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中国イスラムシャトランジ伝来時代。和名類聚抄に象棋が何故無い(長さん)

表題の和名類聚抄は、今までの私の認識では、中国の五代十国の時代
に、日本で作られた、漢和辞典の類であるとの事だった。しかし、本
ブログでは、将棋史研究家の増川宏一氏とは異なり、この時代、中国
には、中国シャンチーは未成立であるが、イスラムシャトランジは、
北部の王朝、後唐、後晋、後漢、後周等では知られており、宝応将棋
も、南唐、呉越、南漢等では、遊戯具が王室に存在する程度に、公知
だったと考えている。従って、日本の漢和辞典である和名類聚抄に、
イスラムシャトランジと宝応将棋が載って居無い理由を答えない限り、
増川宏一氏の論を否定する根拠は、乏しいと言う事になろう。そこで
今回は、

”中国には、有る程度象棋の類が有るというなら、象棋、将棋等の項
目が、和名類聚抄に全く無い理由”

を論点にしてみたい。
 そこで、最初に本ブログの見解から書く。

イスラムシャトランジおよび、宝応将棋はその当時、中国の術芸と、
中国人に見なされて居無いので、和名類聚抄に書かれなかった

と、本ブログでは考える。
 では、以上の点につき、以下に解説を加える。
 まず、この書は漢和辞典というよりは、中国国内の物品に関する、
百科辞典と、少なくとも本ブログでは見る。この点で”将棋が有った
としても、字引程度なので、将棋の項目は無い”との旨を主張してお
られると私は見る、”持駒使用の謎”の著作等で知られる、

木村義徳氏の意見には、本ブログは全く賛成できない。

本ブログの認識では、少なくとも今に残る、和名類聚抄は、

和漢三才図会や古事類苑と体裁の似た、百科辞典のカテゴリーの書

だと考える。従って、

増川宏一氏の見方、すなわち”和名類聚抄に無ければ、中国にも無い”

と疑うスタンスが、正しいと本ブログでも考える。ただし、今に残る
和名類聚抄は、10世紀の原本に、かなり加筆もされていると私は見
る。例として、術芸部・雑芸類の中に、”意銭”という項目があり、
その中に”徒然草”を紹介する部分が有るが、10世紀に吉田兼好は
生まれて居無い。
 しかし、書の項目のパターンが、この書の10世紀と14世紀頃と
で、大きく変わることは無かったのだろう。この辞書では、字の意味
ではなくて、事物の中身を記載しなければならない項目が、羅列され
ているので、増川氏の見方が正しく、

中国人の事物認識に関する百科辞典とみるべきと、ここでは考える。

 従って、中国の五代十国の時代には、イスラムシャトランジと、
宝応将棋は、中国の術芸であると、中国人に、考えられていないと
するより、辞書に無いのは、説明のしようが無いと私は思う。つま
り、この時代、中国人には、

イスラムシャトランジはたとえば、後周のゲームではなくて、大食人
の旅行者が開封等で指しているのを、良く見かける外国人のゲームで
あり、宝応将棋は、たとえば南唐のゲームではなくて、雲南の貴族国
家のゲームが、南唐王室にも紹介されたものであると見ていた

という事だと考える。なお本ブログにとって都合よく、中国人の術芸
に、これらがならなかったのは、同じく本ブログの見解では、

どちらも、後に成立する中国シャンチーに比べ、甚だしくゲーム性が
劣っていたために、五代十国時代の中国人には、嗜まれなかった

ためだと考えるのである。しかも、本ブログでは、たとえばイスラム
シャトランジがつまらないのが、

車駒のアンバランスな強さのせいである点が、中国人から伝え聞いて、
当時の和名類聚抄を読む、日本の皇族や、同じく日本の上流貴族にも、
知れ渡って、中国と日本とで、ほぼ情報が共有されていた

と考えても居るのである。だから、中国にイスラムシャトランジ等の
将棋ゲームが存在しても、日本の書籍の編者は、正しく”中国人の、
術芸のカテゴリーの事物ではない”と、判断できて、和名類聚抄には
載せないという選択が、10世紀には出来る状況だったと、本ブログ
は考えている。
 次に本ブログの見解でも、現在、中国遊戯史界に於いて、しばしば
主張される、隋王朝以前の北周の武帝の中国シャンチー創造伝説は、
和名類聚抄で消去法で選択すると、サイコロ賭博の類である、”樗蒲”
の類の発明の、誤認だと考える。なぜなら我々に言わせると、この
中国のゲーム史”伝説”が、仮に正しいとすると、他の項目のパター
ンから類推すると、

