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桂馬と香車。桂馬は四人制チャトランガ。香車は宝応将棋起源(長さん)

最近、大阪電気通信大学の高見研究室の、摩訶大将棋のブログに、
将棋の外国産説のうち、日本に来てからの変化が少ないと、本ブログで
は見る桂馬と香車の外国起源説について、「古文書のサポートがない」
との指摘があるのに、私は気が付いた。これについては結論を述べると、

事実とは異なっており、有効な批判ではないとの立場を本ブログは取る。

 ちなみに、日本の将棋が外国からの伝来であっても、馬が八方馬、
車が飛車で伝来したとの論をとれば、高見研究室ブログの批判は免れる。
日本に着いてから、ルール変化が少ない論をとるという場合にだけ、
問題になるとみられる批判である。
 そこで何れも、前に本ブログでは紹介したが、サポートする古文書名
を書くと、以下の通りである。

馬が桂馬の例:インド四人制チャトランガに関する「南インドの
クンティ王の王子ユディヒシュティラと、ヴィアーサの問答形式文書」
これにより、四人制時代のインドチャトランガに、桂馬動きの馬駒有り。

車が香車の例:中国唐の時代の政治家、牛僧儒の「玄怪録」。将棋を記
載した物語に出てくる、仮称「宝応将棋」の輜車の動きが、香車である。

なお、これらは、桂馬については、原文の日本語訳が、成書、ものと人
間の文化史、”チェス”の第二章「チェスの起源」に載っており、この
記載から解読して、将棋史家の増川宏一氏が、同じく、ものと人間の文
化史23-1「将棋Ⅰ」(法政大学出版局)で、

四人制チャトランガの馬は、桂馬の動きである

と、指摘したとみられている。四人制チャトランガでは、初期配列の
利き升目から、桂馬が端筋にあると推定される事、端の歩兵が、その筋
で成ろうとしても、ドン詰まりで「ガーター駒」になる事から、四人制
チャトランガの馬は、横や後ろに動けないと、推定できるからである。
 また、香車の動きを説明した、玄怪録の日本語訳は、これも成書の、
木村義徳氏の「持駒使用の謎」(2001)日本将棋連盟発行が、最も
判りやすいように思える。こちらは、輜車が、そのまんま香車である。
従って

将棋の外国からの伝来説論者は、以上の古文書や、その解説書を使って、
将棋の外国からの伝来説を展開する事が、現在容易に出来る状況にある

と私は認識する。以上の事から本ブログでは、桂馬および香車の外国か
らの伝来説について、

対応する古文書が無いとの高見研究室ブログの指摘は、明らかな間違い

であると、考えるのである。(2018/04/21)

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南北朝時代遺跡からは、全部”裏草書体金”駒が出土しているのか(長さん)

以前述べたように、本ブログで、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡から、
西暦2007年に出土した”裏一文字金角行駒”を、

南北朝時代作と見ない根拠は、金の書体が草書ではないから

という点だけである。それは、少し前に述べた、麒麟抄の将棋駒の書き方
を根拠としている。しかしながら、”将棋駒の裏が草書書きであるべき”
と主張されているのが、平安時代院政期に書かれた大鏡の、藤原行成に関
する、天皇への扇子献上物語に、ちなんだ物に過ぎないのなら、

南北朝時代の駒師は、ニセ藤原行成の指導には、必ずしも従わなかった

疑いも有ると、考えられる。つまり、これでは、小山駒が後代の作である
証拠には、なっていないのではないかと、言う事である。そこで、今回は、
少なくとも成書”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”で、

小山市から出土した駒はのぞいて、他の実際に南北朝時代頃に出土した、
将棋駒の裏の字を調べて見た

ので、結果を報告する。
 まず、結論を述べると、歩兵駒が”今”の草書体である、”と金”に、
南北朝時代にはなったとまでは確実に言える。しかし、小山駒は角行であ
るから、既に持ち駒ルールも有るとすると、歩兵ほど、字体は崩さないと
考えられるから、これでは証拠にならない。

実は出土駒としては、南北時代は歩兵駒以外には、例が少なく、上記の問
題は確定できない

事が判った。
 では、以下経過を述べる。歩兵駒で良いのなら、鎌倉時代から南北朝時
代の遺跡出土駒としては、鶴岡八幡宮出土駒、鳥羽離宮出土駒、新安沖
出土駒(2枚)があり、何れも”と”である。つまり、鎌倉時代に入り、
鳥羽離宮出土駒の時代になると、少なくとも歩兵の裏に”金”とか”金将”
とかを書く習慣が、余りなくなった事は確かである。
 所が、他の種類の駒については、そうではない。
 南北朝時代ではなくて、鎌倉時代の駒で、字を崩して書くのは、

京都鳥羽離宮遺跡の銀将と、前に素性を論じた事のある、
安芸平賀氏関連の、秋田県の手取清水遺跡の桂馬の計2枚だけである。

他に、鎌倉時代の遺物としては、神奈川県鎌倉市雪下の若大路遺跡の桂馬、
兵庫県玉津田中遺跡の桂馬が知られ、この二枚は、”金”になっている。
つまり、歩兵以外のその他の駒は、

鎌倉時代頃には、五分五分であって崩さなくても、良かった

疑いが強いという事ではある。だから”麒麟抄に駒師は従った”と論のは、
多少は怪しいのである。
 しかし次が大切な事だが、歩兵以外の南北朝時代に近い出土駒としては、
今の所、鎌倉時代最末期とみられている、

新安沖沈没船出土駒しか、はっきりと時代が判るものがない

ようなのである。そして、新安沖沈没船からは歩兵以外の出土駒で、裏面
があるものが2枚出土しており、二枚とも桂馬で、2枚の桂馬の裏は”と”
になっているとされている。

つまり、麒麟抄を判定する、歩兵以外の出土駒は、どうやら2枚しかない
が、この2枚については、麒麟抄の内容の通りになっている

ようであるという事である。この事から、

”栃木県小山市神鳥谷曲輪の角行は、裏が『金』なので、麒麟抄が正しい
とすれば、南北朝時代のものでは無い”という推論は、例が少なすぎて、
出土駒の事実からは、たしかに怪しいものの、絶対に間違いだとまでは、
まだ言えない

という事になる。つまり、小山の角行駒には厳しく、他方麒麟抄の中身は
好意的に見ると一応、麒麟抄の成りの文字の書き方が、南北朝時代の駒
師の、標準になっていたのかもしれないので、小山の角行駒は今の所、疑
うべきだと、いう事になる訳である。(2018/04/20)

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改良型普通唱導集大将棋では、それではとんな戦法が発生するのか(長さん)

