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中将棋。歩兵以外の駒が、多彩な成りになった起源は何か(長さん)

現行の中将棋には、元駒として、お互いに事実上別種の駒が、21種類
程度ある。
玉将、金将、銀将、銅将、猛豹、酔象、麒麟、鳳凰、盲虎、香車、
反車、飛車、奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、横行、歩兵、仲人、
それに獅子(師子)である。
 このうち、成らないのは、玉将と獅子と奔王だけであり、他は多彩な
成り駒を持つ。所で中将棋のこの成りのパターンには、少し前に述べた
通り、先行するゲームに前例は、国際的に見ても無いというのが、本ブ
ログの見解である。外国では、歩兵しか成らないのが、普通だからであ
る。では、どのような過程で、中将棋に、そのような多彩な成りが、生
じたのか、

その経過をここでは問題にする。

なおこうする動機は、本ブログでは、ゲーム性能を上げるためが、本質
だが、将棋馬写のような、習字の道具に、しばしば使えたから、という
理由も、有ったのかもしれないと考えている。
 そこで動機ではなくて、過程についてだけ、ここでは問題にするとし
て、その答えから何時ものように書く。
 そもそも酔象が、元駒として存在しない、太子成りになったのが、
外国でも普通な、副官成り、すなわち金将成りの、従来手法を脱する、
出発点だったものと、私は考える。また、前にも述べたと思うが、
麒麟が獅子に成るというルールを作る事が、日本の将棋では必然だった
と、本ブログでは考える。
 つまり、

太子成り酔象と、獅子成り麒麟を出発点として、中将棋の多彩な成りは、
国内のゲームデザイナーの独力だけで、日本では独自に発生した、

と、本ブログでは見る。
 そこで以下に、上記の見方について、若干の補足説明をする。
 まず、太子成り酔象は、西暦1260年の時点で、モンゴル帝国の、
朝鮮半島侵略期の日本の大将棋に、世情の不安を背景に導入されたと、
本ブログでは見る。また本ブログでは、その大将棋の一段目と四段目は
金将成り、そして大事な事は、三段目に既に存在したと見る、

奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、横行、飛車に、二中歴大将棋の成り
システムからの推定から、成りは無いと見ている

ことである。そのために、酔象が最初に、ユニークな成りを持つ駒に
なったと、推定されるのである。その結果、歩兵や将駒、桂馬、車駒、
仲人以外にも、成りが許され、

かつ、酔象のように金将成りで無く、それどころか、元駒の中に、その
駒種が含まれなくても良いという、前例が初めて発生

したと見る。
 ついで、西暦1290年の時点では、これも、本ブログの独自の見方
だが、麒麟が、普通唱導集時代の大将棋に、聖人が現われると、出現す
るという、麒麟・鳳凰の対で導入されたと見ている。
 そのとき、大事な点は、

麒麟のルールが、猛虎の動きを2回繰り返すという、初の踊り駒だった

と、ここでは見ているという事である。それは、猛虎動きが、ぎこちな
いので、何か気の利いた動かし方ルールの駒を、作ろうとした為だとい
うのが、同じく本ブログの、独自推定である。そして以下が、もっと
大事な点だが、

猛虎を2回繰り返すルールよりも、玉将を2回繰り返す動きを考える
事の方が、実は、はるかに簡単だったと見られる

という事実がある。
 そのため麒麟より強い動きであるが故に、麒麟の成りとして相応しい

獅子の発生は、麒麟の発生と、ほとんど同時だっただろう

というのが、本ブログの見方である。だから、獅子が麒麟の成りという
のは、指定席だったと見られる。なお麒麟と、当時はシャンチーの
象+嗔猪動きだったと、ここでは見る鳳凰は、聖人の出現と同時に現わ
れる聖獣であると考えられたために、対で入れられたと見る。そのために、
両方に成りを作る事に、なったとみる。すなわち鳳凰は、当初は走りの
升目数と、止まれる位置の両方制限された、走り駒であったため、その
鳳凰の成りには、対で、獅子と同クラスの強さの奔王が当てられたと、
私は推定する。
 つまり、西暦1290年の時点で、その時代の大将棋、すなわち
ここで言う”普通唱導集大将棋”の成り駒は、

水無瀬兼成の、将棋纂図部類抄の後期大将棋と全く同じで、金将以外の
成り駒が、酔象、麒麟、鳳凰の3種だけだが存在していた

と、本ブログでは見ているのである。ちなみに、西暦1590年以降の
将棋纂図部類抄の、後期大将棋の成りが、

西暦1290年の普通唱導集時代の大将棋の成りの、記憶に基づくとい
う明確な証拠は、残念ながら、今の所全く無い

と、私も見る。
 すなわち、史料としての根拠は、今の所、成り奔王鳳凰のほかに、
いっけんすると、両面に何も書かれて居無いように見えるが、良く見る
と、表に”香”と書かれていて、裏には墨跡が無いと、発表されている、

鎌倉鶴岡八幡宮出土の、成り奔王鳳凰駒と不成り香車(?)駒を、
大将棋の出土物と見るという事しかない状態

である。裏づけとなる史料について誠に心細いが、以上が現実である。
 結局の所、中将棋は上記の、西暦1290年頃の、大将棋の状態、
すなわち普通唱導集大将棋を元とした、西暦1350年頃出現の後継
ゲームと、少なくとも本ブログでは考える。そのため、西暦1290年
の普通唱導集大将棋元駒には全く無い、

太子と獅子という名称の駒の前例に基づいて、順次、成り駒としての、
飛牛、奔猪、白駒、鯨鯢、飛鹿、飛鷲、角鷹が考え出されたもの

であると、本ブログでは見るのである。特に、

麒麟が踊り駒であった時代に、獅子のルールを考えるというのは、
いかにもゲームデザイナーの、技巧の世界といった感じ

である。実際には、

そのコンセプトを元に、元駒より少しづつ強い、中将棋の成り

という現存在するシステムが、構築されていったのであろう。そのため、
麒麟という駒を発明したことが、日本独特の、どれもこれもが、別の駒
に成る中将棋の、成りルールの、実質的な発生源だったのではないかと
いうのが、本ブログの考えという事に、今の所なっているという訳であ
る。(2018/05/28)

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