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将棋倒ししやすい駒と、将棋のゲーム種の間に相関はあるのか(長さん)

古代の将棋駒というと、名札、経帙牌の形で、厚みは無く、駒を立てに
くいというイメージがある。ところが、将棋倒しという言葉が、意外に
古くから、確かたとえば平家公達草紙や太平記に出てくると聞いており、
前から将棋史研究家の間で、問題になっている。使う将棋駒として厚み
が有る程度有り、また底の面の厚みが、先の厚みよりも太くて、縦に立
ち易い形をしていないと、将棋倒しには使えないのだが、そのような駒
が余り、出土していないからである。
 いっけんすると、駒数の多い将棋用の将棋駒は、裕福な者の持ち物な
ので、高級品の割合が多く、厚みもあって、下面が広いイメージがある
が、はたして実体はどうなのか。ここでは以上を論題とする。
 そこで、何時ものように結論を書くと、

将棋種と、下面の厚みとの間に、現実には相関は無い。
中世の武家の持ち物と見られる駒のうちの、高級品とみられるものは、
小将棋系でも、下面が厚く作られているケースの割合が、やや多く
将棋倒しに使いやすい

と言う事になった。
 以下に、経過を少し説明する。
 まず、大将棋の類であると、疑われている駒で、将棋倒しに使いやす
いとみられる駒は、

鎌倉鶴岡八幡宮出土の成り奔王鳳凰駒と不成り香車駒(?)の2枚だけ

である。
 平泉駅近くの遺跡の両面飛龍駒は、上がやや削られてから字が書き込
まれている程度。小山市神鳥谷曲輪遺跡の裏一文字金角行駒は、ほとん
ど平ら。徳島県川西遺跡の不成り奔横駒も、平らだったと記憶する。

つまり、2/5の割合であって、たとえば、他の将棋種の、下が厚い駒
の割合との間に、差がほとんど無い。

 日本将棋では、将棋倒しに使えそうな、下が広い出土駒としては、特
に古めのものを寄せ集めると、静岡県の駿府城三の丸遺跡の日本将棋駒、
秋田県の手取清水遺跡の成り々桂馬駒、鎌倉雪ノ下の遺跡の金成り桂馬
駒等、ある程度存在する。

日本の将棋は書く字を変えれば、別種のゲームの駒になるので、駒の高
級度と、ゲーム種の間に相関する要因は、もとから余り無い

のである。
 では、何が将棋駒の形に効いているのかというと、

中世に、城や館を作る木材資源を掌握していたとみられる武家の持ち物
には、高級な将棋駒が含まれている

ように、私には思える。
 指標は将棋駒ではなくて、

将棋盤で良いのを持てるような、豪族身分の者の、将棋駒なのか否か

のようなのである。
 そこで、そもそも将棋倒し用に使いやすい、底の方が厚みが厚くなる
将棋駒が、何故作られたのかという、

本質論に、私は立ち返って考えてみる事にした。

すなわちこの場合は、将棋倒しゲームをしやすいようにするために、底
の方が頭よりも、ぶ厚い将棋駒が出来たのでは、そもそも無い。

将棋駒の色と、将棋盤の色とが近い場合に、底の、分厚い将棋駒を使う

のである。理由は、

駒の名称の字が、将棋盤と全く平行だと、上記のケースは駒が消えて、
字が、将棋盤に書いて有るように、見えてしまうから

である。つまり、将棋駒と将棋盤の色が近いときに、

将棋駒の像が、視界から消えて、局面が把握しにくいようにならないよ
うに、将棋駒の厚みを上下で変えて、字を将棋盤とは、全く平行には、
ならないようにしている

のであろう。これは実際に駒を、底を何かで頭だけ持ち上げて、将棋盤
に置いて、駒字を将棋盤とが、平行になるようにしてみると良く判る。
 つまり、

将棋盤のりっぱな物を使っている、建築資材の残余で将棋盤の原材料が
入手しやすかったとみられる、中世の豪族系の武家の居所から、底の方
が厚みが厚い将棋駒が、将棋種に余り関係なく、出土やすい傾向がある

と、言う事である。
 恐らく武家が、館を作って合戦の準備をするようになったのは、平安
末期の頃からであろう。従って、そのために木材を集めると、将棋盤の
材料は集まりやすくなり、それで将棋を指すと、平らな駒では、駒が
把握しにくくなった。そこで羽振りも良かった豪族武家は、将棋駒も、
高級品を使うようになった。以上の理由で平家公達草紙の書かれる頃に
は、将棋倒しに使えるような、底の厚い将棋駒が、ちらほらと現われて
いたのだろうと、私は考える。
 むしろ鎌倉時代になると、公家は羽振りが悪くなって、もともと古典
的な経帙牌の形の駒を、大将棋等に使っていたので、大将棋の駒として
は、それしか増えなかった。だから、大将棋の駒に、将棋倒しに使いや
すい駒が多いという事には、必ずしもならなかった。以上のような経緯
なのではないかと、今の所、私は考えているのである。(2018/06/20)

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水無瀬兼成将棋纂図部類抄の序。最下段地理駒列に銅が無い理由(長さん)

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄には、「将棋図一巻の序」という前書きが
あり、概ね次のように、始まっていると私は認識している。
 ”将棋というゲームは、周の武帝が発明したものである。
 上段は、天を占う観測対象である、日月惑星の動きのように駒が移る
ものである。また最下段はその形に関して、地層物質の名が使われてお
り、その駒の並びは、

金、銀、鉄、石の名前になっている。

すなわち最下段の駒の名は、陰陽の根本に準じており、五行の音階の
旋律の気のバランスが保たれている。従って、将棋を正しく指す事は・・”
 ところで、日本将棋、中将棋、大将棋、摩訶大大将棋では、最下段
列に、地層物質の名前が並んでいる事は、将棋纂図部類抄の序にある
通りである。が、具体的な物質名は、玉、金、銀、銅、鉄、瓦、石・・
と並んだ系列であって、特に将棋纂図部類抄の序で、

銅将が抜けているのが目に付く。

今回の論題は、この将棋纂図部類抄の序の出だしの、最下段地層駒の
中に、銅将が抜けている理由とする。
 そこで、その理由について、本ブログの回答を最初に書くと、以下の
通りである。すなわち、水無瀬兼成は、各種の日本の将棋のうち、