 今回は、表題のように、改善された普通唱導集時代の13升目大将棋
の実戦での戦法の話題である。
 さて前回までの結論によると、普通唱導集の大将棋の唱導によると、
普通唱導集大将棋は13升目制の将棋であって、袖が
三段目は・・・龍馬、角行、堅行、横行、飛車
二段目は・・・猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車、
と並ぶ配列であり、横行部分が相手の、龍馬、角行で素抜かれて、反車
が討ち取られ、続いて防御側右端筋への攻撃により、一段目香車と残り
の飛車が排除されると、成り麒麟で詰むという、定跡のある将棋との事
であった。
それに対して、本ブログで改善した大将棋は、
三段目は・・・龍馬、角行、堅行、飛龍、飛車
二段目は・・・猛虎、横行、方行、猛牛、反車、
と並びを変え、方行を入れて嗔猪を取り除いた配列であり、飛龍位置で、
飛龍自身の仲人への利きと、桂馬、猛牛、方行の連携で、反車の排除が
防止される将棋となる。そのため、上記の普通唱導集の大将棋の唱導で
唄われている、自明な定跡は、それにより排除されるという事であった。
 なお、1300年当時の大将棋は、かなりwikipedia等の駒
と、動かし方のルールに、差が有ったと見ている。今回の改良版では、
動かし方は、現存流に、ほとんど変えている。つまり、猛虎も中将棋の
盲虎の動きとする。ただし、飛龍と猛牛は、大阪電気通信大学の高見研
究室の、跳びより更に、中間相手駒が取れる分強い、踊りであり、更に
は、狛犬のように一目でも踊れるとした。つまり獅子の踊りと、正行度
か不正行度かの差はあるが、また居喰いもできないが、覚えやすさを優
先して、統一している。
 ちなみに、大阪電気通信大学の獅子は、八方自駒で塞がれていても、
じっとの手が指せる分、中将棋連盟等の獅子より”ほんの少しだけ”強
い。
 また、成り条件は4段目になるが、星目が基準である点以外は、日本
将棋と同じとした。なお、酔象が太子に、麒麟が獅子に、鳳凰が奔王に
成り、その他では、今回は、歩兵と一段目の金将・玉将以外、反車と
仲人が、金将に成るという、二中歴の大将棋と同じと、本ブログが見る
ルールを採用した。

これは、前と違っていたかもしれないが、
桂馬や香車が、行き止まりになるのが、やはり気になったため

である。
なお、鎌倉の鶴岡八幡宮出土駒の香車は、不成りの疑いがあり、鎌倉時
代草創期とは合致するが、鎌倉時代後期とは、今回のルールは有って居
無い。それでもこの成りパターンは、3段目が全部不成りであって、
角や飛車が、龍馬や龍王には成らずに不成りなため、日本将棋や中将棋
とも、別のルールとなってしまっている。室町時代最初期風の、古めか
しい成りである。
 では、その結果この将棋は、「古来、定跡がないゲームと言われ」る、
中将棋のように、定跡の見当たらないゲームになるのであろうか。なお、
一見中将棋は、これが優秀性を表すともいわれるし、特別な規則の有る、
獅子の働きを活用しながら、じわじわと、ゲームが進行する展開になる
のを、

かったるいと、否定する意見もあり、両論並立の状態と、私は見る。

以上を踏まえて、どうなるのかというのが、今回の論題とする。
 結論からすると、

少なくとも、日本将棋の棒銀に似た、銀、銅を前走り駒の前に置いて、
枚数の差の論理で攻め勝つ、比較的ポピュラーな戦法は残る

ようである。特に、上記のように、方行という、十字走りの駒を2枚増
量した結果、棒銀戦法類似の陣形は、有効に作り易くなっているように
思える。
 以下は、そのような局面の例である。なお、局面は▲11六歩兵と
進んだところである。

棒銅戦法.gif

 この局面では、後手上側が、角×2・馬×2の攻撃で、先制したが、
失敗し、それに対し、守り側の先手が、駒得の勢いで、急攻めはせずに、
地道に、左方行の前に、左銅将を、中央左右の龍王の先に、銀将を繰り
出して、ゆっくりと、3本棒銀棒銅戦法にでた所である。なお、この局
面でも、先手が駒得で有利である。そして局面では更に、▲11六歩兵
と、歩兵同士を当てて、12七位置に、先手は銅将を繰り出しているた
め、枚数の差で、第11筋を破ろうとしているところである。
 そこで、この局面を更に進めてゆくと、一例では下のように、龍王先
の銀将のうちの一枚が、遂には後手陣に突入する。

棒銅其2.gif

明らかに、先手は、もともと駒得状態から進めているので、相討ちで
相手の大駒を、全て排除して、麒麟が成り込めば、だいたい勝てる局面
から、出発していたと、私は考える。が、小駒を繰り出しておいた結果、
後手の、中央部分の小駒、猛虎×2、酔象、金将×2で作る、初期の玉
の囲いの陣を、撹乱する事もできるようになった。

その撹乱の分だけ、差が更に広がると見られる。

よって、改善型の普通唱導集大将棋でも、

棒銀戦法のようなものは、戦法の乏しいとされる、中将棋とは異なり
取り得る

ように、私には認識される。通常は本ケースでは、駒得側が、相討ちを
どんどん仕掛けて、攻撃をたたみ掛けてくるので、中将棋の展開とは、
ぜんぜん違って、比較的派手な、走り駒同士の攻めあいに、なり易い
展開になるような気が、私にはする。しかし、それに劣勢側は、単純に
応じていたのでは、自分が更に不利になるのは自明であるから、容易に
は応じないであろう。よって、上記で示したように、優勢側は、ゆっく
りと相手の防御手段を、自身の小駒で排除して、勝ちに持ってゆくのが、
得策のように思える。(2018/04/19)

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13升大将棋。麒麟・鳳凰導入と猛牛・嗔猪導入どちらが先か(長さん)

前回、本ブログによる、西暦1200年から西暦1260年までの
大将棋(当時は13升目と推定)の変化について、飛龍の変更に関
連して再録した。そこで、こんかいはその勢いを借りて、西暦
1260年頃から1290年の普通唱導集記載の大将棋までの、
30年間の変化について、問題にする。表題に示したように、本ブ
ログでは、この間に
(1)獅子と奔王に成る、麒麟と鳳凰が導入され
(2)鬼門を守る動物種で不足分の、牛と猪が、猛牛と嗔猪の名称
で導入される
という、2つの要素の追加があったと見ている。
 そこで、今回は今までと違い、これを2つに分けて考え、

