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木村義徳氏説”普通唱導集記載大将棋1150年頃出”を否定する(長さん)

 日本将棋連盟より西暦2001年に出版された、将棋棋士で、
関西将棋会館の元の将棋博物館の館長をされた、木村義徳氏の著書
「持駒使用の謎」には、普通唱導集に書かれた大将棋の設立年代を、
西暦1150年頃の、平安時代末とする説が書かれている。大将棋
の史家が少ないため、従来この説は、議論になる事は、ほぼ無かっ
たと認識している。しかし、本ブログは、その珍しい、大将棋史の
専門ブログであり、別の説を、過去幾度と無く記載しているので、
ここらで、なぜ木村説に比べて、本ブログの説の方が、正しいと見
られるのか、その根拠を、はっきりと示す必要があるのではないか
と、考えられるようになった。ちなみに、本ブログでは、西暦
1300年頃成立とされている、

普通唱導集に記載された大将棋の成立時期は、西暦1275年頃と
見ている。

木村説とは、だいたい125年位差があるわけである。では、何を
根拠に本ブログでは、木村義徳氏説を取らないのかを、最初に結論
から述べる。本ブログどは、

西暦1200年頃には、大将棋は依然、平安大将棋が主流だった

と、考えるからである。つまり、西暦1200年頃に、実際に存在
した大将棋が、平安大将棋だったため、本ブログで推定した、同じ
13升目でも、

108枚制ではなくて、68枚制のものが、二中歴西暦1200年
編集版として、固定されたとみた方が自然

と、本ブログでは考えているということである。
 つまり、このようなケースは、西暦1200年の時点で、木村義
徳氏が想定され、表明されている、彼の言うところの、その300
年前のゲームを、二中歴1200年編集版に載せて、おしまいにす
るというのは、彼の言うように、その時代に指された将棋が、
普通唱導集の大将棋だとすると、このケースについては特に、相当
に不自然だと、本ブログでは見ていると、言う事である。
 大事なのはその理由であるが、それは、

普通唱導集大将棋は、我々の見解によると、15升目130枚制
後期大将棋ではなく、質として、13升目68枚制平安大将棋の
モディファイ(拡張)版にすぎないから

である。つまり、15升目130枚制後期大将棋を、本来1200
年時点で、13升目68制平安大将棋の代わりに、記載しなければ
ならなかったとすれば、木村義徳氏の含意での、”とっくに廃れた
平安大将棋”を、後期大将棋の代わりに、彼の論である”情報の保
存のために書く”という事も、あるいは、有るのかもしれないと、
私も思うのだが。実際には、1200年時点で、”早くも”流行っ
ていたのが、13升目108枚制の普通唱導集大将棋だったとすれ
ば、それを、たとえば懐中歴旧版の、68枚制大将棋の代わりに
記載するのは、二中歴の編者にとって、さほどの手間や懸念材料も
無かったはずだからである。なぜなら、

普通唱導集時代の大将棋は本ブログの見解によれば、二中歴大将棋
(歩兵4段型)で、空き升目になっている部分に、実際には西暦
1200年頃から、1275年ころまでの75年間に加えたと、こ
こでは見る、40枚の駒の記載を、足せばよいに、ほぼ等しい将棋

だからである。
 たとえば、二中歴には1段目の配列と、ルールを説明した後、横
行の説明のすぐ後で、”猛虎が銀将の先っぽにあって、斜めに歩む”
との旨の説明を始める訳だが。もし、1200年に指されているの
が、普通唱導集大将棋であって、木村氏の言う、西暦1100年の
懐中歴初版の頃の、平安大将棋で無いと言うのなら、
”酔象が玉将の先っぽにあって、斜め2升目先で止まり、太子に成
り、玉将が無くても太子があれば足り、玉将と同じく8方に動き。
ついで、左の金将の先っぽに、麒麟が有って、猛虎の動きを2回繰
り返し、獅子に成り、獅子は玉将の動きを2回繰り返す。ついで、
右の金将の先っぽに、鳳凰が有って、八方行だが斜めには、2升目
先で止まり、奔王に成り。ついで、猛虎が銀将の先っぽにあって、
斜めに歩む”というように、新たに加わる、酔象と麒麟、鳳凰を、
横行を除いた上で、猛虎の前に加えるだけだ。
 これが後期大将棋になってしまうと、猛虎自体が、銀将の先っぽ
から、金将の先っぽに変化するし、そもそも升目の数が、13では
なくて、15升目であるから、、基本的な形が変化してしまう。の
で、たとえば懐中歴の1100年頃の版の平安大将棋の内容を、
二中歴1200年編集版にはそのまま載せ、実用には不便なのを、
防忘用携帯書籍のユーザーには、我慢してもらうしか、無かったと
言う事が、あるいはあったのかもしれないが。
 しかし、このケースに限っては、

二中歴大将棋と、普通唱導集大将棋は、初期配列の骨格がほぼ同じ

なため、改定しても、部分改定、すなわちマイナーチェンジの範囲
である。だから、木村氏が危惧を表明する、”西暦900年頃より、
西暦1100年頃まで続いた歴史的な形式”は、このケースは、替
えても保存される訳である。そのため、木村氏の危惧・指摘してい
るとみられる”古い時代の文物の、情報保存のための、書籍として
の機能が失われる”という、旧形式を保存する言い分が、このケー
スに限っては、個別に相当に通りにくいのである。
 よって、以上のように、持駒使用の謎の、普通唱導集時代の大将
棋成立年1150年の仮説とみられる記載は、二中歴1200年版
で予想される内容とは合わず、

早すぎる推定であり、本ブログでは容認できないという結果

になっている。
 なお、他には、西暦1200年から1300年の間、一時的に存
在したと、本ブログでは見なした、徳島県の川西遺跡出土の”奔横”
駒の説明が、増川宏一氏の説が正しく、理由が不明という点で、将
棋史には前例の無い、たんなる飾りと言う意味での

異字体としか、考えられなくなる

という、難点が発生する。
 木村氏の普通唱導集記載の大将棋、西暦1150土50年説につ
いては、だいたい以上の

二点以外には、厳密に根拠を示すという点では、目下の所、難点の
数をこれ以上、増やすことは困難

ではあろう。猛牛が西暦1253年より前にあったとは考えにくい
とか、竜駒、太子成り酔象駒、麒麟、鳳凰等が、蒙古来襲と関連す
るのではないかと示唆する等、木村説否定の材料は、更に有るには
あるのだが。
 ところで木村義徳氏の成書、持駒使用の謎については、小将棋の
伝来や、成立年に関する批判・議論が、将棋史界では増川宏一氏と
の間で、過去盛んに行われた。ただ、ここは大将棋のブログである
ので、木村義徳氏の、”ゲームの習熟時間”の分を、百年オーダー
で起点を推定する際に加える、ユニークな、各タイプの将棋の年代
史観については今後とも、”棋士”に棋力が有ったかどうかが謎だ
が、存在自体は目立つとみられる、大将棋関連の成立年代について
のみ限定して、本ブログでは批判を、必要に応じて発信させてゆく
つもりでいる。最後に蛇足だが、当の論敵の増川宏一氏は”二中歴
の大将棋の内容は、原版そのままの写しかもしれない”と、自書で
示唆しており、このケースに限っては、皮肉にも、上記、木村義徳氏の
平安大将棋の年代(~1150年頃)説には、比較的好意的である。
(2018/05/09)

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