陰陽五行説の影響が最も強かったのが、平安大将棋と見ているから

だと、考えられる。なお水無瀬兼成が、二中歴を知っていただろうと
言う事については、水無瀬兼成、将棋纂図部類抄、中将棋後の注釈の
”仲人”の記載、”横に行かず、聖目を越えて相手陣に入ると、酔象に
成る”というルール説明が、”注人は、横に動かず、実質前方一方歩み
なので、成りの規則は、歩兵と同じとする”を連想させるため、私は
個人的には、二中歴を読んでいたに違いないと思っている。
 では、以下に回答についての説明をする。
 ようするに、金、銀、鉄、石と並べたと言う事は、以下の水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄内の将棋種の中では、

陰陽五行説と最も関連性が大きい将棋が、後期大将棋であると、表明
していると言うのと、ほぼ同じ

である。でないと、

銅将を除いて、わざわざ石将を加える、動機付けが全く無い

からである。つまり、水無瀬兼成は、駒数多数将棋の系列の中で、記録
が古いゲーム種ほど、陰陽道との関連性は強いと、将棋纂図部類抄の序
で、ほぼ表明しているに等しいと、私は考える。

後期大将棋の最下段を、主に問題にしようとしてので、それが判るよう
に、石将を入れた結果、文章の調子をつけるために、銅将がたまたま
抜けただけ

という事だと、私は考える。平安大将棋の玉、金、銀、銅、鉄の数が、
五行とか五色宝塔とかいう文物概念と、ピタリと合うというのは、
水無瀬兼成にとっては、当然の認識と、受け止められたのであろう。
なお平安大将棋の上段について、平安大将棋の猛虎、飛龍が、十二支の
虎と龍であったとしても、四神の白虎、青龍であったとしても、後者は
春夏秋冬で、日月暦に関連するので、天文道博士が観天する天空に、
関するものである事には、変わりが無いとみられる。
 以上の事から、平安時代に”小将棋は外国から、与えられたもの。

大将棋は陰陽道師が絡んで、西暦1110年頃、日本で作成されたもの

である”という事を、水無瀬兼成が、家伝か何かで知っていた可能性は、
相当に高いと、考えられるという事になる。(2018/06/19)

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七国将棋。”他の6将を倒せば勝ち”というルールが無いのは何故(長さん)

今回は、ややくどくて、申し訳ないが、前回の論題の蒸し返しのであ
る。前回も述べたが、七国将棋の終局条件は、他の将を2つ取るか、
他国の駒を、相手が、駒枯れで既に負けている状態で、只取りできる
場合も含めて、30個以上取れば、その時点で勝ちである。
 これは、たとえて言うならトライルールを作って、日本将棋が早く
終わるようにしているような、ルール形式のものであり、本来なら、
表題のように、

”他の6将を倒せすか、他6国共、7駒以下になり、駒枯れにしてし
まい、1国だけ残れば勝ち”

というルールが、終局となる前提ルールとして、それ以前に存在する
のが当然のように思える。
 ところが、七国将棋に関しては、このような、前提となる勝負を付
ける条件に関するルールが、考えてみると、少なくとも今日では、

ぜんぜん見当たらない。

これは、何故なのだろうかというのが、今回の論題である。
 そこで、答えを先ず最初にいつものように書く。

この自明な終局ルールは、元々は有ったのだが、日本では適用された
事が全く無かったため、わが国では、たまたま忘れ去られてしまった

と、私は推定する。すなわち、
”普通にゲームをした場合、たいていは、他の国が全部、7駒以下の
駒枯れになる前に、覇者が30個駒を取った状態になるから”、

ではない

と言う事である。
 以上の点について、少し補足する。
 前回述べたように、七国将棋では、序盤が少し危ないだけで、自国
の玉駒が詰んでしまって、その国が負けるという事は、ほぼ無いとみ
られる。特に、盤上に駒が少なくなる中盤以降は、盤升目が19×
19と広いため、各国の奔王動きの玉には、囲いも要らない位である。
 次に、取得した駒がどの位の枚数になるかだが、

互いに棋力が近い7人の対局のケースは、最多取得者が30枚になる
ケースは少ない、

と、私は見る。皆が、前回述べた”ハイエナ作戦”を当たり前にする、
上級棋士同士の対局の場合は、取得枚数にさほどの差が付かず、トッ
プランナーが30枚には、とても届かないと、言う事である。なお、
完全に均した場合、一人当たりの取得駒枚数は、このゲームでは、
15枚弱になると見られる。
 つまり、

通常の七国将棋のルールは、早く勝負を付ける効果があるどころか、
本来の終局になっても、達成されない疑いがある

と、言う事である。日本の江戸時代の古文書にも、現在に残るルール
に近い事が、書いて有るようだが、”他の六人を打ち負かせば勝ちだ
が、これこれしかじかでも勝ちだ”とは、確かに書いてない。気がつ
けば、有った方が自然な前提だと、ただちに判る事だとは思うのだが。
日本では今まで放置されていたというのは、マイナーなゲームだとは
いえ、

不思議な話だ。

 恐らく、近世中国では七国将棋は、”6人共やっつけたら勝ち”に
なっていたに違いない。しかし、日本に輸入されて、江戸城で指され
ているときに、どうやら、本来の終局条件が、消えてしまったようだ。
 という事は、

一強六弱に近い状態で、徳川家治らによって、指された以外に、日本
では、余り興じられた例の、無いゲームだったとしか、考えられない

のではないかと、私は思う。恐らく、江戸城では、このゲームに熟達
した人間と、付き合いで指している人間との間の熟達度に、大差が
あったのだろうと、私は想像する。 つまり江戸城では、一強は、
ほとんどの場合、取得した駒が30枚を超える、ケースばかりだった
のであろう。そのため、ルールブックに、本来の、ゲームの終端条件
が、記録されなかったのではないか。江戸中期には、徳川家治がこの
ゲームをするので、識者の間では話題になったようだが、他で指され
た事は、ほとんど無いと見てよいのであろう。つまり、この日本版の
ルールの不備は、広くは流行らなかったゲームであるという、やはり
証拠の一つなのではあるまいか。
 何れにしても”6人共負け抜けて、1人のみ勝者として残れば勝ち
だが、他の2将を倒すか、取得した敵駒の数が、30枚以上になった
らそれでも勝ちとする。”という形式に、七国将棋のルールが、伝え
られて居無いというのは、常識的に考えて、不自然な話である事には
間違いないと私は思う。(2018/06/18)