(1)と(2)とで、どちらが早かったのかを考えてみる事にする。

まず、結論を述べる前に、西暦1260年頃の大将棋と、普通唱導
集時代直前の、西暦1290年頃の大将棋は、それぞれ以下のよう
な初期配列であったと、本ブログでは推定している。

酔象復活期の大将棋の配列(西暦1260年頃・本ブログの見解)
五段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
二段目:反車飛龍口口口口猛虎口口酔象口口猛虎口口口口飛龍反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

普通唱導集の大将棋の配列(西暦1290年頃・本ブログの見解)
五段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
二段目:反車飛龍嗔猪猛牛猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎猛牛嗔猪飛龍反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

ここでの論題は、その中間の、たとえば西暦1275年ころの初期
配列が、以下の(A)と(B)とで、どちらが正しいのかという、
内容である。

(A)麒麟/鳳凰早期説(一例:西暦1275年頃)
五段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
二段目:反車飛龍口口口口猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎口口口口飛龍反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

(B)猛牛/嗔猪早期説(一例:西暦1275年頃)
五段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
二段目:反車飛龍嗔猪猛牛猛虎口口酔象口口猛虎猛牛嗔猪飛龍反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

そこで、これだけ準備した上で、最初に結論を述べる。

ずばり、正しいのは(B)であると、本ブログは考える。

根拠は、次の通り2つある。
(1)猛牛と嗔猪の動きは当時、酔象と猛虎の斜め動きを、単純に
縦横に変えて作られたものと、見られる事。それに対して、麒麟/
鳳凰の当時の動きは、それより手が込んでいる。
 なお、補足すると、本ブログでは、復活酔象が、中国シャンチー
象だったとの立場を、今の所取る。すなわち、
酔象は、2升目先にだけ行ける、斜め4方向走り。
猛虎は、斜め4方向隣接升目へ歩み。
それに対して、初期の猛牛と、この時代の嗔猪の動きを、本ブログ
は、対応する、縦横動きと見る。すなわち、
猛牛は、2升目先にだけ行ける、縦横計4方向走り。
嗔猪は、縦横4方向隣接升目へ歩み。
 つまり、(B)のように、中央から袖へ、金将の前升目を飛ばし
て、酔象、猛虎、猛牛、嗔猪と、動きを規則正しく並べた配列を
先に作り、ついで、それより複雑な、麒麟と鳳凰を後で入れたと考
えると、つじつまが合うのである。なお、当時の麒麟と鳳凰は、
以下の動きだったと、本ブログでは推定している。
麒麟:猛虎の動きを2回繰り返す。(原始的な踊り動きを、始めて
する駒になった。)
鳳凰:当時の酔象と、嗔猪を合わせた動きである。従って、斜めに
は、2升目だけで止まれる走りであって、当時は塞象眼が有った。
つまり、

鳳凰の動きを発明するためにも、その前に嗔猪を作る必要があった

と、本ブログでは、推定するのである。なお、だからこそ、麒麟の
成りが、不正行度の踊り動きである獅子に、鳳凰の成りが、大走り
の奔王になったのだと、本ブログでは考えるのである。
 以上が、根拠の一つ目。
 根拠の二つ目は、
(2)もし(A)のような中間形がしばらく存在してしまうと、
普通唱導集の大将棋に記載された、普通唱導集大将棋の

難点が、猛牛と嗔猪の導入で、増大しているのが、皆にバレてしま
う。そのため、猛牛と嗔猪は陰陽道に反していたとしても、捨てら
れてしまい、普通唱導集大将棋へ移行しなかったはずだから

である。すなわち、(A)のような将棋が仮に有ったとすると。
(A)で、▲3十二鉄将~▲3十三飛龍~▲4十二飛龍~
▲3十三銅将(銅将は嗔猪の導入で、横に動けなくなったと
みられる。よってこのケースは横に行ける。)~
▲3九歩兵~▲3十堅行~▲3十一桂馬~▲2十三銅将~
▲2十二銅将とすると、次の局面になるが、これは普通唱導集の
大将棋で唄われた、端攻め定跡の、角2枚+馬2枚斜め攻撃では、
比較的崩れにくい陣形になっている。

参考(A)から作れる、端攻め定跡で崩れにくい陣形
五段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人歩兵口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵堅行歩兵歩兵
三段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行桂馬横行飛車
二段目:反車飛龍口口口口猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎飛龍鉄将銅将反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将口口口口口口香車

そこで、もし(A)の初期配列のような将棋が、しばらくあったと
すると、そのあと猛牛と嗔猪を導入して、普通唱導集大将棋を作成
すると、猛牛と嗔猪の導入のせいで、普通唱導集大将棋には、問題
が発生したと、当然棋士には判ってしまう。つまり、

上記のような陣は、猛牛や嗔猪を加えた升目が、空いていたから
作れたのであって、これらが導入されると作れない。だから、猛牛
や嗔猪を加える事で、問題が、増幅された事に皆気がつく

のである。そのため、鬼門が崩れても、別の将棋にしようとする動
きが、当然ながら起こってしまい、

実際の歴史の事実と違って、大将棋が滅亡しなくなってしまう

のである。
 これでは、当然おかしいので、

猛牛と嗔猪には、麒麟や鳳凰よりも先に導入されたという、既得権
があるはずだ

という事になるのである。
 以上の2つの理由で、極短期間だが、

(B)のような初期配列の大将棋が有った可能性がある

と、本ブログでは推定する。ただし、2段目中央付近に空隙がある
形は、いかにもおかしいので、(B)のモデルのような将棋は、
長くは続かず、麒麟と鳳凰は(B)の形からまもなく、発明された
はずである。また、

 そうすると、普通唱導集大将棋は、発生してからせいぜい25年
で、難が見えてしまった将棋

だったと、言う事になる。むろん、それでも陰陽道が無ければさら
に形は更に変化し、チェスのように、大駒が比較的多い形で、難が
消えれてしまえば、百年単位で生き残るゲームに、なり得たはずだっ
たと、本ブログでは推定するというわけである。(2018/04/18)

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平安大将棋。配列が歩兵3段から歩兵4段になったのは何故か(長さん)

表題の件について、誰がオリジナルなのか、はっきり私は知らないが、
少なくとも将棋史研究者の故溝口和彦氏が、二中歴の駒の配置の記載
の言い回しの文字の差から、

平安大将棋は、二中歴の記載を読む限り4段配列である

と、生前表明していたと認識している。彼によると、二中歴時代の
大将棋の初期配列は、以下のように、表現されていたと思う。

二中歴の平安大将棋(4段配列型・溝口)
五段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:口口口口飛龍口口口口口口横行口口口口口口飛龍口口口口
二段目:奔車口口口口口口猛虎口口口口口口猛虎口口口口口口奔車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

