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泰将棋。水無瀬兼成将棋纂図部類抄で延年大将棋と名づけられた訳(長さん)

本ブログでは、25×25升目354枚制の水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄で初出の、”大将棊”を、一貫して将棋六種図式と同じく、
まぎらわしさを避けるため、泰将棋と表記してきた。そもそも本ブ
ログの見解では、泰将棋は、水無瀬兼成自身の作であるため、将棋
纂図部類抄に書かれた

ゲーム名は、作者自身が決めたもの

と、ここでは、解釈(決めてかかって)している。なお作者が特定
できる根拠は、将棋纂図部類抄の行然和尚のまとめ部の、大将棊の
明らかに、原本から、将棋纂図部類抄の編集の間の書き換えと判る、
”後期大将棋から泰将棋への意味の付け替え”のための、駒数
130枚から354枚への改竄である。つまりこれは、

泰将棋発明の依頼主とほぼ断定できる、豊臣秀次の大坂城客間等で、
泰将棋の水無瀬作の将棋具を飾りつけとして使用した際に、施工業
者にも、駒が間違えずに並べられるように、成りの駒種を中将棋ま
でに限ったため

という事である。すなわち水無瀬兼成の、お城への将棋道具の一連
の献上作業の過程で、行然和尚筆文書を改竄すると、水無瀬兼成
にとっては得だったという、固有の”犯行”動機が存在し、

泰将棋の作者が、これによって、みえみえになってしまった

というのが、本ブログの推定であった。なお、泰将棋の玉駒が自在
王なのは、中将棋の成りに変えたための”失敗”を、小手先でつじ
つまを合わせるために、急場手直ししたものである事が、

大将棊畧頌で、玉駒を間違いの”直し忘れ”を水無瀬がしている事

からも、実証できると、更に本ブログでは考える。つまり、余りに
慌てた玉駒変更だったため、大将棊畧頌の方も、玉駒を変えなけれ
ばならないのに、それを忘れたと言う事である。
 では、以上の論が正しいとして、今回の論題は、

こんな後期大将棋と紛らわしい、軽薄なゲーム名を、水無瀬兼成は
なぜわざわざ、苦心の自信作の、25×25升目354枚制将棋に
付与したのか

とする。そこで、何時ものように回等から先に書く。

豊臣秀次が「異制庭訓往来の”多いのは”将棋が、どのようなゲー
ムであるかのが知りたいので、示して見せろ」等と、水無瀬兼成に
依頼したのが、そもそもの、事の始まりだったため

だと、本ブログでは考える。つまり水無瀬兼成の主君の豊臣秀次も、
将棋の歴史の中身に関しては、

当時の学生の初等教科書とされる異制庭訓往来だけは、知っていた

という事になる。
 では、以下に若干の補足説明をする。
 結局の所つまり、泰将棋は、

豊臣秀次の依頼により、
”大将棊”という名になる事が、最初からほぼ決まっていた

と言う見解だという事である。
 こう考えて、矛盾が全く無い事は、水無瀬兼成が将棋纂図部類抄
において、

大将棊畧頌で大将棊を、”延年大将棊”と、更に言い換え、異制庭
訓往来の”多いのは”将棋が、360日という1年の日数にちなん
だ将棋であるという表現と、調子を合わせている事からみて明らか

であると私は考える。
 豊臣秀次は従って、それと名称の紛らわしい後期大将棋に関する
知識は、ほぼ無かったと見てよい。曼殊院の将棋図の後期大将棋は、
少なくとも安土桃山時代に、大阪の街中等では、良く見かけるゲー
ムでは、無かったのだろう。
 中将棋という名称には、殿様も興味が有ったため、後期大将棋か
ら来るものである事を、献上品に15×15升目130枚制の後期
大将棋も加える事によって、水無瀬兼成は、依頼主の豊臣秀次に、
示して見せはした。しかし、そもそも多い将棋とは、一年の日の日
数だけ、駒のある将棋だと、殿様・豊臣秀次は、初等教科書の、
異制庭訓往来等で信じ込んでいたので、水無瀬兼成としても、

泰将棋を大将棊ではなくて、別のゲーム名には、し辛かった

のではないか。そこで、泰将棋のゲーム名は、将棋纂図部類抄では、
大将棊になってしまい、将棋纂図部類抄では、後期大将棋を、
大象戯として、字を少し変えたものの、紛らわしい事には変わり
が無くなってしまったという事なのであろう。

つまり、研究者にとっての都合ではなくて、当時の大富豪の為政者
の考えに、あわせてしまったために、研究者には混乱の置きやすい、
ほぼ同じ名称のゲームが、別種に2種類出来上がってしまった

というのが正体ではないのかと、本ブログでは推定しているという
事である。(2018/06/28)

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