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大理国原始平安小将棋が、ヴェトナムに根を下ろす条件は無いのか(長さん)

本ブログの主張によれば、原始平安小将棋は、西暦1014年現地発の、
大理国産の伝来ゲームであり、大理国原始平安小将棋は、不成り酔象が、
右銀の位置にある点を除いて、ほとんど8升目32枚制平安小将棋(原
始型)であったと、考えられる。
 そしてそれは、中国北宋交易商人の周文裔が、西暦1015年に、後
に藤原道長の所有物となる、東南アジア産の孔雀と共に、東シナ海の海
路を通って船舶で運んだ、黄金の将棋具であるとする。ゲームは、従っ
て、大理国から途中、当時ヴェトナム北部に有ったとされる、李氏大越
国を経由しており、その伝来経路は、大理市から、東南東に川を下って、
今のハノイへ出る陸路が、最有力だったとみられる。
 従って、松岡信行氏が指摘するように、今のヴェトナムに、原始的な
日本の小将棋の痕跡が、残って居無い理由を、述べる必要がある。本ブ
ログでは、国境警備兵や武族が、ヴェトナム国内の、経路上に存在しな
いために、兵法としての将棋に、現地のヴェトナム人が、興味を示さな
かったためだろうと、説明した。しかし本当に、西暦1014年時点で、
ヴェトナム北部の、将棋伝来経路上に、兵法と関連性が濃い集団が、そ
の当時、存在しなかったのかどうかを、ヴェトナムの歴史書にて、詳し
く確認した事が、実は私には無かった。
 そこで今回、ヴェトナムの歴史書で、経路上のヴェトナムの1015
年の状況を、少し詳しく調べて見たので結果を報告する。
 結論を書くと、

ヴェトナム北部の、将棋伝来の経路上は当時、言うならば、軍事的緊張
と言う意味で、氷河期の中間の、間氷期の状態であった。そのために、
その時点で、軍事的緊張状態にはなっておらず、”不幸な緊張”を利用
して、豪族化して巨万の富を蓄えつつある、武家集団ができつつある状
態ではない

とみられた。以下に、もう少し詳しく、内容を述べる。
 まず、伝来の経路は、大理国の国境を越えると、当時も大越国の首都
であった、現在のハノイへ、ほぼ真っ直ぐに向かう陸路である。そして、
更に下って、周文裔らが孔雀とともに船積みする、ヴェトナム北部の港
に出たルートとみられる。ここからは、海南島や台湾、沖縄等を通った
としても、基本的に、日本の目的地の博多まで、ほぼ途中停泊無しの、
海路だっただろうと、私は見る。
 従って、大理国原始平安小将棋の情報が、漏れるとすれば、大理国と
大越の国境地帯か、ハノイの近郊だけだ。しかし、大越-大理の国境に、
警備兵はほとんど居なかったと、想像される。そもそも、両国で戦闘が
あった痕跡すらないし、また大理国は諸侯が割拠して、実質群雄割拠状
態だったので、戦えばまとまりの良い大越国の方が、断然有利はずであ
る。つまり、

中央集権化し、当時の国王・李公蘊(リー・コン・ウアン)の力が、
かなり強かった大越国は、適当に見張りをつけておけば、大理国との
境の国境警備は、充分な程度だったと考えられる

と、言う事である。従って、九州の大宰府のような武者が、大越国の
奥地に居たとは、私には考えられなかった。
 次に首都であるが、初代国王の王権が、西暦1014年ころには、
李朝大越の勃興・発展期でかなり強く、比較的中央に権力が集中して、
軍閥や貴族が、王宮に入り込んで、利権をむさぼる”退廃の時代”では、
一応無かったと、みられる。
 そのため、首都に常駐する軍隊の、豪族化や貴族化も、この時代の
大越国には、無く、兵は徴兵制度で集められた兵とされ、金将に該当す
るような武家貴族の家は、ヴェトナムでは、この時点では出現し得無か
ったようである。なお、当時の李朝大越国の首都のハノイは、その少し
前に首都であった、西暦970年頃の華閭のように、”金銀で迎賓館を
飾る”という記録は無く、周りの景観を王族は楽しんでいたとの事であ
る。北宋との関係が不安定だった、やや大理国に似た、10世紀末の、
先代の国王の都を継承せず、別の場所に遷都したため、李公蘊時代の
大越は、大理国とは雰囲気が、かなり違っていたと見られる。
 更にはヴェトナム・大越国の、軍族にとって活躍どころである、外国
との戦争の相手国となったのは、周文裔の出身地である、北宋と、大越
の南にあった、チャンパ王国だったとされる。しかしながら歴史書、
株式会社明石書店、西暦2008年発行で、ファン・ゴク・リエン監修
の、「ベトナムの歴史(中学校教科書)」によると、

北宋との戦争は、西暦981年の次が、西暦1075年~77年

であり、西暦1014年当時は、西暦981年後の停戦が成立して、
北宋との国交が、一時的にせよ正常化した時代だったとある。従って、

ヴェトナム中部には、対チャンパ王国対策の、軍閥の駐屯があっても、
より北部の、ハノイ付近を、周文裔は通過すると見られるので、武芸で
身を立てる可能性の高い、武装集団等と、大理国産の将棋とが接触する
可能性は、ヴェトナムではかなり少ない

とみられた。そもそも北宋との関係が、当時一時的にせよ、良かったか
らこそ、北宋商人の周文裔は、大越国経由のルートで、大理国のゲーム
を、日本へ運んで来られたと考えるのが、自然だと私は思う。
 以上の結果から、たとえ周文裔が、黄金の将棋具をヴェトナム北部で
披露したとしても、暇だからするゲームであるのならば、

ゲームとして面白くなければ、当時のヴェトナム人の興味を、引き出せ
なかったに違いない

と、私は結論した。つまり実際には、周文裔の口車に乗って、石や板等
で、対応する将棋駒をヴェトナム人が作って、やってみると、それは
玉将の周りに、他の成ってできた金がやがて群がって、さっぱり、玉が
捕獲できない、奇妙なシャトランジ様のゲームでしか、なかったと、彼
らには認識されたと見られる。そこで、板に”金将”とかかれた駒を、
イジッて幾ら遊んでみたところで、実際に金塊が手に入るわけでもない
と、当然考えた西暦1014~15年当時のヴェトナム人は、その結果、
大理国の原始平安小将棋には、興味を持続して示す事は、もはや無かっ
たという事だろう。
 以上、前にも述べたが、中間地点のヴェトナム北部に、日本の将棋と
同じだが、ひょっとすると、立体駒で遊ぶようなゲームは、定着しない
のは、当時の、つかの間だが、平和なヴェトナム状況から見て、必然だっ
たと、私は確信するようになった。そして、恐らくその100年位後に、
南宋国から、完成したシャンチーが伝来すると、

シャンチーの方は、ゲームとしての出来が良かったので、ヴェトナムで
も広がった

のであろう。以上のような事が、実際には有ったのではないかと、やは
り私には、結論されたのである。(2018/05/12)

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