彼は、二中歴の大将棋の記載で、横行、猛虎、飛龍、奔車の位置説明
で、それぞれ横行は玉将と、猛虎は銀将と、飛龍は桂馬と、奔車は香
車と、どういう位置関係かを表す漢字の、”頂”と”上”の字の違い
等を細かく問題にして、上記配列を、割り出したと、私は理解してい
る。
 結論を最初に書くと、”頂”と”上”の字の違いだけを、単純に
問題にすると、正しくは、次のようになると、本ブログでは考える。

二中歴の平安大将棋の記載(4段配列型・本ブログの見解)
五段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:口口飛龍口口口口口口口口口口口口口口口口口口飛龍口口
二段目:奔車口口口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口口口奔車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

か、または
二中歴の平安大将棋の記載(3段配列型・本ブログの見解)
四段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:奔車飛龍口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口飛龍奔車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

つまり本ブログでは、単純に、

頂と書かれているときには、直ぐ上、上と書かれているときには、
2段目と3段目の場合が、有り得ると言っていると解釈した

のである。つまり、西暦1200年時点で既に、平安大将棋には、

3段歩兵型と4段歩兵型が並存してあると、これより本ブログは、
主張を変える事にした

という事になる。
 なお、本ブログと溝口説の差は、溝口説では、横行がなぜ3段目
なのかは不明だが、飛龍に関する二中歴の記載の”上”を、桂馬の
行き所と彼が解釈しているのに対し、本ブログでは、単純に直ぐ上
か、その先と

”上”の字は、方向のみを示し、位置をぼかした言い方である

と考えているという違いから来る。
 以上のように、根拠は、実際に
”頂”と書いてある場合は、隣接前升目、”上”と書いてある場合
は、可能な限り、歩兵段の下までの、何れかと考える事にしたとい
うだけの事なので、今回の論題に答えるためには、
それが、正しいと見られる根拠を、示せば良いという事だけである。
 そこで、正しいと見られる根拠を次に述べる。
これも、答えから先に述べる。

飛龍が角行の動きで間違いないのなら、互いに相当たりしないよう
にして、局面をより早く、激しいものにするための配置換え

であるというのに、間違いないと私は考える。
 つまり、これが今回の表題の答え、配列が歩兵3段から歩兵4段
になった理由でもある、という事である。

飛龍は、溝口説のように、相変わらず相当たりのままにはせず、単
純に前に一升目上げ、筋を変えて、わざと初期配列では浮いている、
猛虎の頭の歩兵に、互いに狙いが付くようにした

のである。理由は、猛虎を斜め袖上に進めるように、陣を組みなお
さなければならないようにして、局面に変化を起こすためである。
猛虎を袖斜め上に上げれば、飛龍に睨まれた歩兵には紐が付くので、
受かるのである。そしてこうすると、更に銀や横行を繰り出して、
相手飛龍で当てられた、銀前の歩兵を守りながら、今度は、猛虎を
自身の飛龍先に出して、”斜め棒猛虎戦法”のような、戦い方を、
自然にするように、棋士に仕向けさせるのが狙いと見て間違いない
のだろう。つまり、ゲームが互いにエキサイトするように、にらみ
合いだけの3段目歩兵配列から、

銀先の歩兵が不安定な、4段目歩兵配列に変えたというのが私の説

である。
 つまり、四段目になったのは、第二日本標準将棋の記憶が薄れて、
9升目型の標準平安小将棋の日本歩兵3段目配列に、こだわらなく
なった、発生数十年後の、

西暦1170年頃に、ゲームとしての純粋な性能の改善作業が、
大将棋に関しては、行われ始めていたという事、

なのではないかと、いう事である。
 ただし、元々平安大将棋は、第二標準日本将棋として、西暦11
10頃発明されたものであり、西暦1200年時点でも、その記憶
が残っていたものとみられる。そのため、

飛龍の位置のルールを桂馬”上”と、頂をも包含するように、二中
歴の大将棋の記載では、工夫して、ぼかしているのではないか、

と私は思う。なお、以上の説が正しいとすると、前に本ブログで述
べた、次の時代、すなわち川西大将棋とも言いえる、西暦1230
年時点での大将棋の配列に、変更が必要となる。すなわち、以前
西暦1230年時点で、大将棋は、次のような初期配列だったろう
と、本ブログでは以前に表明している。

川西遺跡大将棋の配列(西暦1230年頃・本ブログの見解・以前)
五段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車口口口口口口口口口口奔横口口口口口口口口口口飛車
二段目:反車飛龍口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口飛龍反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

なお、奔車は、奔横や奔王の加入により、何れ反車になると見られ
るが、それが正確にいつかは、今の所良く判らない。
 これが、飛龍の所一箇所だけ変わって、次が正しいと、見られる
と言う事になる。

川西遺跡大将棋の配列(西暦1230年頃・本ブログの見解・新)
五段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車飛龍口口口口口口口口奔横口口口口口口口口飛龍飛車
二段目:反車口口口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口口口反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

ただし、西暦1260年頃、モンゴル帝国が強くなり、社会不安
から横行位置に酔象が入り、横行が、飛龍の位置に追われると、
今度は飛龍が横行に追われて、飛龍は、後退せざるを得ないため、

本ブログの西暦1260年時点での、大将棋には、配列変更は、
たぶん必要ないだろう

とみる。つまり、飛龍が前進したのは、鎌倉時代前期の一時期だけ
だったと、今の所は、考えると言う事である。すなわち、西暦
1260年頃の、大将棋の初期配列に関する、本ブログの見解は、
以下のように、一応元のままである。

酔象復活期の大将棋の配列(西暦1260年頃・本ブログの見解)
五段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
二段目:反車飛龍口口口口猛虎口口酔象口口猛虎口口口口飛龍反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

なお、注人から仲人への変化は、恐らく角行の導入時だと思うが、
正確には今の所、いつからかは良く判らない。
 なお書き忘れたが、二中歴では、大将棋の飛龍のルールは、
全部書くと、次のようになっている。(加賀・金沢藩、前田家本に
よる。)

飛龍立桂馬之上。行四隅、超越。

以前紹介のとき、行が抜けていた。この”行四隅、超越。”部分は、
木村義徳氏の「持駒将棋の謎」の読み下し等によると、動詞が2つ
ある複文である。前回の本ブログの、SV文との解釈は舌足らずで、
正しくはSVO、SVの複合文(飛龍が2つ省略)と、見るべきだっ
たようである。