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徳川第10代将軍家治時代。七国将棋は本当に盛んに指されたのか(長さん)

本ブログによれば、徳川第10代将軍の徳川家治が熱心だったと伝え
られる七国将棋は、”漁夫の利作戦”が卓越した、日本将棋とは戦略
が、まるで違う、ボード・ゲームだったろうと言う事だった。従って、
徳川家治が七国将棋に熱心だった事は文献や、徳川家治作の日本将棋
の詰め将棋に、駒が”七”の字で詰みあがるものが、ある点からみて、
確かとは考える。がこれをもって、徳川家治の時代に、七国将棋を指
す棋士が、大勢存在したのかどうかについては、私は前から疑問に思っ
ていた。
 徳川家治時代に、七国将棋が指された事情を述べた文献としては、
古事類苑30の遊戯部の将棋項にもある、”当世武野俗談”の、七国
将棋(将棊)の記載が、有名だと考える。そこで、古事類苑30の
遊戯部の将棋の七国将棋の項目を、今回はもう少し、丁寧に読んで見
る事にした。
 そこで、今回の論題は、表題のように徳川第10代将軍家治時代に、
七国将棋を指したのは、どの程度の人数だったのかとする。
 答えを、何時ものように先に書くことにする。

徳川宗武と、田安後書院番戸田内蔵助の妹”おくら”と、徳川家治の
3人だけが、特に熱心なだけだった

と、本ブログでは考える。
 そこで以下に、その結論を出すまでの経過について述べる。
 ”当世武野俗談”の、七国将棋(将棊)には、正確に読むと、以下
の部分は、次のように記載されていると私は考える。つまり問題は、
”おくら殿と申す女中、上手に(徳川宗武より七国将棋を)さしなら
ひ、此人に続きし者は一人もなし”の現代語訳である。すなわち、流
布した説では、
”『おくら殿』という名の田安の奥女中が、七国将棋を徳川宗武よ
り上手に教わって、この女中の右に出る強い棋士は一人も居なかった。”
とされている。が、私説では、”続きし者”は、”右に出る者”
ではなくて、

続きし者は、ようするに、芸として”引き継いだもの”、”弟子入り
して、これに続いた者”

に近い意味だと考える。幾つかの古語辞書文例(特に江戸時代より
少し前の物は顕著)から、そのように私には、読めるのである。
よって、現代語訳は、
”『おくら殿』という名の、田安の奥女中が、七国将棋を徳川宗武
より上手に七国将棋を教わったが、

この女中の、手腕を引き継いで指した者は、一人も居なかった。”

ようするに、当世武野俗談によると、田安後書院番戸田内蔵助の妹
とされる人物は、七国将棋の棋士として、師匠の徳川宗武を除くと、

田安奥女中の”おくら殿”が、七国将棋のオンリーワン

だったように、私には読める。なお、日本将棋に強かった、第十代
江戸将軍の徳川家治は、当世武野俗談を読む限り、

七国将棋には熱心だったが、それにとび抜けて強くなったという訳
ではなくて、それで遊びもした

と、書いてあると見る。断定はできないが、徳川家治よりも、歳は、
田安後書院番戸田内蔵助の妹”おくら”の方が、多少上であり、
将軍家治が、比較的に若いときに、教育係りや遊びの相手の一人とし
て、おくらという名の”子守女”が、存在したようにも私には思える。
第9代の将軍、徳川家重が、おくらが将棋に勝って、手を叩いて喜ん
だという話を、どこかで聞いた事があるから、家重の歳とも、離れて
居無いはずだと思う。
 たとえば、そうすると、たとえて言うなら徳川家治と”おくら”は、

源頼朝と寒河尼とに、年齢差として多少似た関係だったのだろうか。

 なお戸田という苗字からは、徳川家治の代から、下野宇都宮の領主
となった、戸田氏が連想される。が、戸田内蔵助の妹”おくら”と、
下野宇都宮藩との領主との関連、戸田内蔵助等の生没年等は、私には、
調べても良く判らない。
 ところで、古事類苑30の遊戯部の、将棋の七国将棋の項目には、
”古局将棋図”の説明文も載っており、それに、この将棋の終局条件
も、詳しく書かれている。またこの古局将棋図には、駒の動かし方ルー
ルの説明も有り、戦国七雄の国名が玉駒で、この将棋の玉駒は奔王の
動きである事も書いてある。従って、この将棋では、互いに

棋力に差が多少あっても、誰かが玉を2国詰んで、勝者になり
終わるケースが少ない

事が予想される。30枚、別国駒を取って、誰かが勝者になるケース
しか、実際の七国将棋では、ほぼありえないのではないか。それには、
駒枯れで潰れて、負け抜けした国を持った棋士の盤上に残した、一般
死駒を取ってゆく

ハイエナ作戦が、この将棋では最も有効

なのだろう。
 ただし、斉と趙は、反時計回り手番順で、直角直前先手の韓と魏の
2段目右の騎駒が、玉筋に当たっていて、生き埋めのまま、トン死す
るケースが、幾らかは有りそうだ。だから韓か魏を持ったプレイヤー
が、たまたま右隣の玉を1枚詰んで、2国分の駒で、3国目の玉を取
ろうと、必死の気持ちで、残駒が七枚に近い劣勢国の駒と、自分の駒
を相討ちにしている局面は、比較的起こりやすいのかもしれない。そ
のようなときに、韓か魏持ちの、2枚の玉の取得を狙う国に、わざと
加勢して、お余りを頂戴したり、駒枯れで劣勢国が遂に壊滅した時に、
その残駒をあさったりと、

コバンザメ作戦で、やや優勢な国を持った棋士の勢いに乗じて、劣勢
国の瀕死駒をあさるというのも、この将棋では有効

なのだろう。こうした、漁夫の利作戦、コバンザメ作戦、ハイエナ作
戦等が主流のゲームは、江戸時代の将棋の者の家元の、格式を重んじ
る棋士は、付き合い程度にしか、相手にしなかったのではあるまいか。
 だから、実際の七国将棋大会では、徳川家治と戸田内蔵助の妹、
”おくら”が主役で、奥御用を言いつけられた、大橋宗家の棋士等は、
頭数をそろえるために、大会に参加したとしても、たぶん脇役だった
のだろう。
 また、徳川家治自身は、日本将棋よりも七国将棋の方が、徳川氏の
先祖が、国家を統一しようとしている戦国時代の様子に、モデルが似
ているので、七国将棋に立場上、多少深く係わっていたというのが、
実体だったのであろう。結局の所そうすると、こうした