和名類聚抄には、後の将棋本では定番となった、中国シャンチーの
創始者とその”伝説”が、載って居無いとおかしい

からである。この点でも、本ブログは、増川氏の”インド・マウカリ
のカナウジで二人制チャトランガが、記録された以前といったような、
それほど早くには、中国に象棋の類は無い”との見方に賛成だ。中国
シャンチーは、優秀なゲームだったので、イスラムシャトランジの、
”すばらしく出来のよい後継”という事だけで、実は充分なのだが。

何故か、今でも中国人には”古く無いといけない”という拘りがある

ようだ。そこで、誰かが北宋代に、中国の南北朝時代の北周武帝の
”樗蒲”の類の発明を、中国シャンチーにすり変えると、それが、次々に
コピーされて、中国遊戯史界では定説になったと、本ブログも見る。

イスラムシャトランジと中国シャンチー。最下段がこれほど良く似て
いて、しかも、後者が前者の明らかな”出来のすばらしい改良品”な
のにも係わらず、中国人の遊戯史研究者の中に、その現実から素直に
出発して、論を展開する空気が、今も強いようには見えない事

は、増川氏も彼の著書で、あまりシャンチーは褒めずに”非難”して
いるが、少なくとも不思議な事であるには間違いないと、本ブログで
は見ているのである。(2018/07/21)

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水無瀬兼成は、泰将棋の聖目の打刻をなぜ1升目分間違えたのか(長さん)

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、将棋盤の聖目(星)の表記は、かなり
いいかげんに見える。そもそも、後期大将棋から、大大将棋、それに
摩訶大大将棋の初期配列図まで聖目が、表記されない。では、その
後も全く書かないのかと言えば、そうではなく、摩訶大大将棋の
成りの図で、聖目表記が、突然再開され、自身が作成したと、
本ブログでは目されている、泰将棋には、聖目が書いてある。ところ
が、今回の表題のように、殿様、豊臣秀次に献上されたとみられる、
泰将棋の初期配列の図の

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の泰将棋の聖目打刻位置は、内側に1目
ズレている

のである。そこで今回は、この聖目のズレが、いったい何を意味する
のかを、論題としてみたい。
 最初に、何時ものように回答を書くことにする。

泰将棋はもともと、摩訶大大将棋を手本として作るつもりだった。ので、
出来上がった泰将棋の、仲人位置の内側下に聖目を書くつもりでいた。
ところがたまたま、仲人よりも袖の列を一列多く作ってしまい、その
結果、間違った位置に、水無瀬が聖目を書いてしまった

と、本ブログではみる。泰将棋は、将棋具も将棋図も、豊臣秀次に献
上すると飾られるのが、最初から決まっていたと見られる。だから、
形式や”算数”やゲーマーへの便宜等より、美術品としての、ぱっと
見の見栄えの方が、大切だったのであろう。数えなければ判らない正し
さよりも、摩訶大大将棋と同じパターンであるという、観察者の安心感
の方を、水無瀬が優先したのだろうと見られる。
 では、以下に以上の点について、少し説明を加える。
 前にも書いたが、水無瀬兼成作と、本ブログではみる泰将棋は、
25升目盤に7列づつ、計14列の駒を並べ、4枚の仲人を加えて、
陰暦の日数、354枚制の将棋とする、という仕組みの将棋である。
 従って7段に駒が配列されるので、自陣の標識である聖目は、
7段目の升目の上に打たれる。実際に、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の泰将棋の、初期配列図ではそうなっている。しかし、聖目というのは、
もともと囲碁盤を将棋盤が真似たものとみられ、左右の列についても、
7段打ちなら、左右7筋の内側に打って、盤面に計4つ聖目が来るよう
にするのが普通の打ち方である。つまり泰将棋では、サイコロの
5の目のような位置に、中央に11×11の領域、四隅に7×7の
領域が、聖目によって分割されてでき、前後左右に、11×7と、
7×11の升目領域が出来るというのが、普通の姿である。ところが、
水無瀬が将棋纂図部類抄で、聖目の打刻を、左右で1目、内側に間違え
られた結果、泰将棋の将棋盤を実際に作成すると、

中央に9×11の領域、四隅に8×7のいびつな領域、前後と左右に、
9×7と8×11の領域が出来てしまっている

という事である。これは、聖目を仲人の位置の、内側下に打つ事に、
水無瀬が、さいしょから決めていたためとみられる。仲人を泰将棋の
堅行の前の歩兵の更に前に置くと、聖目は正しく7/7に打てたはず
なのだが。実際には、猛熊の駒の前の前の升目が仲人なため、内側に
聖目がズレてしまったのである。
 もともと水無瀬兼成で無くても、堅行の筋には仲人は置かないので、

