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平安~中世の日本人。なぜ惑星のように動く八方桂が作れないか。(長さん)

以下、かなり前に、論題の結論にした事があったと記憶するが、チェス史
の研究で名高い、H・J・R・マレーが、増川宏一氏の言い回しで言うと
ころの、”チェスの天文学起源説”を採る元になった、本ブログ流の解釈
での八方桂馬の発明は、イスラム世界では、プトレマイオスのアルマゲス
トの理解が、知識人の知識人たるトレンドで、あったためであろうという
事だった。すなわち、イスラム=シャトランジが、知識人のたしなみに相
応しい、高級感を持つゲームとなるためには、そのプトレマイオス理論の
雰囲気を、存分に取り入れた、”八方に等方に動くがゆえに、何手か繰り
返すと、軌跡が惑星の酔歩のような複雑な動きになる馬駒”への、インド
チャトランガの、桂馬動きの馬駒からの変更が、8世紀に必須だったので
あろうと言うのが、本ブログの見方である。
 これは逆に言うと、桂馬が桂馬のままであって、八方桂馬の動きになっ
ていないのは、平安時代の日本人が、”惑星の動きが複雑である”という
事実を、事実として認識できない、何らかの原因があった事を、意味して
いると考えられる。そこで、今回の論題は、

平安時代摂関期や院政期すこし後の日本人には、例えば”火星の動きには、
計り知れない複雑さがある”という事実に、気がつきにくい理由があった

としたらそれは何か、という内容としてみた。
 まずはいつものように、さっそく回答を先に書く。
”当時の日本の暦の元である、唐代の暦は、その惑星運公表(天文暦)の
計算が、太陽の周りを、全部の

惑星が楕円ではなくて、太陽を中心に真円運動していると考えるのに
実質近い、計算方法

の暦だったため”と、私は認識した。そのため、火星も中国唐代の暦では、
アルマゲストの、複雑なテクニックではなくて単純に、位置が推定される。
そのせいで日本人は、それで火星の動きについては、だいたい判ったよう
なつもりに、なってしまったようだ。
 つまり、中国の暦の書物としての理解に傾倒していた、当時の日本の知
識人は、誰も15年ごとに、火星が明るくなるといった、”不可解な現実”
には無頓着でありつづけた。特に火星が実際には、星座の中で酔歩のよう
な、複雑な動きをしている事には、誰も関心そのものが、向けられること
は、ほとんどなかったとみられる。そのため、イスラム=シャトランジ
を代表として、チェス・将棋・象戯ゲームが、”星辰(惑星)の動きに
則っている”と、中国の北宋時代に、中国経由で日本にも伝えられても、

日本人には、本当の意味が理解出来なかった

と、みられるのである。
 では、以下に調査経過を今回は、簡単に述べる。
 まず、日本の平安時代後期の暦法である、宣明暦の、天体暦(惑星運行
暦)部分のシステムについては、以下の成書に、概略の記載が有った。
 平凡社出版(1969年)薮内清著「中国の天文暦法」第2部”西方の
天文学”、一.唐代における西方天文学、2.”七曜譲災決について”。
ここに唐代作の、日本でも永らく使用の”宣明暦の惑星運行暦部分の計算
り説明がある。それによると、それより少し成立が前の、唐代五紀暦の算
法が、宣命暦の惑星暦部分でも、使用されている”と、どうやらとれる、
記載があった。ところで、五紀暦の惑星の位置推算方法は、使用する定数
が、地球や惑星の、近日点からの軌道角度には無関係で、いつも定数になっ
ていた。そこで、惑星が楕円ではなくて、真円運動していると考える場合
の計算方法に、なっている事が、私にも比較的容易に理解できた。ついで
に、水金地火木土・・の軌道の平面は、このケースは全て、同一とも仮定
しないと、同じく定数にはならない。また、惑星の運動は、この円軌道内
で、速度もいつも同じと、仮定している事にもなる。
 つまり、

惑星は、癖のある運行をするが、さほど複雑には動いていない

と、中国の唐代暦法は、ウソを教えているという事になる。これは、

事実と違うが、信じ込んで以降、実際の惑星を見なくなれば、盤上を複雑
に長手数で動きまわる、八方桂馬を考え出そうという、気力は起こらなく
なる考え

とは言える。どうやらイスラム天文学は、鎌倉時代にも日本でだけ生き残
り続けた、この唐代の、惑星推算方法の思想に完全にブロックされて、
平安時代や鎌倉時代には、日本には、その雰囲気を含めて、全く入って
こなかったようである。ちなみにこの状況は、中国では、その日本の鎌倉
時代、すなわちモンゴル帝国の時代に大きく変わる。それでも、

火星が明るくなると、暑くなるとかすれば、日本人も間違いに気がついた

のだろうが。四季の変化が激しく、日月の運行理論の方が、大事な国土に
たまたま住んでいたため、ギリシャ人のように、惑星の動きを予測するの
に、興味を集中する事も、我々の祖先には、余りなかったようだ。それが
日本で問題になったのは、上記の惑星天体力学の強い影響もあり、発達し
た科学技術の力で、世界を、西洋各国列強が、押さえ尽くしつつあるとい
う現実を知って、危機感を抱き始めた、江戸時代末期以降になって、日本
では、初めてだったという事になるのだろう。
 なお、今回じっくり調査を始める前には、恐らく、日本の暦計算家の、
土御門家あたりは、中国天文暦の算法技術だけを棒暗記し、中身を余り考
えていなかったから、アルマゲスト的な問題認識が、日本人の知識人階層
には出来なかったのだろうと、私は予想していたが、これは違った。唐代
の天体暦は、日月暦部分に比べて、内容が、著しく貧弱だったのが、根本
原因のようである。
 何れにしても、そのため日本では、”星辰(惑星:水金土火木)の動き
に将棋が則る”と、伝えられると、

玉将、金将、銀将、銅将、鉄将と、根源五元素に対応して、将駒を5つ
持ってくるという、(古代の)化学と惑星学とが混同されたり、鼠・牛・
虎・兎・龍駒を持ってくるといった、地球の公転軌道の法則に基づく、
日月暦の道具に、惑星天体暦の中身が、すり変え返られたり

した。これは、当時一流の知識人たる陰陽道師等にも、天体力学が、実は
理解不能だったので、彼らによって、旨く誤魔化されてしまったという事
に、実質なるのであろう。
 以上の事から、H・J・R・マレーが、チェス史でいう”天文学”の、
実質的な中身である”惑星の運動学”の、一番のハイライト部分であった、
”火星の動きの複雑さ”等が、日本では、唐代天体暦の伝統手法という、
より”音量”が大きな情報に、圧倒されて伝わらなかったために、

盤の中央で、長手数に亘って、酔歩状の複雑な動きを続ける、上下対称
動きのルールの馬駒等が、日本ではついに採用されなかった

と考えられると、私はやはり推定するという結果になったのである。
(2018/05/23)

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