漁夫の利作戦、コバンザメ作戦、ハイエナ作戦といった、ずる賢い
戦術が得意な、独特の棋風をもった、戸田内蔵助の妹”おくら”と
いう、正体の良くわからない女性だけが、本当に七国将棋に、
のめり込んで指した、当時唯一の棋士だった

可能性も簡単には、否定できないように、私には思えるのである。
(2018/06/17)

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歩兵の上位概念でしか無い兵士が、何故泰将棋に入ったのか(長さん)

泰将棋に始めて導入された駒は、ざっとで約十種類前後であるが、
その中で、もっとも妙なのが、表題の”兵士”である。
歩兵より強い駒のように錯覚して、泰将棋の兵士を見ると、兵士は、
兵や兵卒の上官の事かと感じられるのであるが、実際にはたとえば、
中国シャンチーの兵と、泰将棋の兵士とは、同じ意味である。
 諸橋徹次の大漢和辞典を引くとやはり”兵卒は兵士の下級のもの”
と、兵士が歩兵の上位概念のように、記載されている。つまり、こ
のような名称の駒を、入れるというのは、日本の将棋に、”将”と
いう名の駒を、玉将や金将、銀将とは別に、入れるようなもので、

将棋の駒の名称としては、一般にはとても変

なのである。
なお、泰将棋を拡張した大局将棋は、兵士を発展させて、騎士を導
入した。が、士、つまりこの場合は”仕える”の意味の、士の字の
付く駒は、この程度で行き止まりだった。士業には専門家が多いが、
戦争の戦力になる職業は、少ないためであろう。
 そこで今回は、

将棋には歩兵が有るのに、泰将棋の作者が類似語で、それを包含す
る”兵士”という、奇妙な名称の駒を導入した理由

としてみた。
 そこで、最初に回答を書くが、この論題に対する解は、今までの
論題の中でも第一級の、解明困難性を示したものである。前置きが
余計だったが、次に答えを書く。

当初”奇犬”のすぐ後ろの升目に、兵士を導入しようとしたため

であると、私はみる。根拠は、動きからみて”兵車”等を書き間違
えたものでも、特に無さそうであるからである。つまり、兵士は、

わざと、導入された

のである。
 では、次にその説明をする。
 泰将棋では兵士は、端の車列に、車駒に挟まれて存在する。
動かし方のルールは、松浦大六氏筆者の将棋図式(象戯図式)では、
摩訶大将棋の奔龍と同じである。しかし、水無瀬兼成の、

将棋纂図部類抄オリジナルでは、この動きでは無い。

いわゆる横龍の動きになっている。これは、シャンチーの成り兵卒
やチャンギの兵等を、走りに変えて、後ろへ一歩、後退もできるよ
うにしたものである。従って、

兵士の動きとして、一応尤もらしく、兵車等、別の名称だったもの
を、将棋纂図部類抄で、書き間違えたとは、やや考え辛い。

そこで、次のように私は考えた。
 泰将棋では、端列の歩兵の後ろの升目に、奇犬を配置している。
所で、泰将棋は、駒を並べる際に、大大将棋のパターンを明らかに、
模倣していると考えられる。根拠としては、水無瀬兼成作が、
大将棊畧頌で、端列の走車を、反車と間違えて書いている点を、一
例として指摘できる。すなわち、

水無瀬兼成は、泰将棋を作成するときに、端列に駒が足りないので、
大大将棋に準じた、作りかけの泰将棋の最下段から、走車を端列に
移動させたのだが、その事をうっかり忘れて、駒を反車と間違えた

と考えると、このミスの説明がつきやすいのである。つまり、この
点でも、水無瀬兼成は、泰将棋の作者。泰将棋の作者と、大大将棋
の作者は、知り合いであると、疑われると言う事でもある。
 なお、水無瀬は、端列駒が更に足りないので、横に動きが無い

奇犬を持ってきたが、奇犬の後ろの升目には、大大将棋の習慣から
”兵”が必要

と、そのとき、考えたと見られる。所が歩兵は前列の駒であり、
大大将棋では、その更に前の、最前列にあった奇犬を、泰将棋で
歩兵列の後ろの方に移動させたので、兵は別に作る必要が発生

した。つまり当初は、奇犬の直ぐ後ろの升目に兵士のある、作りか
けの泰将棋を考えていた

と疑われる。だが、大大将棋には、端列の歩兵直ぐ後ろの升目は、
左車と右車であり、これらの駒を端列に置くと、奇犬と兵士の間に
左・右車を挟んだときが、体裁が良く、結局、現行の泰将棋の端列
の形になったのではないかとみられる。この推定は、根拠は乏しい。
だが、状況から見て明らかに、

兵士を作成したのは、奇犬のせいだった

と考えるのが、実はこのケースは最も自然なのである。
 端列に奇犬が無かったとしたら、訳が判らなかったところだった
のだが。

水無瀬兼成には、兵も兵士もいっしょ。兵で下級な者が、歩兵部隊
を形勢しているという事は、完全に判った上で、とぼけて兵士を、
また別に、作成した疑いがかなり強い

と、以上のように私には思える。(2018/06/16)

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鬼門思想。日本の鎌倉時代に、確かに盛んであったと言えるのか(長さん)

お隣の国の韓国の国旗には、巴マークの周りに方位の八卦の一部が
書かれている。方位を示したものだが、そのうち通常の地図での右
上の記号が、今回の題名の、鬼門に関連する”うしとら”の”艮”
である。が”艮”は2番目ではなくて、筮竹を使った、八卦占いの
(n mod 8)+1番号では、7番目が艮である。つまり、
方位の八卦は、北から時計回りに北東、東・・と行くに従い、
坎、艮、震、巽、離、坤、兌、乾と並んでいて、同じく筮竹占いの
(n mod 8)+1番号で行くと、順番は複雑で、
6、7、4、5、3、8、2、1と、なっている。これが、例えば
8、7、6、5、4、3、2、1となっていれば、何を根拠に、
方位に割り当てたのかは自明だが、実際には半規則的であって、
一見するとルールが良く判らない。
 永田久著”暦と占いの科学”(1982)によれば、結論から書
くと、坎、艮、震、つまり、出だしが(n mod 8)+1番号
で6、7、4、の順になっているから、”艮”すなわち、