仲人は猛熊の筋に、もともと置くつもりだったのであり、たまたま
水無瀬が、猛熊の筋を、実際には端から数えて8筋にしてしまったの
に、7筋にしたと勘違いしただけ

だと見られる。
 数えるとズレている事が判り、ゲーム具としては変なのだが、

ぱっと見では、泰将棋の聖目のパターンが、摩訶大大将棋の盤と、
同じに見える、”美的効果”の方が大切だと考えない限り、こんな
風にはしない

と、私は推定する。なお、それなら猛熊の配列を変えればよかったと
いう意見が出ると思うが、それもその通りだったのだろう。しかし、
袖を、車列は別にして、驢馬、変狸、馬麟の3組と、行駒2つと飛牛
を入れ場が無いため入れたら、猛熊はまたまた8列目に、なってしま
ったのだろう。
 他方もとから、水無瀬は、

仲人やその類の畸犬の位置を、大大将棋に合わせるつもりだった

とみられる。大大将棋で畸犬が、猛熊の前の前の升目に配列されたの
は、大大将棋が摩訶大大将棋より成立が、実際には後であって、

大大将棋は摩訶大大将棋を真似ている例の一つだと、私は思う。

盲熊(摩訶大大将棋)はオリジナルであって、大大将棋の盲猿から
作られたものではないのだろう。恐らく猛熊(大大将棋)の方が、
盲熊(摩訶大大将棋)の真似なのであろう。もともと、大大将棋の
作者は、大大将棋の猛熊を、摩訶大大将棋の盲熊の駒の動かし方
ルールにしていたはずである。その証拠に、

大大将棋の方が、摩訶大大将棋より新しいのがバレると見た水無瀬
兼成が、将棋纂図部類抄には、大大将棋の猛熊の駒の動かし方の
打点を、略して、表示していない

という”証拠”が有るのである。
 しかし、大大将棋の”前に行けない猛または盲熊の前に、仲人
(または畸犬)駒を置くというアイディアを、水無瀬は泰将棋で、
さいしょから真似るつもりだったのだろう。猛熊の前の仲人配列は、
角行を底に沈めてしまうと”無難な選択”だからだ。そのため、

泰将棋でも、大大将棋と同じく、仲人が猛熊の前にある

のだと、私は思う。ところがそうしたら、たまたま猛熊の筋を、
水無瀬が数え間違えてしまい、聖目の打点位置が、たまたま泰将棋
ではズレてしまったようだ。
 以上のような顛末だったのだろう。泰将棋が、作り方の要領も、
余り巧みと言う訳でもなく、またそのように要領の悪い、ぬかるみ
のような開発条件の中で、焦って作られた物である証拠の、一つな
のではあるまいか。
 ちなみに、この”泰将棋の間違った聖目”は、将棋纂図部類抄に
ついては、そのまま写本されつづけた。しかし江戸時代の別の将棋
本である将棋図式では、

こんどは、泰将棋の仲人が、外に一つズレ、堅行の前に間違って
記載された上で、将棋図式では、泰将棋の聖目自身が無くなって
しまう

という混乱が起こった。こうした混乱は、更に後の将棋六種の図式
では避けられたが、この後しばらくは残されたようである。
(2018/07/20)

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”27×27升目366枚制延年泰将棋”類が作成されなかった訳(長さん)

水無瀬兼成作と本ブログでは見る、泰将棋にしても、大橋文書の大局将棋
にしても、盤升目の決め方は、かなり安直である。
 すなわち、以下本ブログの見解だが。
 泰将棋の25升目は、14倍して350に、仲人4枚分を足して、陰暦
12か月の354枚制の将棋を作成しようとしたという意図のものである。
 また、大局将棋の36升目は、10倍して一方が約360枚の駒数の将
棋を作ろうとしてのが、初期の狙いであった。しかし歩兵列を11段目に
持ってきて、犬と仲人を更に12枚入れたので、当初の予定の720枚制
よりも、84枚増えて、804枚制の将棋になったのである。

何れにしても、盤升目の25や36は、一年の日数の将棋を作りやすい
数字に、比較的安直に限定している

とみられる。
 しかし、実際に”延年泰将棋”を、精密かつ宗教信仰に則って作成する
とするのならば、九星術(占い)のイメージに近い、全体が同じ形の9つ
の区画領域になって、聖星が印としてついている、
日本将棋の将棋盤、中将棋の将棋盤、後期大将棋の将棋盤型を真似た、

自陣の指標を兼ねる4つの聖目が、全体を等分に9分割するような盤の上
に、”延年大将棋”を作成するのが、当時なら”筋”