「飛龍は桂馬の前方に置く。そして動きのルールは、
四隅それぞれへ行き、かつ軽やかに制限なく疾走する」と意訳できる

と、私は考えるのである。
 なお後に、後期大将棋で、飛龍が初期配列で、再度前の方の4段目
に躍り出たのも、以上の記憶が、永らく残っていたからに違いない。
 何れにしても、二中歴の時代には、平安大将棋が発生してから
90年位経っており、その進化が始まっている分の、表現の工夫が、
二中歴作者には必要だったという事が、充分に有り得るのではないか
と、私には推定される。(2018/04/17)

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大鏡で後一条天皇の玩具話を確認した(長さん)

松岡信行著「解明:将棋伝来の謎」(2014)記載に紹介の有った、
後一条天皇が与えられた玩具のうち、藤原行成の回しコマにだけ興味を
示した話を、実際に大鏡で私も最近確認した。

見出しで”後一条天皇”の所ではなくて、藤原行成の祖父と聞く、
第3巻の見出しが”藤原伊尹”の所に記載

されていた。本ブログにとって最大の注目点は、西暦1015年の、
三条天皇の住まいの、相次いだ火災の後の方との関連で、西暦1019
年までの、”玩具”の保管場所なのであった。が、
 少なくとも将棋具が入る方と見られる、その他大勢の玩具については、

”後一条天皇は、その他大勢の方の玩具は、籠められにけり”と、古文
形式にすると大鏡には記載されている

ようである。なお、今回参照した文献は「新潮日本古典集成」の大鏡、
校注者が石川徹。発行は新潮社(2017)である。
 つまり幸い”蔵に行った”といったように、保管場所までは、書かれ
て居無い。また、籠められた玩具は、藤原行成献上のコマ以外であって
多数あり、大鏡の文面を読む限り、その、その他大勢の玩具には、

”黄金”と”銀”とその他の材料で、立体意匠が、必ず工夫されていた

とあるようだ。また献上は、元々は後一条天皇の”玩具希望”の詔であ
り、それによって、各玩具の製作が開始され、多数の人間によって、多
数の物品が、献上されたものとの印象を与える、書き方となっている。
 なお大鏡では、藤原行成の話題がその後も続き、上記後一条天皇の玩
具話に続いて、どの天皇なのかは不明なようだが、一条天皇ないし後一
条天皇等へ献上された、藤原行成の扇子の話が、大鏡には載っている。
 この話と、後一条天皇の玩具(コマ)の話は、セットのようである。
すなわち扇子の話の最後が、「いづれもいづれも、帝王の御感侍るに
増す事やは、あるべきよな」という文句で結ばれていて、後者の扇子話
でだけ出てくる献上品の材料も、後一条天皇の玩具の原材料を理解する
うえで、参考になりそうである。
 具体的には、材質だが、玩具話では黄金、銀の他は、その他となって
いるだけだが、扇子話では、”金・銀の他として、熱帯産の香木、イン
ド産の木材を使い、蒔絵・象嵌を意匠的に施して、作成した”となっ
ている。何らかの”香りのする”木を成形した玩具用材料が、黄金と銀
のほかに、有ったのかもしれないと、明らかに読み取れる。つまり、

それが将棋の駒だとすれば、香車や桂馬には、香りがしたという事だ。

 次にそもそも大鏡では、藤原行成の工作の逸話で、似たような例を、
2つ出すことによって、後一条天皇時代の朝廷内では、支配者層が、
黄金、銀、外国製香木材の彫刻品等で、遊戯をする事が、そうでない場
合よりも、多数派的である事を、強く印象付けるような、書き方になっ
ている。特に、扇子話では玩具話と異なり、金・銀材料を、献上品の扇
子に使わなかったのが、藤原行成ただ一人と、はっきり記載している。
 何れにしても当時の朝廷”一条帝サロン”では、コマの形の奇妙さ、
使用中の姿の奇妙さが尊いと感じるのは、藤原行成と、当の贈答された
側の一条・三条・後一条天皇位の、少数派であったようである。
 さて扇子の話では、黄金、銀、熱帯産の香木、インド産の木材を使っ
て彫り物をした上で、理由の例としては、外国の入手しがたい書物が、
出典の為、知る者も少ない歌や(漢?)詩を書いたり、国内の景色の絵
を描いたりして、天皇へ贈答した品である扇子が、多数あったと書かれ
ている。すなわち、手に入りにくい書物の収集が、趣味だったとされる、
藤原道長が、当時の朝廷内の文化の多数派の代表の一人である事を、こ
れは示唆する内容のように、私には思える。
 それに対して、天皇と藤原行成からなる少数派は、中国古代の楽譜を、

扇子の表には、楷書で、裏には同じ内容を、草書で書いたものを作り、
書体の差による、字の形の変化を楽しんだ

とある。内容は、これを五角形将棋駒に置き換えると、麒麟抄の将棋の
駒への字の書き方と、同じである。ただし、麒麟抄の将棋駒の書き方の
ように、

こうした楽しみ方を、標準であると大鏡では少なくとも強調していない。

藤原行成の、一風変わったアイディアを、奇抜な物で、”天皇にはさす
がに判るものだ”というスタンスで、紹介しているように、少なくとも
私には読める。つまり、麒麟抄の”藤原行成の将棋駒”ように、多数派
を自認した、教育的な話の進め方になっていない。

 従って大鏡には、藤原行成と麒麟抄との繋がりが、悪い事を示唆する
内容が書かれていると、みるべきなように私には思える。

 つまり大鏡の藤原行成献上の扇子の話は、南北朝時代に、大鏡のこの
部分を読んで、なりすましのニセ藤原行成が、将棋駒の書き方の話へ、
大鏡を深く読む事無しに、題材を真似ただけである事を、強く示唆す
るように、私には読めた。
 以上まとめると、大鏡を読む限り、

当時の朝廷では、藤原行成が一人でがんばっていても、朝廷で最初に
使用される将棋の玩具が、黄金や銀製や外国産の香木に、意匠や蒔絵を
施した立体的将棋駒である可能性が、最も高かった。だが後一条天皇は、
藤原行成と同じ、表が楷書で裏が草書で、文字が書かれた物品を尊ぶよ
うな少数派側に、たまたま立っており、黄金の将棋具等の使用は、それ
が存在したとしても、せいぜい一回限りで、終わってしまったようだ

という想象を、強くかきたてる内容のようであった。(2018/04/16)

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普通唱導集大将棋の改善。配列を変えるだけでは本当に無理か(長さん)