”うしとら”の北東方向は、鬼門になる

という事だ。6番が7番を、7番が4番を嫌っているとのことらし
い。しかしこれでは、6、7、4、5、3、8、2、1という謎の
番号列で、1番目が6、2番目が7、3番目が4で無かったら、
北東方向は、鬼門にならない事を、意味していると言える。鬼門に
なるように、6、7、4、の順にしていたとしたら、循環論法だ。
従って問題は、上記の

6、7、4、5、3、8、2、1という、いかにも人工的で一見す
ると無秩序に作ったようにも見える番号列が、いったい何者なのか

という事になる。
 そこで今回は、このような妙な数列が、

日本の鎌倉時代の、普通唱導集大将棋の駒の種類に、影響するよう
な時代には、本当に確立されていたと言えるのかどうか、

以上を論題とする。
 答えから書くと、

数列6、7、4、5、3、8、2、1は、魔法陣を変形すると出来、
他方、八卦の1、2、3、4、5、6、7、8番すなわち、
乾兌離震巽坎艮坤(けんだりしんそんかんごんこん)の五行対応は、
木火土金水を、単に明るさのイメージだけで、順番に対応させたも
のなので、亀の甲羅に書いてあった魔法陣が、八卦占いの起源とい
う話が、充分に古いとみれば、鬼門の概念の成立は、日本の鎌倉時
代より、ずっと以前と言える

という結論になった。
 では、説明は、順序を入れ替え、乾兌離震巽坎艮坤(けんだり
しんそんかんごんこん)の五行元素対応から、順番に以下してゆく。
 そもそも八卦占いの史料を幾ら当たっても”八卦占いは、アジア
に黄河文明が発生した頃から有った”としか、古文書には書いてな
いので、そこから成立期を確定するのは無駄であろう。
 そこで鬼門思想が、日本の鎌倉時代よりも、古いものである事を
示すには、八卦の方位対応や、五行(木火土金水)との対応が、
中国唐代に有った文物で、容易に製作できるものである事を示すし
かない。まず、木火土金水の五大元素について、そのイメージから、
金火木水土の順に、明るいイメージから、暗いイメージが
並ぶ事は、中国唐代より古く、古代には簡単に考えつけただろう。
だから、乾から坤に向かって、連続的に陽から陰の方向となる、

乾兌離震巽坎艮坤(けんだりしんそんかんごんこん)の五行対応は、
金金火木木水土土と、幾ら遅く見ても、唐代には決まっていた

のではないかとみられる。
 だから、問題は、韓国という特定の国家の国旗にも、象徴的に含
まれている方位の八卦が、北から時計回りに
坎、艮、震、巽、離、坤、兌、乾と並んでいて、
(n mod 8)+1番号で、北から時計回りに、

6、7、4、5、3、8、2、1番という、不可解な数列である理
由を解くというのが、中心的課題、

という事に、必然的になるものと思われる。なお、土が水に勝ち、
木が土に勝つという思想も単純なので、唐代までには確立できただ
ろう。永田久氏の”暦と占いの科学”(新潮選書、1982年)に
よると、6番、7番、4番が、互いに相克になっているのが、
北東、うしとら(艮)が鬼門になった理由とされ、これが、北東が
ずば抜けて、悪い方向になるという事なのだが、それが説明として
は、一番尤もらしいと私は思う。
 そこで、6、7、4、5、3、8、2、1が、どうやったら思い
つけるのか。これは今回、易の文献で捜索するのも、かえって、
種明かし本は少ないと予想され、手間と感じたため、私は専門書を
調べず、自力で解読を試みた。
 結果次のようにすると、この数列に近いものができそうだ。
 まず3行三列の魔法陣を、前の中央が9、右上が2、左上が4に
なる向きで、書き、外側の8個の数字が、起点はさておき、ともか
く方向を示していると考える。
 まず、もともとの、古代に亀の甲羅に書いてあったとされる
魔法陣自体は、
4、9、2
3、5、7
8、1、6

の形である。
 次に、九星占い術の星回りと、逆向きだが、1のところには9を、
2のところには1を、3のところには2を、というふうに、一つ少
ないか、1の場合には9を入れて、数字を入れ替えると、上の魔法
陣の数の列は、次のようになる。
すなわち、
3、8、1
2、4、6
7、9、5
である。なお、この状態では、もはや魔法陣ではない。
 次に、もう一回だけ、同じことを繰り返す。すると中央が3に
なって、次の3行3列の数字の列になる。

2、7、9
1、3、5
6、8、4
 この3行3列の、外の部分の6から、裏返しなのがやや難点だが

反時計回りの数字の列は、
6、8、4、5、9、7、2、1となっていて、方位の八卦の
(n mod 8)+1番号、すなわち、
6、7、4、5、3、8、2、1番に、かなり近い。
 魔法陣の中央が5であったために、二つ減らすと3になり、9に
なっている所で、それと取れかえるべきだと、考えられるのと、
7と8とが逆だが、結局の所、

方位と八卦の記号の対応付けは、もともと以上のようにしてできた

のではないかと、私は疑っている。理由は今述べたとおり、9と3
は、単純に取り替えるだけだし、

7番の艮と、8番の坤は、ほとんど同じような陰であって、五行で
は、土に対応付けられているという点で、同じ

ではないかと私は思うからである。7と8は私には理由は不明だが、

単に、あとでひっくり返しただけ

なのではないかと疑う。艮が坤であったとしても、どちらにしても
五行元素の対応が土には変わらないので、”うしとら”と読まれて、
鬼門になったはずだ

と思われるのである。
 以上の魔法陣が、亀の甲羅の落書きが起源で、唐代より、はるか
以前にあった事は確かだろうし、九星占いも鎌倉時代に無いはずは
あるまい。だから、北東が艮で”うしとら”で、陰性で土に対応し
て、北隣の水と戦って勝ち、東隣の木と戦って負け、何れも仲が悪
い、水と木に挟まれていて

北東が鬼門

だというのは、西暦1300年頃の普通唱導集大将棋の時代よりは、
ずっと早くに存在しえた事だけは、確かだと私は考える。
 ただし魔法陣の数値の2回という、随意性の強い入れ替えと、
”五元素”の明るさのイメージだけで創作出来る、この鬼門の概念
はいかにも迷信臭く、普通唱導集大将棋の類に、虎、牛、猪、龍が、
全部居なければならない理由に、少なくとも近代以降、たとえば
2017年型普通唱導集大将棋では、全然なり得ないだろうとも、
私が感じた事は確かである。(2018/06/15)

