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西暦1015年、将棋具の伝来後、後一条天皇は何処に居たか(長さん)

本ブログでは、西暦1015年に大理国より、中国・北宋時代の交易
商人、周文裔によって、日本に伝来した、原始平安小将棋の、盤駒等
を黄金で飾った将棋具は、後一条天皇が、西暦1019年の刀伊の入寇
まで、自身の居所に置いたとしている。しかし、本ブログでは、その
後一条天皇の居所の推移を、きちんとは示していなかった。
 そこで、今回、思文閣出版(2017年)、大津透、池田尚隆共著書、
”藤原道長事典”という成書の、”内離”という項目を調査し、
後一条天皇の西暦1015年から1019年までの、居所の推移を、詳
しく調査して、黄金で飾った将棋具の無事を確かめてみた。重要なのは、
火災時に、将棋具が、消失する場所に居無いかどうかである。そこで、
調査結果を最初に書くと、

西暦1015年11月17日に、三条天皇が焦って再建した、大内離が
再火災のときには、藤原道長の家である、土御門第に、後一条天皇は
実は住んでいて、”玩具”も無事。
西暦1016年7月21日に今度は前記藤原道長の家である、土御門第
が、火災の時には、
その一ヶ月前の西暦1016年6月2日に辛くも、新造した一条院(亭)
へ、後一条天皇は引っ越していて、将棋道具もどうやら無事

と、判明した。つまり、本ブログで最初の頃に述べたとおり、

推定・黄金で飾られた将棋具は、当初、孔雀と同じく、藤原道長の家に
有って、同じく居所が一緒の、後一条天皇(敦成・あつひら親王)の
部屋に、玩具として置いてあった

という事のようである。
 なお、後一条天皇が、西暦1016年1月29日に、第68代天皇に
なった時点で、天皇の家は、藤原道長といっしょの家であり、いわゆる
”里内裏”の状態だったという事になる。
 以下、もう少し、わかりやすく書く。
 西暦1015年のたぶん年明けに、大鏡が示唆する、黄金で飾られた
将棋道具の玩具が、わが国に、(推定)北宋交易商人の周文裔によって、
大理国から伝来した時に、大内離は再建中で、当時天皇の三条天皇の住
まい内離は枇杷殿であり、そこには、三条天皇は住んでいた。
 ところが、次の天皇の皇太子は別の場所におり、将棋具は、その皇太
子である後一条天皇(当時、敦成・あつひら親王)とともに、少なくと
も、西暦1015年2月12日の、藤原道長の所へ”孔雀等が、大宰府
より来た頃”からは、土御門第に有ったと見られる。なお、天皇家が、
ばらばらなのは、その前年の西暦1014年2月9日に、金銀の熔融を
伴う、大内離の火災があったため、三条天皇が、枇杷殿へ移動し、
後一条天皇は、土御門第に居たという、事情等と見られる。又そもそも、
北宋交易商人の(推定)周文裔へ、藤原道長が金銀製物品を、再建予定の
大内離への飾り物用での物品の購入のために、急遽仕入れを依頼したの
も、この西暦1014年2月9日の、予期せぬ大内離火災が、原因だっ
たと見られる。なお、本ブログでは、周文裔は西暦1012年、西暦
1015年年初と、緊急事態により、恐らく続いて2回来朝したと、
仮定している。後者はもしかすると、当時大宰府の大監であった
藤原蔵規の”私貿易”の形を、形式上とったイベントなのかもしれない。
なお、藤原蔵規はこの直後、大宰府大監から同少弐に昇格している。
 次のイベントは、西暦1015年9月20日の、大急ぎの大内裏の完
成であった。その結果、内離は大内離で、西暦1015年9月20日か
ら、西暦1015年11月17日まで、三条天皇がそこに住み、
少なくとも、11月17日の再火災の日に限ってみると、将棋具は依然、
後一条天皇(当時、敦成・あつひら親王)とともに、土御門第に、有っ
たと見られる。そして、西暦1015年11月17日に、大内離は、放
火による火災で再度消失した。が将棋具は藤原道長の家に、後一条天皇
とともに、置いてあったので、このときは無事だったという、事情のよ
うである。
 ついで、西暦1015年11月19日から、西暦1016年1月25
日まで、内離は里内離状態で、枇杷殿に有ったとされる。そのときには
再度三条天皇は、枇杷殿にいたと見られるが、依然将棋具は、藤原道長
の家である、土御門第に、後一条天皇と共に有ったと見られる。そもそ
も三条天皇と、後一条天皇は、私の認識では、親子では無いようだ。
 そして、火災のショックから、西暦1016年1月25日に、三条天
皇は退位し、後一条天皇が、藤原道長の住まいである、土御門第を、
天皇の住まい(里内離)としたまま、第68代天皇となり、藤原道長の
全盛期となったようである。今述べた事から、西暦1016年1月25
日から、西暦1016年6月2日まで、内離は、藤原道長の家である、
土御門第であって里内離状態であり、そこには新天皇、第68代天皇の、
後一条天皇が住んでいた。つまり、

