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後期大将棋に、悪狼、猛豹と共に、猫叉がある理由の調査(長さん)

後期大将棋には、妖怪駒として、悪狼と猫叉が入っている。妖怪駒の
日本将棋に於ける数は、さほど多くなく、摩訶大大将棋では、更に、
山母が入る程度である。その他には大大将棋の奔鬼や、天竺大将棋の
火鬼、泰将棋等にある、天狗も、妖怪の仲間かもしれない。しかし、
妖怪としては、少なくとも南北朝時代までには、狼や山犬、猫叉の他
に、狐、狸、鵺、天狗等、いろいろなものが、既に知られていたはず
である。しかし、比較的古い時代の将棋である、後期大将棋では、妖
怪の名前の駒は、悪党の洒落である悪狼と、恐らく同時に、猫叉だけ
が、将棋の駒名に選ばれた。現在の我々の感覚だと、送り狼や山犬と、
猫叉とが、類似の妖怪であるとは、考えにくい。だから加える妖怪
は、一見ランダムに選択されたように、私には今まで、見えて来たの
であった。しかし実体はどうなのか。一回きちんと、調査してみる事
にした。すると、結果を書くと意外にも、

安土桃山時代までは、山犬や送り狼と猫叉は、今より妖怪としては、
互いに似た物同士

だったようである。文献は笠間書院発行の、伊藤伸吾編、毛利恵太氏
執筆の「妖怪憑依擬人化の文化史」(2016年)、による。
 この著書の、該当部分「ネコマタとその尻尾の描写の変遷」によれ
ば、確かに”猫叉は、猫の高齢化した妖怪”との記載が、後期大将棋
の成立期の、少し前程度の年代とここでは見る、鎌倉時代末期の、
吉田兼好の徒然草の、第89段の冒頭に出てくる。しかしながら、

猫叉の言葉の意味は、本来”猫々”に近い意味であり、尻尾が二又に
なっている所から、ついた名称では無い

との事である。

その姿は、本来は不明で、犬の大きさ大の、化け物という事が判って
いる程度。暗闇の中で、人を襲って殺す事があるという点で、妖怪の
送り狼や、山犬に近い性質を持つ、

となっている。今我々がイメージする、尻尾が二股に分かれて、起立
して踊る、老いた猫としての猫叉は、江戸時代の絵画に基づくものに
すぎず、

鎌倉時代から、安土桃山時代までは、人を襲う狼の類にイメージが、
今よりずっと、近かった

ようである。なお、毛利恵太氏によれば、江戸時代からの猫叉のイメー
ジは、栃木県那須地方の妖怪、九尾の狐の古型とみて、まず間違い無
さそうだと、言う事である。絵師が、すこしショボイ、戦国時代頃の、
九尾の狐の姿を、猫叉に借用し、猫叉のイメージを作ったらしい。他
方、本家の九尾の狐の方は、もともと尾が、二股に分かれた姿だった
が、江戸時代になって、尾が9本に増えて、見た目の怖さがエスカレー
トして、より派手な姿で、描かれるようになったと言う事である。
 ところで江戸時代の将棋本では、しばしば猫叉が、結果として、
安土桃山時代の意味に近くなるとみられる、殺し屋の猫を意味する造
語である”猫刃”に、変えられている場合がある。現代版猫叉の成立
が、江戸中期以降の、西暦1700年頃からと言う事から、比較的早
い時代の将棋本では、原著者ではなくて書写する際に、水無瀬兼成、
将棋纂図部類抄から変更したとも、私には取れる。最近では猫刃への
変更は、少なくともweb上で、ありがた迷惑がられる事が多い。し
かし、”ねこまた”よりも、”みょうじん”の方が、明神と音が同じ
になり、神様っぽくなるのと、安土桃山時代以前の猫叉のイメージに
より近くなるため、書き換えた本人は、もともと親切心のつもりで、
そのような改変を、無造作にしたのかもしれない。
 以上の事から、中将棋が96枚制から、92枚制になって、完成
する前後に、中将棋と後期大将棋に導入されたと、ここでは見る、

猛将、悪党の洒落の、猛豹、悪狼の、後者に対する類似概念の形で、
猫叉が、数ある妖怪の中で人を襲い、合戦のときの軍隊同様、人間を
死なせるという点で狼と類似のために、選択的に後期大将棋に導入
された

とみて、かなり正しいように、私には思われてきた。すなわち、”悪党”
の活躍した時期から見ても、

猛豹、悪狼、猫叉の発明は、ほぼ同時期の、鎌倉時代最末期頃から南
北朝時代にかけてであり、それは、猛牛、嗔猪の発明の、蒙古来襲
真っ只中の頃よりは、幾分遅いと見るのが、より合理的

と、今回の調査で、私にははっきり、見えてきたような気がしたので
ある。(2018/05/10)

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