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徳川第10代将軍家治時代。七国将棋は本当に盛んに指されたのか(長さん)

本ブログによれば、徳川第10代将軍の徳川家治が熱心だったと伝え
られる七国将棋は、”漁夫の利作戦”が卓越した、日本将棋とは戦略
が、まるで違う、ボード・ゲームだったろうと言う事だった。従って、
徳川家治が七国将棋に熱心だった事は文献や、徳川家治作の日本将棋
の詰め将棋に、駒が”七”の字で詰みあがるものが、ある点からみて、
確かとは考える。がこれをもって、徳川家治の時代に、七国将棋を指
す棋士が、大勢存在したのかどうかについては、私は前から疑問に思っ
ていた。
 徳川家治時代に、七国将棋が指された事情を述べた文献としては、
古事類苑30の遊戯部の将棋項にもある、”当世武野俗談”の、七国
将棋(将棊)の記載が、有名だと考える。そこで、古事類苑30の
遊戯部の将棋の七国将棋の項目を、今回はもう少し、丁寧に読んで見
る事にした。
 そこで、今回の論題は、表題のように徳川第10代将軍家治時代に、
七国将棋を指したのは、どの程度の人数だったのかとする。
 答えを、何時ものように先に書くことにする。

徳川宗武と、田安後書院番戸田内蔵助の妹”おくら”と、徳川家治の
3人だけが、特に熱心なだけだった

と、本ブログでは考える。
 そこで以下に、その結論を出すまでの経過について述べる。
 ”当世武野俗談”の、七国将棋(将棊)には、正確に読むと、以下
の部分は、次のように記載されていると私は考える。つまり問題は、
”おくら殿と申す女中、上手に(徳川宗武より七国将棋を)さしなら
ひ、此人に続きし者は一人もなし”の現代語訳である。すなわち、流
布した説では、
”『おくら殿』という名の田安の奥女中が、七国将棋を徳川宗武よ
り上手に教わって、この女中の右に出る強い棋士は一人も居なかった。”
とされている。が、私説では、”続きし者”は、”右に出る者”
ではなくて、

続きし者は、ようするに、芸として”引き継いだもの”、”弟子入り
して、これに続いた者”

に近い意味だと考える。幾つかの古語辞書文例(特に江戸時代より
少し前の物は顕著)から、そのように私には、読めるのである。
よって、現代語訳は、
”『おくら殿』という名の、田安の奥女中が、七国将棋を徳川宗武
より上手に七国将棋を教わったが、

この女中の、手腕を引き継いで指した者は、一人も居なかった。”

ようするに、当世武野俗談によると、田安後書院番戸田内蔵助の妹
とされる人物は、七国将棋の棋士として、師匠の徳川宗武を除くと、

田安奥女中の”おくら殿”が、七国将棋のオンリーワン

だったように、私には読める。なお、日本将棋に強かった、第十代
江戸将軍の徳川家治は、当世武野俗談を読む限り、

七国将棋には熱心だったが、それにとび抜けて強くなったという訳
ではなくて、それで遊びもした

と、書いてあると見る。断定はできないが、徳川家治よりも、歳は、
田安後書院番戸田内蔵助の妹”おくら”の方が、多少上であり、
将軍家治が、比較的に若いときに、教育係りや遊びの相手の一人とし
て、おくらという名の”子守女”が、存在したようにも私には思える。
第9代の将軍、徳川家重が、おくらが将棋に勝って、手を叩いて喜ん
だという話を、どこかで聞いた事があるから、家重の歳とも、離れて
居無いはずだと思う。
 たとえば、そうすると、たとえて言うなら徳川家治と”おくら”は、

源頼朝と寒河尼とに、年齢差として多少似た関係だったのだろうか。

 なお戸田という苗字からは、徳川家治の代から、下野宇都宮の領主
となった、戸田氏が連想される。が、戸田内蔵助の妹”おくら”と、
下野宇都宮藩との領主との関連、戸田内蔵助等の生没年等は、私には、
調べても良く判らない。
 ところで、古事類苑30の遊戯部の、将棋の七国将棋の項目には、
”古局将棋図”の説明文も載っており、それに、この将棋の終局条件
も、詳しく書かれている。またこの古局将棋図には、駒の動かし方ルー
ルの説明も有り、戦国七雄の国名が玉駒で、この将棋の玉駒は奔王の
動きである事も書いてある。従って、この将棋では、互いに

棋力に差が多少あっても、誰かが玉を2国詰んで、勝者になり
終わるケースが少ない

事が予想される。30枚、別国駒を取って、誰かが勝者になるケース
しか、実際の七国将棋では、ほぼありえないのではないか。それには、
駒枯れで潰れて、負け抜けした国を持った棋士の盤上に残した、一般
死駒を取ってゆく

ハイエナ作戦が、この将棋では最も有効

なのだろう。
 ただし、斉と趙は、反時計回り手番順で、直角直前先手の韓と魏の
2段目右の騎駒が、玉筋に当たっていて、生き埋めのまま、トン死す
るケースが、幾らかは有りそうだ。だから韓か魏を持ったプレイヤー
が、たまたま右隣の玉を1枚詰んで、2国分の駒で、3国目の玉を取
ろうと、必死の気持ちで、残駒が七枚に近い劣勢国の駒と、自分の駒
を相討ちにしている局面は、比較的起こりやすいのかもしれない。そ
のようなときに、韓か魏持ちの、2枚の玉の取得を狙う国に、わざと
加勢して、お余りを頂戴したり、駒枯れで劣勢国が遂に壊滅した時に、
その残駒をあさったりと、

コバンザメ作戦で、やや優勢な国を持った棋士の勢いに乗じて、劣勢
国の瀕死駒をあさるというのも、この将棋では有効

なのだろう。こうした、漁夫の利作戦、コバンザメ作戦、ハイエナ作
戦等が主流のゲームは、江戸時代の将棋の者の家元の、格式を重んじ
る棋士は、付き合い程度にしか、相手にしなかったのではあるまいか。
 だから、実際の七国将棋大会では、徳川家治と戸田内蔵助の妹、
”おくら”が主役で、奥御用を言いつけられた、大橋宗家の棋士等は、
頭数をそろえるために、大会に参加したとしても、たぶん脇役だった
のだろう。
 また、徳川家治自身は、日本将棋よりも七国将棋の方が、徳川氏の
先祖が、国家を統一しようとしている戦国時代の様子に、モデルが似
ているので、七国将棋に立場上、多少深く係わっていたというのが、
実体だったのであろう。結局の所そうすると、こうした

漁夫の利作戦、コバンザメ作戦、ハイエナ作戦といった、ずる賢い
戦術が得意な、独特の棋風をもった、戸田内蔵助の妹”おくら”と
いう、正体の良くわからない女性だけが、本当に七国将棋に、
のめり込んで指した、当時唯一の棋士だった

可能性も簡単には、否定できないように、私には思えるのである。
(2018/06/17)

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