前々回に指摘したように、普通唱導集時代の大将棋には、2段目に並んで、
猪、牛、虎、龍駒が有り、この構成要素を削るような、改良は陰陽道の影
響で、南北朝時代頃には無理だったという事だった。他方、以前に私は、
猪駒を、方行という、行駒系の走り駒に取り替えて、配列を変えると、
普通唱導集の大将棋の唱導に書かれた、端攻め定跡及び、その回避策定跡
が、意味の薄い戦法になってしまい、問題が改善されるのではないかと、
本ブログで発表している。しかし、この論法には、次の抜け穴がある。
すなわち、

猪駒、嗔猪(しんちょ。いかりゐ)の名前はもとのままで、方行のルール
にすれば、配列を変えるだけで済むのではないか

という事である。ちなみに嗔猪は、縦横隣接升目行きの小駒、方行は、
飛車の動きに加えて、斜め前の隣接升目へも行ける、大駒であるから、

小駒と大駒で、大差が有る。

しかし、駒数多数系の将棋に興味の無い、現在の日本人のほとんどは、
嗔猪(しんちょ。いかりゐ)が、大駒に摺り返られたとしても、気がつく
ケースは少ないのかもしれない。”怒っているだけで、まだ行動を起こし
て居無い猪が、走り駒だ”と言われたら、大将棋を指す人間なら、その論
を、即座に蹴っ飛ばす所なのだろうが。
 だが、もう少し変更を小さくして、

小駒から小駒への取替え程度で、普通唱導集指摘の、”自明な定跡”が
発生する普通唱導集大将棋は、本当に改善できないのかどうか

すなわち、方行に変える事は、必然だったのかどうかを、今回は一応チェ
ックしてみた。
 なお、普通唱導集大将棋は、平安大将棋と、最下段はいっしょ4段目は
元々3段目だった歩兵段であって、歩兵段の上の5段目の注人が、真ん中
配列だったのが、3歩左右に分かれて横に歩んで進み、2個の仲人になっ
ている。そこで、問題なのは実質、2段目と3段目だけである。
 元々の普通唱導集大将棋は、本ブログの見解では、中央の二段目酔象と
三段目奔王を中心として、酔象の隣の、麒麟と鳳凰が、麒麟が左に鳳凰が
右に配列されて、後は中心線に対して左右線対称である。そこで、問題
となる、攻められ側の右の配列を、第7筋から端筋(第1筋)まで示すと、
次の配列になっているとされる。

三段目:奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、横行、飛車
二段目:酔象、麒鳳、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車(麒鳳は左が麒麟右
が鳳凰)

そこで、これでは横行と反車が、タスキがけの角2枚・馬2枚攻撃を普通
唱導集の第2節の、防御策に示唆されるように受けて、崩れてしまうので、
次のように、配列変えと、嗔猪~方行交換を本ブログは提案したのである。

三段目:奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、飛龍、飛車
二段目:酔象、麒鳳、猛虎、横行、方行、猛牛、反車(麒鳳は左が麒麟右
が鳳凰)

こうすると、タスキがけの角2枚・馬2枚攻撃は、飛龍自身と、猛牛、方
行の斜め前利き、及び一段目の桂馬を堅行の位置に上げれば、仲人地点へ
の利きにより、4枚ともこれで、止められてしまうというわけである。
つまり、

普通唱導集の第2節に唄われているように、嗔猪をだらだらと登らせて、
仲人の横に付けるような陣地を、苦労して作らなくても、右仲人と飛龍
の地点での、2段構えで普通に支える事ができる

という事である。
 ではたとえば、本来縦横の歩みである嗔猪を、方行とまでは行かなくて
も、斜めと横の隣接升目の計6方向歩みに、

すなわち、大将棋の古形嗔猪の動きを、江戸時代の大局将棋の嗔猪に変え

れば、飛龍地点の紐が1本増えて、”角2枚・馬2枚攻撃”が、かわせな
いのかどうかが、今回の確認点であった。
 そこで今回はやっとになってしまったが、結論を書くと、

方行程度に変えないと陣は破られ、やはり駄目なようだ

という、結果になった。
 そこで次に、経過をより詳しく述べる。
まず、配列を入れ替えるだけで、駒を取り替えないと、西暦1300年、
鎌倉時代中後期の、普通唱導集大将棋の3段目、2段目は、次のようにな
ると見られる。

三段目:奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、飛龍、飛車
二段目:酔象、麒鳳、猛虎、横行、嗔猪、猛牛、反車(麒鳳は左が麒麟右
が鳳凰)

三段目の飛龍の位置に、相手の斜め走り駒が進入してくるのを、飛龍の地点
では、猛牛に加えて、斜め前に歩めるようになった、江戸時代の嗔猪で、阻
止しようとするわけである。結論を述べると、

相手の角2枚・馬2枚攻撃は、攻守の駒の枚数が、これでピタリであって、
阻止できる。

 ところが局面を更に進めて、相手が麒麟で、手薄になった防御側の右辺に
進入してくる所まで進めると、下の写真のようになってしまうのである。

方行嗔猪交換.gif

つまり、麒麟が獅子に成りこむ事を、阻止できないと言う事である。ただ
し、相手の駒の消耗に対して、防御側は余力があり、

これで、攻撃側が勝ちという所までは行かない。

せいぜい、攻撃側やや優勢という、局面になる。
 すなわち写真から明らかなように、相手の獅子の鼻先に写真では有る、

大阪電気通信大学の盲熊の動きであるところの嗔猪が、もし斜め前隣接升目
にも動ける飛車動きの方行だったとしたら、△2十麒麟成り(1九)という
手を、後手攻め側は、タダ取りになるため、指せなかった筈

なのである。つまり、

やはり小駒の嗔猪では、駒捌きが終わった後の防御側の陣を支えるのは無理
であり、嗔猪は、大駒のたとえば方行に、このような戦法を相手に取らせな
いようにするには、変更する必要がある

という事のようである。
 よって、陰陽道が強い状態で、普通唱導集大将棋に発生したゲーム上の問
題を、純粋ゲームの改善で、解決するのは、かなり困難な事であったろうと、
私には思われたのである。(2018/04/15)

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二中歴記載平安大将棋の飛龍の動き「四隅超越」の超越は走りでOKか(長さん)