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和将棋の「草かんむり隹(すい)歩」とは何者か(長さん)

和将棋は、江戸時代の将棋書、たとえば松浦大六氏筆写の、象戯図式
で駒の動かし方のルールや、初期配列が説明されている。日本将棋と
名前がほとんど、オーバーラップしない事で、有名である。駒名自体
は、概ね尤もらしいのだが、兵駒に当たる、表題の”草かんむり隹歩
(すいほ)”が、少し前に本ブログで取り上げた、大大将棋の奇犬と
並んで、意味の取りにくい駒名として有名である。ここでは、再び
諸橋大漢和辞典により、この”すいほ”の謎、すなわち、これはいっ
たい何者なのかについて、解明を試みたので報告する。
 回答を何時ものように、先に書くと、

”すいふ”は読みが間違いで、本当は”かんふ”。鳥の”みみづくの
一歩歩み”の意味である。

ここで大切な点は、

「草かんむり隹(すい)歩」は、”誤字”だという事である。

正しくは、”┤├かんむり”に隹と書いて”かん”と読む字に歩であ
ると言う事だ。つまり、”かんほ”の”かん”は、諸橋大漢和辞典に
よると、草かんむり(++や、サ)ではない。鳥の”みみづく”の毛
角が、耳のように出ているのを、”┤├かんむり”で、表現したもの
だという。だから、”┤├かんむり”に隹で、”みみづく”の意味で
ある。
 なお、松浦大六氏筆写の、象戯図式には、正しくこの字が書かれて
いる。なぜなら隹のかんむりが、収録された”将棋Ⅰ”で良く見ると、

松浦大六氏の筆跡では、”++”には、なって居無いからである。

つまりこの事から、松浦大六氏には、この字が正しく”みみづく”と
読めた事が判る。昔の人は、たいしたものである。
 ちなみに、表題の「草かんむり隹(すい)歩」の草かんむり隹は、
”草むら”等の意味であり、

「草かんむり隹歩(すいふ)」では、草むらの中をヨロケながら歩く

事になるので、歩兵の動きのイメージからは遠く、webに書いてあ
るように、確かに意味不明となる。本当は、この”かんふ”は、”鳥
の、『みみづく』が歩くように、ごく僅かしか進まない”との意味が、
こめられているのだろう。残念ながらweb上では、どちらの字も、
全く表現できない漢字だったと、いう事にはなるのだが。
 何れにしても、諸橋徹次著の大漢和辞典(西暦1958年発行)は、
レアーな漢字まで良く出ているものだと、今回はさすがに感心させら
れたのであった。(2018/06/14)

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本ブログの”二中暦平安大将棋の原案作者”とは具体的に誰なのか(長さん)

本ブログでは、二中歴に記載された大将棋、すなわちいわゆる平安
大将棋は、平安時代の西暦1140年頃までに、朝廷内第二標準の
日本の将棋として、藤原長者の働きかけにより作成されたものとみ
る。そしてもともと原案を、陰陽道関係者が作成し、藤原氏内部で
検討のうえ、決定されたと言って良いような、経緯のゲームである
と考えている。陰陽道関係者が、原案作成を、藤原氏の上層部から
依頼された理由は、中国より、象棋ゲームが、日月星辰の動きに則
るという、将棋が天文暦道に則って作られるべきだとも取れる内容
が、西暦1100年頃に、伝来したためとここではみている。なお、
中国シャンチーは、当時出来たてであり、馬の動き等が八方桂馬と
なって、中国での解釈で言う、星辰の動きに、則ったものであった
と考えられる。
 藤原氏による平安大将棋作成の元々の目的は、9×9升目36枚
制の平安小将棋・標準型に発生した旦代の難点を突いた、その放逐
と、それに取って代わる事が本来の狙いだったはずである。従って、
日月星辰の動きの専門家である、天文博士、暦道の専門家、陰陽寮
の長が、藤原長者の依頼で、”正しい将棋の作成のため”の、そう
そうたるメンバーとして、平安大将棋の作成に、関与したものと
推定される。つまり時期は、台記の藤原頼長が、崇徳上皇の御前で、
”大将棋を指して負け”て、勝負を付けて見せたよりも、20~
30年前の、西暦1110年頃ではなかったかと、ここでは推定し
ている。
 なお初期の平安大将棋は、いわゆる13升目で、初期には3段
配列であり、平安小将棋を充分に意識した、5種9将制の13升目
恐らく68枚制であったとみられる。ただし、陰陽道の関係者は、
複数の原案を準備して、藤原長者等の選択を仰いでおり、盤升目の
広いものの中には、19升目程度のタイプも、有ったに違いない。
 以上、これまでの経過のまとめが長かったが、今回は、では具体
的に何者が、その平安大将棋の原案作成の、少なくとも主導者であ
ったのかを、陰陽道の家系図等より、推定する事を論題とする。
 回答を先に書くと、

安倍晴明の玄孫(4代下)の、当時の陰陽博士で雅楽頭の安倍泰長
という人物の可能性が、かなり高い

という調査結果になった。
 以下、この人物について補足する。
 有能な陰陽道師として特に名高い、西暦1000年前後の、藤原
道長時代活躍の安倍晴明は、加茂保憲の弟子であり、後者は子息の、
加茂光栄に宣明暦の作成を伝授し、安倍晴明には、陰陽道天文博士
の中心人物としての、知識を伝授したと伝えられている。加茂家か
らも、実際には陰陽寮にて、天体の観測(天文道)を行う専門家も、
依然、配出したようだが、陰陽頭としての地位は、安倍晴明の代
から、安倍家(後の土御門家)に移行したと、私は昔、暦学の成書
で教わった。加茂家にも平安大将棋の作成に関与する者があったが、
西暦1110年時点では、安倍晴明の子孫、特に宗家嫡男が、最終
責任者になった可能性の方が、やや大きいように私には予想された。
 もちろん、平安大将棋の成立は、西暦1110年ころと、ここで
は見ており、西暦1000年頃に活躍した、著名な安倍晴明自身は、
首謀者にはなれない。すなわち、プロジェクトの最終責任者は、彼
の子孫に違いない。そこで、具体的な人名を、系図で調べると、
安倍晴明の子が安倍吉平だが、孫の代で4人に分かれることが先ず
判る。安倍晴明の孫達は、西暦1060年ころに活躍したのだろう。
人物名で言う、安倍時親、安倍章親、安倍泰親、僧侶平算である。
なお僧侶平算の孫にも、星占い師が居るとの事なので、4人とも
子孫が、平安大将棋に関与はできる。ただし、政治的な力が合った
と見られるのは、