将棋具も、さいしょから、この時点まではずっと、土御門第に有ったの
である。

 ところが、再火災にあった、大内離が再び再建されるまえの、西暦
1016年6月2日に、結果としては、これがたいへん幸運だったが、

将棋具は、後一条天皇とともに、藤原道長の家である、土御門第から、
一条天皇ゆかりの、一条院(亭)へ、移動した。後一条天皇は、親元
(祖父元?)を離れ、将棋具も、そのお供をした

という事であろう。
 そこで、西暦1016年6月2日より、7月21日まで、内離は、
一条院(亭)にあり里内離状態は依然続き、後一条天皇が住んでいた。
将棋具も、幸いな事に、ずっとこんどは、一条院にあったとみられる。
 そして、西暦1016年7月21日、今度は、藤原道長の家である

前述の、土御門第が、藤原惟憲の家から出火した、火災の延焼で消失
した。藤原道長が、急いで唐物の書籍類を、避難させた事等を、本ブ
ログでも、以前紹介したかもしれない。

 他方後一条天皇の住まいは、西暦1016年7月21日を含めてそ
れ以降、西暦1018年4月28日まで、依然一条院(亭)にあって、
里内離の状態であり、上記の

藤原道長の、自宅の火災からも難を逃れたため、一条院(亭)に
将棋具は、無事に保管され続けたと見られる。そして、

 西暦1018年4月28日に、再再建された大内離が完成すると、
後一条天皇は、こんどは一条院(亭)から、再再建された大内離に移
動した。それより少しのちに、大鏡記載の藤原行成の”こま”が、献
上されたとみられる。その時点で将棋具は、大鏡の記載から見て、
再再建された大内離の、適当な納戸部屋等に、放置されていたと見ら
れる。
 後一条天皇の時代には、西暦1018年4月の再建以降、内離は、
大内離であり、西暦1019年の、刀伊の入寇の少し後の、藤原隆家
帰還直後の推定・御前将棋の際には、大内離にて、藤原隆家の、将棋
の腕前披露があったものとみられる。「指揮が旨く行ったのは、常日
頃から、こうして将棋で腕を磨いていたからだ」と、藤原隆家は、
後一条天皇と藤原頼通の御前で、吹いて見せただろうとは、私にも、
さすがに容易に想像できる事である。
 なお、後一条天皇の代に再建された、大内離は、次の火災等で又
使用不可能となった、西暦1039年6月27日までは、使用され続
けたとされる。

 以上の調査結果となった。黄金で飾られた(大鏡)将棋具は、結局
後一条天皇が強運であったために、それに随伴していて、辛くも火災
の難を、西暦1019年の刀伊の入寇まで、免れ続けていたようだ。
(2018/05/21)

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