本ブログでは、表題のように、平安大将棋に関する二中歴のルール記載のうち、
”飛龍四隅超越”について、”飛龍は斜め4方向それぞれに走る”と解釈する
立場を取る。これは、ものと人間の文化史”将棋Ⅰ”の著者、増川宏一氏の漢
文訳を、信用する形となっている。ただし、この訳については”誤訳であり、
飛龍は、斜め四方向それぞれで、1升目跳び越える”であるとの、意見も強い。
たとえば、将棋史研究家の故溝口和彦氏も、後者で解釈していたと、私は認識
する。これについては、今まで本ブログでは、具体的に、辞書を引くなどして、
増川宏一氏の漢文解読を、裏付ける等の作業をした事は無かった。超を”進む”、
越を”任意升目を越える次の升目”と解釈するという意見を、本ブログで以前
表明した。がそれは、漢和辞典の”見出し字”に続く柱書き部分の説明の、私
なりの解釈でしかなかったのである。つまり単なる我流である。そこで今回は、
辞書を当たって、超越が”走る”と言いえる根拠は、増川氏の読み下し以外に、
何かあるのかどうかを、調査してみたので、以下に報告したい。
 結論を述べると、少し前に本ブログで紹介した、諸橋徹次著書、大修館書店
発行「大漢和辞典」(1958)の巻十に、超の字の所に載っている、超越の
例示で、

”軽やかに疾走する”の意味となる事から、これを”制限されずに進む”と
意訳して”走る”と解釈できる、

という肯定的な結果となった。以下に、もう少し詳しく、経過を説明する。
 上記辞書によると、超越には、実質的に5つ程度の別々の使われ方がある。
(1)~より優る。~を立ちこえる。
(2)優れる。
(3)世俗を離れる。
(4)軽やかに疾走する。
(5)~を跳び越える。
の5つである。上記で暗示したように、(1)は他動詞、(2)と(3)は
自動詞、

(4)が自動詞で(5)は、少なくともこの辞書では、例文として、他動詞と
しての使われ方の例だけが載っている。

つまり、

(5)の増川宏一氏訳の批判者の言う、”跳び越える”だったとすると、
目的語が超越の後に、何か必ず書いてあるはず

である。しかし、飛龍四隅超越では、飛龍が主語、四隅は目的語とすると、将
棋ゲームルールとして、”四隅を”では意味不明であるから、”四隅それぞれ
について”であって、副詞と解釈せざるを得ない。そして、超越が自動詞のは
ずである。つまり、英語と同じようなSV形式の、中国語の文と見るべきでは
ないのか。
 なおこの辞書では、それぞれの超越の意味について、例文がある。(4)
については超越を用いて、”舟が海原を、軽やかに疾走する”と表現された
文があって、それを例として引いてある。そして超越が文末なのである。
それに対して、(5)の用法については、”江湖を超越し”という、語句が
中間に挟まっており、超越という他動詞の後に、”江湖”という目的語が書か
れていて、一二点等が打たれて、日本語流に、動詞が後で読めるようになって
いる。
 よって私は、鎌倉時代初期の、中国の書籍の書き方で、文書を書いていた、
二中歴の著者の三善為康の、

この部分の超越使用方法は、”軽やかに疾走する”の意味であろうと、解釈

したのである。
 なお、超越はかな書きにすると、古文では”てうをつ”になるそうである。
しかし、平安時代まで使用の古語辞典を当たってみたが、”てうをつ”は載っ
ていなかった。恐らく、鎌倉時代初期の頃には、中国の伝来書籍に詳しいと
みられる、二中歴の著者三善為康は、当時の日常語ではない超越を、中国の書
籍の漢文の使い方で、使っているに違いないと、私は推定する。つまり
飛龍四隅超越は、

漢文のその部分に、目的語が見当たらないので、「大漢和辞典」に従い
”飛龍は四隅に制限されずに進む”と私は解釈した

と言う事である。ただし、「大漢和辞典」には、中国古典文書の例文が、5つ
の用法について、合計で5例程度しか載って居無い。だから、”軽やかに進む”
であっても、別の中国古典書籍で、目的語が有る場合が、あるかもしれないし、
(5)の”跳び越える”でも、自動詞になっている例が、絶対に出ないとも限
らないのかもしれない。なお日本語古文を載せている、古代から近世まで全て
網羅された、別の古語辞典によると、”明王朝の時代の某人が、山河を超越
して、そこに行った”という意味合いの例文が載っている。が、その例文でも、
目的語の山河等が、超越に付いているように書かれている。この例は、明王朝
の話であるから、出典は、室町時代より後の文書であろう。何れにしても時代
が下ると、日本式漢文では、(5)の”超えてその向こうへ行く”の意味で、
超越は、”飛龍一升跳び越え”論者達の言うように、確かに日本では、使用さ
れるように、なっては来ているようである。
 以上のように、上記の根拠も、漢和辞典や中国語辞典を調査で判った限りの
”今の所”は、という但し書きはつけておく。なお中間的な時代の、室町時代
限定の古語辞典を当たると、

超越(てうをつ)は、(1)~(3)の使い方が多く、物体が運動する様子に
関連する(4)や(5)の意味には、余り使われた例がない

という事も判っている。室町時代には、超越は仏教哲学用語で言う、仏道への
精進や悟りを開いて、より高い位置に登りつめるとか、出世街道で、跳び上が
り出世をしたときに使う用法等に、限定されて、使われていたようなのである。
つまり、鎌倉時代初期に二中歴に書かれた、飛龍四隅超越の(4)の使い方は、
私の調査が正しいとすれば、既に

室町時代には、日常では余り使わない、昔の日本語になっていた

という事らしい。少なくとも、安土桃山時代の後期大将棋の飛龍のルールは、
制限されずに進むの走りの意味ではなくて、増川宏一氏の漢文読みに反対する
研究者同様、1升目跳び越えるに、より近いルールになった事は、事実である。
これは、ひょっとすると、超越の意味が、少なくとも鎌倉時代初期と、室町時
代前後とで、物体のうごきから、仏教哲学用語等に大きく変わってしまった
ために、

二中歴の文書を、室町時代にはもはや、室町時代の日本語として訳せなくなっ
てしまったため

のルール混乱が起こった結果なのかもしれないと、私には想像された。
(2018/04/14)

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普通唱導集時代の大将棋。どうして中将棋に取って代わられたのか(長さん)

本論題についてはこれまで、本ブログでは次のような見解を取ってきた。
すなわち、

(1)特別な規則付きの元駒として獅子の有る中将棋の、ゲームとして
の面白さに駆逐されて、大将棋は、本質的に普通唱導集時代の大将棋を以
て、駒数多数将棋の主力の座から退いた。