安倍時親の子孫と、安倍泰親の子孫だけである。

次男(?)の安倍章親は、自身は陰陽頭であったが、子孫が無かっ
たようだ。
 長男(?)の安倍時親の子が安倍有行で、孫が上で回答で述べた、

安倍晴明の玄孫で安倍時親の孫の、安倍泰長

である。それに対し、安倍吉平の3男の安倍泰親の子が安倍親宗で
あるが、安倍吉平の3男の安倍泰親の孫に、安倍宗明という人物も
居る。この人物も、陰陽寮で、当時権威者だったらしい。が、この
人物すなわち、安倍宗明は、将棋からは少し遠い。というのも、
安倍宗明は、更に子の安倍広賢が、陰陽道師として有力になったが、

安倍宗明自身は、天体観測の専門家であった

という情報があるからだ。”暦の精度を比較する、月食の観測に
優れた実績を残した”とあるので、判りやすく現実的に言うと、現
代天文学的な領域の、専門家だったようだ。なお特異な天象が、
天皇等の未来と、どう関係すると結論するのかといった、上奏文書
を作成する技術を習得する手間は、天体観測の技術の習得に比べれ
ば、たいした努力を要しないだろうと、少なくとも私は思う。すな
わち、西暦1110年当時の記録を、wikipedia等で読む
限り、

安倍晴明の玄孫で安倍時親の孫の、安倍泰長は役職の内の、天文博
士(現代の天文学者的な部分)を、親類の安倍宗明に奪われていた

ようである。つまり”余りに仕事の守備範囲が広くなりすぎるので、
天体観測関連等、科学的な部分は、親類の安倍晴明の息子、
安倍吉平の、3男の孫の安倍宗明に分担させるように”と、朝廷か
ら命じられていたという事なのだろう。逆に言うと、ずばり

安倍晴明の玄孫で安倍時親の孫の、安倍泰長が、陰陽道博士の頭目

に間違いないと見て取れる。だからこの人物が西暦1110年当時、

平安大将棋の原案作成の、最高責任者として、名を連ねていた可能
性が、すこぶる高い

ように、私には思えた。なお、この安倍泰長は、西暦1114年に、
陰陽頭に就任したそうだ。そればかりか、”楽器演奏の類の雅楽の
大家だが、将棋もたくみに指す”として、新猿楽紀で描かれている
”十一の君”と類似の人物のようであり、その少し前に雅楽の頭も、
安倍泰長が兼ねていたという。将棋も、当時は楽器の演奏と同じで、
駒の捌きの手つきが、専門家である証拠とされたから”十一の君は、
楽器も将棋も”ということになったのであろう。だから、その類似
人物である

安倍晴明の嫡男系の4代下の安倍泰長こそが、平安大将棋の原案を
作成した、推定陰陽師の具体的な人物、

その可能性が、最も高いように私には思えた。なお、陰陽師として
は、この安倍泰長の息子(3男?)の安倍泰親の方が、平清盛とも
関連するらしく、更に有名であるということを、私は聞いている。
(2018/06/13)

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ひょっとして朝倉小将棋の玉駒は全部、王将1/玉将1型なのでは(長さん)

少し前に述べたが、最初は双玉型であった日本の将棋は、恐らく
東海~関西にて、ひょっとすると西暦1252年の、宗尊親王の
鎌倉将軍就任直後に、王将1/玉将1型へ、当時の大将棋から最
初に、切り替わったものかもしれないとの事であった。
 ところで、本ブログで言う、当時の西暦1260年型の大将棋
や、普通唱導集大将棋は、成り太子酔象が、玉将または推定
王将の前の升目に置かれるという点で、既知の小将棋類である、
朝倉小将棋と同じである。この事は、ひょっとすると本来

朝倉小将棋は、ゲーム性の追及の結果、発生したものではなくて、
大将棋に酔象が加わった経緯の模倣、又は小型・お手軽品の作成

に過ぎなかった可能性を、示唆しているようにも見える。なお、
本ブログでは、

歩歩歩歩歩歩歩歩歩
口角口口象口口飛口
香桂銀金玉金銀桂香

という配列で現わされる、9×9升目42枚制朝倉小将棋は、
室町時代の謡曲「文禄本幸若(舞)信太」として、玉以外を全部
敵陣に、繰り出す戦法が示唆されたものが存在するため、取り捨
てで指される場合もあると見ている。が定説通り、持ち駒ルール
で指された場合も有り、持ち駒ルールの有無に関しては、混在と
の見方を、現在は取っている。
 問題は、将棋史の成書にも、だいたい皆書かれているように、
持ち駒ルールだと、玉駒である、玉将、酔象が、互いの存在のた
めに、リサイクルされてしまうという点である。定説では、
朝倉小将棋は日本将棋に比して、その点が難であり、普及度が
その分劣っただろうと、見られているわけである。
 他方本ブログでは持ち駒ルールの、成り角行猛豹入り小将棋が、
江戸時代の草創期に、徳川家康の保護を受けているにも係わらず、
釈迦への信仰が異常に厚い、将棋者三家の、”将棋の関連者は、
誰なのかを、深くせんさくしてはならない”何者かによって考案
され、実在するとみているため、この46枚制変形朝倉小将棋の
様子から、持ち駒ルールで、並みの朝倉小将棋を指すとき、

玉将は取り捨てだが、成り太子酔象はリサイクルルールであった

だろうと、現在独自に考えている。それでルールは安定いていて、
後奈良天皇の詔で、無理に廃止する筋合いが、無かった疑いも有
ると、言う見方をするのである。実は、今回の表題のように、
朝倉小将棋の玉駒は全部、王将1/玉将1型だとすると、

