ようするにこの点は、アジ
アにもかつて、滅亡した国も多かった事を思い出すだけで良い。すなわ
ち、現在の

中華人民共和国領土内で、一旦ほぼ完全に完成した古ゲームが、宮廷ゲー
ムであったがために、その当時の国が無くなると、そのゲームも完全に
もともとの場所では消滅して当然

だというイメージを、本来将棋史家は、簡単にいだくことができるはず
だと言う事だけである。なおこの将棋が、宮廷将棋である事を理解する
には、

安物の日本将棋の駒でも何でも使って、実際に平安小将棋を指してみる
だけで可能

だと私は見る。
 以上で、伝来元の痕跡が無い事の説明は、尽くされただろう。
 そこで次に、本題の中間地点での、日本の将棋の非存在について述べ
る。そもそも、将棋指しがゲームをするのは、

隣国隣組もそのゲームをしているからではなくて、賞金等の実利が有る
ためというケースが、今でもしばしばある

のではなかろうか。従って例えば野球が、ベーリング海峡付近で、現在
盛んで無くても、誰も日本の野球は、アメリカの真似ではないとは思っ
て居無いように、たとえ大理国の大和城と、九州大宰府との間の地域で、
西暦1020年頃に、8升目32枚制原始平安小将棋が、指されて居無
いとしても、日本の将棋の大理国起源説を、完全に否定する根拠には、
全くなっていないように、私には思えるのである。
 すなわち、大理国の将棋は、伝来を始めた時点で既に中盤以降、盤面
にある駒の中で、元の駒が成ってできた金将の割合が、飛びぬけて多い、

将棋ゲームとしては、本来だめな将棋

になっていたと見られる。つまり”金の塊を盤上に飾って、支配者が歓
ぶゲーム”だったのである。だから大理国を、この将棋が出発した時点
で既に

”歩兵が自分、と金が藤原隆家”というイメージがいだける、
西暦1019年に、刀伊の入寇に対して出陣した、日本の九州大宰府の
兵隊(武家)以外には、揚子江流域の中国人にも、ハノイ付近のヴェト
ナム人にも、ゲームとしては、興味がほぼ沸かないしろもの

に、そもそもなっていたと、私には容易に推定できる。よってその中間
地点にも、伝来元の中国雲南同様、日本の将棋の伝来の足跡が残らなか
ったと、私は推定するのである。
 なお、こうした日本の武家の野望が、将棋が普及する程度に継続、
また、日本国内で広がりを見せたという証拠としては、伝来から130~
40年後にわが国には、

平清盛という人物が現われ、平家政権という、自身が藤原摂関と
同じように奢侈な生活をする、貴族的な武家政権が実際に成立した

という点を、挙げる事ができると私は考えている。(2018/03/28)

nice!(1)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー