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応仁の乱終了時(西暦1477年)に角鷹駒等は本当に有ったのか(長さん)

本ブログでは、中将棋の成り駒として特徴的な、飛牛、奔猪、白駒、鯨鯢、
飛鹿、飛鷲、角鷹は、西暦1380年~1410年程度に出来たのであろ
うと、これまで表明して来た。白駒、鯨鯢は、室町時代専用の古語辞典に
載っているし、飛牛、奔猪は、本ブログの見解によれば、西暦1300年
頃の普通唱導集時代の大将棋に存在した、猛牛と嗔猪の、牛と猪にぴたり
と対応している。なお飛鹿は、思いつきとここでは見ているが、取り立て
て上記成立年を、否定する、強い根拠は今の所見当たらない。
 しかしながら、前から、飛鷲と角鷹の対については、私は対で出てくる
事自体に、違和感を覚えてきた。鷲鷹という表現は、今の生物学分類と、
同じだが、戦国時代以降の

鷹狩り大名が、典型的に使い出した、言い回しなのではないか

という懸念からである。つまり鷲だけとか、鷹だけとかが、将棋の駒とし
て採用されたなら別であるが、対で入ってきたように、いかにも見える点
が、西暦1410年頃の発明とすれば、何か不自然感があったと言うこと
である。
 そこで、とりあえずはまず、

鷹狩りという遊びが、室町時代前期に盛んだったかどうかを、歴史辞典で
当たってみた。

結果を述べると、文献によって、記載にばらつきが多いのだが、

室町時代は、鷹狩りが極めて盛んだったと、はっきり書いてある物が無く、
また、鷹匠の動向について、鎌倉時代から室町時代の文献は減少している

との調査結果となった。なお調査をした中で、最も詳細だと思われたのは、

株式会社平凡社の下中弘編集の、日本史大辞典(全7巻)(1993年)

の中の、鷹狩りの項目であった。これは、現時点でのwikipedia
の項目”鷹狩”よりも、”史料を、読者に当たるよう”にと、指示してい
無いと言う点で、結論がよりわかりやすい。
 つまりこの著書には、”仏教の殺生の禁止の戒律の影響で、平安末期か
ら、朝廷での鷹狩りが、形式化した。その後低迷期が続いた後に、戦国時
代に入ると、戦国武将の間で、急激にまた鷹狩りが盛んになった”との旨
が記載されている。
 鷹匠の動向の記録も、鎌倉時代に入ると、公的には重視されなくなって、
極少なくなり、動向を調査する事自体が、安土桃山時代に入るまでは、
推定になるようだ。なお、web上に、鎌倉時代に、源頼朝、源実朝、
それに第5代将軍の藤原頼嗣が、”仏教の戒律に基づいて、鷹狩りを禁止
した”との旨の、記載が載っている。
 そのためかと見られるが、”鎌倉時代には、幕府が鷹狩りをする事は、
実は無かった”と、記載している国語辞典も、一部にあるようだ。

以上の事から、応仁の乱が終わった、西暦1477年までは、少なくとも、
飛鷲と角鷹を、対にして、特定の将棋種に導入したという考えを、無条件
には、受け入れては、いけないのではないか

と、私は以前よりも強く、疑うようになってきた。ただし、戦国時代には、
各戦国大名が、鷹狩りを盛んにしたらしいとは、私にも納得できるように
なった。ちなみに、天竺大将棋と泰将棋にも飛鷲、角鷹があるが、これら
は、安土桃山時代以降の作なので、有っても問題にならない。問題なのは、

当然だが、南北朝時代に成立したとされる、中将棋だけ

だ。江戸時代の時点で、ひょっとしたら今でも、飛鷲と角鷹は、それぞれ
斜め前と、前の踊り型の動きをする方向について、隣接升目で止まれるか
どうかが不明なほど、ルールが不安定である。よってこの事からみても、
他の中将棋の成りで入った駒、飛牛、奔猪、白駒、鯨鯢、飛鹿よりも、
導入が遅くても、不自然感は無かったのではないかとも、私には思えてき
たのである。
 ただし、以上の結果に基づいて、飛鷲、角鷹の発明を、例えば、西暦
1470年~1500年にしてしまうと、

静岡県焼津の小川法永長者の築城した城、小川城で、裏飛鷲竜王(竜は
新字体)駒が出土しているのを、説明するのが苦しくなる。なぜなら
この城は西暦1476年頃に、今川義元の父親を、かくまったと言う事で
知られている

からである。もっとも、今川氏親をかくまった年に、小川城で中将棋を
指していたとは限らないし、飛鷲の発明が、たとえば正確には西暦14
75年で、指していたのが、西暦1476年なら、矛盾は無くなってし
まう。
 ちなみに、平凡社、下中直人編、歴史地名体系22、”静岡県”(20
00)によると、この遺跡では、”木製品の出土と共に、西暦1531年
の銘の入った、木簡が出土している”という、情報がある。つまり、
裏飛鷲竜王駒は、16世紀初頭の出土駒かも、しれないようだ。
 ともあれ、今回は次の調査として、

小川城出土、裏飛鷲竜王(竜は新字体)駒は、本当に、飛鷲と書いてある
のか

どうかを、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で、調査しなおしてみた。結果
を、ただちに述べると、

裏とされる部分は、公平に見て”飛□”である

との結果であった。つまり、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒には、裏は
飛龍(旧字体)かもしれないと書いてあるのに、象徴されるように、

2番目の字は、読めないというのが、公平な見方

だと、私は考える。つまり、裏と思っていたのが、飛車であって表であり、
表と思っていたのが、実は裏で、楷書に近い竜王(竜は新字体)かもしれ
ないと言う事である。ただし、私見だが、この駒は、恐らく中将棋の駒に
は、間違いないと思う。共出土の裏飛鹿盲虎駒と、形が似ているからであ
る。つまり大事な点は、

中将棋の駒にも飛車があるという、当たり前の認識を早く持つべきだった

と言う事だろう。ようするに、

小川城遺跡からは、実は裏飛鷲龍王駒はまだ出土しておらず、出たとした
ら、不成り龍王駒が出るのかもしれない

と言う事である。なお、小川城遺跡の出土駒の中に、両面楷書駒があるの
は、長野県上田市の塩田城から出土した、裏竜馬(竜は新字体)角行駒と、
仔細不明だが、同系列の駒だからなのかもしれないと、私は思う。
 以上の結果から、問題になった小川城遺跡の駒は、この先、

第一面飛□・第二面竜王駒と、私は呼びなおす

事にした。以上の結果から、今後本ブログでは、

中将棋の成り駒は、大方が西暦1400年頃までには作られ、ひょっとす
ると、飛鷲と角鷹だけが少し遅れたが、遅くとも西暦1500年頃までに
は、これらの成り駒も、作られたのだろう

と、表現する事にしようと考える。
 水無瀬兼成の将棋纂図部類抄には、今と完全に同じ、中将棋の成りが
書いてある。が、基になった曼殊院の将棋図の、本当の1443年版では、
恐らく、龍王と龍馬も、奔王や獅子のように、中将棋では、不成りだった
のではないかと、今では私は疑っている。
 なお以下私見だが、それによって、中将棋のゲーム性能が、大きく変わる
事も、実際には無いような気がする。(2018/05/14)

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