玉将と王将の所有は固定なため、玉将/王将だけ例外的に取り捨
てルールで、プレーしやすい

という利点が当然出て来る。そのため、西暦1252年の、宗尊
親王の鎌倉将軍就任直後に、当時の大将棋から切り替わった、

王将1/玉将1型について、そもそも朝倉小将棋では、それが
ルールで決まっており、完全に固定であった疑いもある

のではないかと、私は考える。逆に言うと、王将1/玉将1型
が普及するのに、龍と釈迦への信仰および、将軍は頼りにならない
という鎌倉時代の思想の入った廉価版将棋である、朝倉小将棋の
存在が役立ったし、

小将棋を双玉型で頑強に指していた所へは、朝倉小将棋が入り込
み難かった

という事さえ、あったのかもしれないと、私は疑う。
 事実、今の所

成り太子酔象は、その時代に双玉型であった地域からは、まだ
出土していない

と私は認識する。つまり、興福寺の酔象は不成りで、別の将棋用
だと、少なくとも本ブログでは見ているし、上久世駒は京都府な
ので双王将地域。一乗谷朝倉遺跡の酔象は、言うまでも無く王将
1/玉将1型地帯。江戸期の本郷元町遺跡の酔象も、江戸時代な
ので、関東でもその時代は、王将1/玉将1型地帯である。
 今後、成り太子酔象駒は、更に出土するだろうが、その時代の

双玉地帯で、この駒が全く発見されないようだと、王将1/玉将
1型将棋の普及要因については、朝倉小将棋の存在が、主な理由
という、重大な結論が、得られる可能性も充分に有り得る

のではないかと、私は期待している。(2018/06/12)

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天竺大将棋の駒の格。いつ発明されたのか(長さん)

現行伝承されている天竺大将棋の駒のうち、玉駒と跳び越え駒に関
して、相手の跳び越え駒で跳び越えられたり、そのときに取られた
りしないように、玉駒と跳び越え駒と、その他の駒とで、跳び越え
駒による、跳び越え取りの手のうちの一部に、禁止手を付与すると
いう差別を目的とする、駒の格という、特別な禁手ルールのための
用語が存在する。つまり、自他共に、格下の駒は、跳び越え駒は、
跳び越える事ができるし、そのとき相手の駒は、取る事ができるが、
跳び越えたり、そのとき取る駒が、同格ないし格上だと、跳び越え
と取りが、どちらも特別に、禁止になると言う事である。なお、
直射取りする手には、こうした制限は無い。
 具体的に、駒の格が特別な、駒種類を書くと、天竺大将棋では、
玉将、太子、大将、副将、飛将、角将を、他の駒よりも、格上と
するものである。なお、格上駒系列に、奔鷲は入って居無い。
 これらを1ランク上に、しさえすれば良いような気もするが、実
際には、上記の6種類の駒を、2、1、1、2と分けて、ABCDクラスと
し、残りをEクラスにするという、より複雑な事になっている。
 そこで今回は、この跳び越え駒の、跳び越え取り制限ルールが、
何時の時代から、誰の発明によって存在するものなのかを、論題に
してみる。
 回答を何時ものように先に書くと、

20世紀後半というごく最近になり、恐らく「世界の将棋」
-古代から現代まで-の著者の、梅林勲氏により作成されたもので
あろう

と本ブログではみる。ひょっとすると、梅林氏ではなくて、その
知人のゲームデザイナーが、作成者なのかもしれないが。
 次に根拠を述べると、
 将棋天国社(1997年)の「世界の将棋」梅林勲氏著書まで、
天竺大将棋の駒の格についての史料が見当たらない。しかし根拠と
してはそれ以上に、本ブログが以前示したように、天竺大将棋には、
火鬼を、水牛類似の走り駒の系列にしたままでは、先手があまりに
有利という点で、近世・近代に於いて、日本人の棋士に、まともに
指された事があるとは、到底考えにくいゲームであるという点が、
挙げられる。つまり、誰かが

火鬼問題をさておいては、最初からだめなものを、熱心にルール
調整する、動機付けが、そもそも基本的に見当たらない

と、私は考えるからである。つまり「世界の将棋」の著者の梅林勲
氏が現われるまで、オリジナルの、駒の格が無いルールのままで、
天竺大将棋は、誰にも相手にされずに

放置されているという姿が、自然なゲーム

だと、私は考えているのである。
 そこで以下、今述べた事を多少補足説明する。すなわち江戸時代
の初期、元禄の頃に天竺大将棋が出来ると、まもなく諸象戯図式に
は、中将棋の拡張ゲームとして紹介された。また、象戯図式が筆写・
加筆されるときに、天竺大将基として、太象戯と、太太象戯の間に、
挿入記載されるようになった事は、これらの文献から見て確かであ
る。しかし江戸時代の

これらの文献に、駒の格のルールは、記載されて居無いと認識する。

後者は増川宏一氏著書、ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰ(1
977年)の松浦大六氏書写の象戯図式には、明らかに載って居無
いし、前者については、公文書館で10年位前に、私は見た事があ
るのだが、諸象戯図式には、天竺大将棋を含めて、各将棋の初期配
列図に、行き方の線や点が、引いてあったという記憶以外に、私に
は、何かの情報があったような記憶が無い。残念ながら、現在私の
手元に、諸象戯図式が無いので確定しないのだが、恐らく

諸象戯図式は、ルールを図示しただけで、より詳しい内容について
記載された書籍では、無いのではなかろうか

と、今の所認識する。
 その後、将棋天国社の、「世界の将棋」が発行されるすこし前こ
ろ、個人的に、梅林氏等と、書簡のやりとり等があったらしい、
C.P.Adamsが、世界の将棋と同等のルールの、天竺大将棋
の解説本の電子版を、1999年に発表している。が、そのほかに、

天竺大将棋の情報記録は、近世現代を含めて「世界の将棋」以外に
は、余り無いのではないか

と、私は疑っている。
 従って、

天竺大将棋の駒の格ルールは、梅林勲氏の「世界の将棋」が初出

である可能性が、依然かなり高いと私は見る。ので、

近代のごく最近になって、発生したルールである

と言う説を、今の所、完全に否定は出来ないのではないかと、私は
疑っている。繰り返すが、

この将棋はもともと、火鬼が水牛型の走りである点が、難であるた
め、中将棋系に強いゲーマーには、簡単に見捨てられる可能性が、
すこぶる高い。

そのため、天竺大将棋というゲームには、

特に研究熱心な梅林勲氏にしか、最初から相手にされないと推定

されるという、かなりの、もっともらしさが、もともと存在すると、
私には思えるのである。(2018/06/11)

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