 なお普通唱導集大将棋自体にも、端攻め定跡と、その防止手段としての、
仲人と嗔猪と桂馬で作る、中間陣作りのあまりに顕著な定跡化という、内
在する欠点が、そもそも有る事をも、既に本ブログ内では、何回か指摘し
ている。それは、多分に因縁めいているのだが、普通唱導集の大将棋で唄
われた、唱導文の内容、そのものであると言うのが、本ブログの主要な見
解である。
 しかし本ブログで最近、普通唱導集時代の大将棋の2段目には、陰陽道
の鬼門と関連する、猪、牛、虎、龍駒が、それぞれ、嗔猪、猛牛、猛虎、
飛龍の、4枚セットで存在する事を、明らかにした。そのため今回の論題
についての回答は、結論的に述べると(1)に加えて、次の(2)の原因
があったとしか、考えようがなくなったと考える。すなわち、

(2)嗔猪、猛牛、猛虎、飛龍を、大将棋から1種でも減少させるような
変更が、出来づらくなった。つまり、それを実行しようとすると、既成の
棋士勢力等から、反対されるようになった。その結果、ゲームとして、
難が有っても、それ以上に初期配列や、構成駒種を替えにくくなった

という要因が、これに付け加わった。
 そこで本ブログに於いては以降、冒頭で述べた(1)の要因だけでなく、
(2)の要因をも、大将棋が、南北朝時代から室町時代にかけて、中将棋
に駆逐されてしまった、根本原因と考える事にしたいと考えている。
 次に(2)が考えられるという、根拠について述べる。
 実際本ブログでは、

嗔猪を取り除いて、方行を加えれば、現在の西洋チェス型の、”複雑な
大駒同士の絡み合いで、ゲームが面白くなり、中将棋に負けることはない”

はずだという例を示している。嗔猪、猛牛、猛虎、飛龍の、陰陽道の鬼門
に関連した四つ組駒が存在するという事実に、少なくとも、私は気がつい
ていなかったために、このように考えたのである。そのためこれまで、

大将棋の内部だけで、欠陥を改善する方法が、あるように見えるにも係わ
らず、中将棋に勝てなかったのが謎

と写っていたのだ。しかし、陰陽道に傾倒している南北朝時代の棋士達か
ら、嗔猪を取り除いて、猛牛、猛虎、飛龍の3種類だけを残すやり方につ
いて強く反対されれば、本ブログの改善方法が、取れないと考えられる。
 以上の事から、 
 普通唱導集の大将棋時代には、陰陽道が強かった。そのため、方行を加
えて、嗔猪を削り、3行駒-4鬼門守備駒制から、4行駒-3鬼門守備駒
制に変える事も、また実は、後期大将棋のように、将駒に石将を加えて、
5将を6将にする事も、実際には南北朝時代には難しかった。そのため、
普通唱導集時代の大将棋については、ゲームを面白くするという目的だけ
では、実際には改良困難だったと、結論できるのではないかと、考えられ
るようになったのである。(2018/04/13)

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ビザンチン・チェスをチェックしてみた(長さん)

昨日、アラブのイスラムシャトランジの改良版として紹介した、
ビザンチン・チェスを2局だけだが指し、玉駒の詰み易さをチェック
してみた。下の写真は、こちら側が、向こう側の飛車2枚、大臣、兵
等で攻められ、玉が孤立化し、向こう側(仮に後手)が勝った局面の
例である。ちなみに、この局面は、後手が△5六飛車と王手を掛けて
詰んだ所である。

ビザンチンチェス.gif

なお写真で、6八の位置の”と金”は、実際には大臣(猫叉動き)に
成った、兵である。従って、先手8六の位置の玉将で、7七の位置の
飛車を、後手の成り歩兵の大臣が利いているため、取る事は出来ない。
また、7四の位置の”歩兵”は、実際には、チェスのポーンの動きの
ルールなので、7五の位置に先手玉を進めることができない。よって、
この局面で、先手玉は、このビザンチンチェスでは、詰んでいると見
られる。
 写真のように今回は製作が煩雑なため、時計状のビザンチンチェス
の盤は作成せず、普通の将棋盤で、円環部分は、繋がっているとみな
して、日本将棋の駒で指してみた。なお、チェス系は、敵味方を色で
区別するが、写真では、日本将棋の駒で代用し、駒の向きで敵味方を
区別する事にしている。写真の代用盤で、最上段となる、一段目と
二段目が、後手側の駒を並べる段であり、最下段となる、七段目と
八段目が、先手側の駒を並べる段になる。
 そして普通に、イスラムシャトランジの駒を配列すると、この場合
は、ビザンチンチェス流に円環盤に、駒並べたことになるとした。
なお、玉駒は、ここではチャトランガ流に、左に固定している。
 すなわち、写真の実際の日本将棋で代用した盤(8×8の升目が有
る)で、それぞれ1一が8一、2一が7一、3一が6一、4一が5一
の升目と、円環状になるように繋がるのであり、同じくそれぞれ、
1八が8八、2八が7八、3八が6八、4八が5八の升目と、円環状
になるように、繋がるのである。なお、今回はビザンチンチェスの兵
駒は、インド・古代チャトランガ同様、相手の初期配列駒の位置に
到達すると、その相手の初期配列位置の駒に成るとした。
 すなわち写真で、先手の兵駒は、8一の地点で飛車に、7一の地点
で八方桂馬に、6一の地点で象(跳ぶ、飛龍)に、5一の地点では、
大臣(猫叉)に、写真の4一の地点では、王には成れないので不成り
で、5一に進んだ後、以後歩兵と、反対の向きに進むようになり、
3一の地点では象に、2一の地点では八方桂馬に、1一の地点では
飛車に成るとした。
 それに対して後手の兵駒は、1八の地点で飛車に、2八の地点
で八方桂馬に、3八の地点で象(跳ぶ、飛龍)に、4八の地点では、
大臣(猫叉)に、写真の5八の地点では、王には成れないので不成り
で、4八に進んだ後、以後歩兵と、反対の向きに進むようになり、
6八の地点では象に、7八の地点では八方桂馬に、8八の地点では
飛車に成るとした。
 むろん、外国のゲームのため、持駒ルールは無い。
 そこで円環で接続する部分の、行き所を確かめるのが、多少やや
こしいが、実際に指してみると、写真の詰み上がりの例でも、判る
とおり、

飛車が二枚残っている側は、小駒を上下から攻めて、相手の王(玉将
で代用)を、孤立化させやすく、また玉の動ける横の升目数も8から
4升目と半分になるので、イスラムシャトランジより、ビザンチン
チェスの方が、玉が窮屈になって、勝負がつきやすい事は確か

なようである。ただし、

大差が有るとまでは言えない

ように思えた。以上のように、ビザンチンチェスは、イスラムシャト
ランジと、ルールがいっしょだとすれば、飛車が追いかけると、相手
玉が詰むケースが、多少は多い、イスラムシャトランジを、改良した
ゲームに一応はなって居る事だけは、確かなようである。(2018/04/12)

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