なのではないかと、私には疑われる。
 そこで、実際には水無瀬兼成については少なくとも、そのような3の倍
数升目の盤の駒数一年日数の将棋を、作成しなかった理由について、ここ
では、論題にしてみようと考える。
 まずどうして泰将棋が、一辺升目数が3の倍数の将棋盤を使わなかった
のか、事情についての回答を最初に書く。

泰将棋を作るときに、作成を殿様から、せかされたので、350=25×
14程度のワンパターンしか考える余裕が、水無瀬兼成には無かったから

だと、本ブログは考える。
なお、ここで3の倍数升目で、約360枚制の将棋を作成しやすい升目数
としては、本ブログの見解では、泰将棋の盤より2升目大きな、

27×27升目が、最も良さそうだ

と思える。つまり

27×27升目366枚制程度の延年泰将棋を作成する事と、比較的
ゲームが作りやすい

のである。 根拠はずばり、摩訶大(大)将棋の要領で、ゲームが作れる
からである。具体的には
 366=81×6-2×(9-3)×10
という計算をするのである。なおここで”3”は、摩訶大大将棋で、
歩兵列と奔王列と玉将列には、”隙間”を作らない事に対応している。つ
まり”-2×(9-3)×10”は、袖位置の、駒の無い升目を示す。
ただし、上記の計算では、仲人約4枚分を考慮に入れて居無いから、その
分隙間を、後で増やす微調整が必要がある。以上のようにして、摩訶大大
将棋型の配列を、最初から狙うのである。
 従って、このケースは、3分割した聖目で、自陣の前列をその
まま現すので、歩兵段が9段目、仲人が10段目にいる将棋になる。すな
わち、自陣は9段、中間段が9段であり、81升目づつに聖目で9区画に
分割された、将棋になる。
 では以下に、以上の結論に至る根拠と、その説明をする。
 まず以下に、192枚制の摩訶大(大)将棋を拡張したような、366
枚制の大摩訶大大将棋としての、延年泰将棋の一例を示す。なお、以下の
将棋の駒の動かし方のルールは、一部の例外を除きほかに無ければ、大局
将棋に準じるとする。

27×27升目将棋初期配列(中央より右側。11段目以降”口”のみ。)
口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
奔王鉤摩飛鷲角鷹龍王龍馬角行堅行横行方行堅兵横兵車兵飛車
自在四天教王孔雀口口朱雀口口白虎口口玄武口口青龍口口右車
奔鷲獅鷹法性口口奮迅口口金翅口口大象口口大師口口鵬師砲車
狛犬夜叉口口鳩槃口口羅刹口口金剛口口力士口口白象口口強車
獅子麟鳳悪狼口口飛龍口口猛牛口口盲熊口口嗔猪口口老鼠走車
酔象盲虎猛豹臥龍口口古猿口口蟠蛇口口淮鶏口口猫叉口口奔車
太子近王提婆口口無明口口行鳥口口馬麟口口変狸口口驢馬反車
玉将右将金将銀将銅将鉄将瓦将石将土将火将木将水将桂馬香車
但し
鉤摩は、左を摩羯、右を鉤行とする。
この平駒の自在には、”王”は付かない。自在王の動きだが、とられても
勝敗には関係しないとする。
右車は左側は、左車へ交換する。
右将は左側は、左将へ交換する。
四天は四天王(天竺大将棋)とする。
麟鳳は、左を麒麟、右を鳳凰とする。

27×27升目将棋成り配列(中央より右側。11段目以降”口”のみ。)
口口口口口口口口口口奔人口口口口口口口口口口口口口口口口
金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将
不成金将不成不成不成不成金将金将金将不成車兵水牛四天金将
不成不成不成不成口口神雀口口神虎口口神亀口口神龍口口鉄車
不成不成不成口口不成口口奔翅口口不成口口不成口口不成強車
大象金将口口金将口口金将口口金将口口金将口口象王口口不成
奮迅獅奔奔狼口口龍王口口飛牛口口奔熊口口奔猪口口蝙蝠不成
太子奔虎奔豹奔龍口口山母口口奔蛇口口仙鶴口口奔猫口口金将
不成前旗教王口口法性口口奔鬼口口奔王口口鳩槃口口金将金将
自在右軍奔金奔銀奔銅奔鉄奔瓦奔石奔土大将白象副将金将金将
但し
玉将の成った、自在は、自在王とする。自在王があれば、負けにならない
が、取られて太子も無ければ、負けになる。
獅奔は、左を獅子、右を奔王とする。
車兵の成りの四天は四天王(天竺大将棋)とする。
鉄車は、右側は右鉄車、左側は左鉄車とする。
大将は大将(大局将棋)とする。(空いた升目のみ着地。)
副将は副将(大局将棋)とする。(空いた升目のみ着地。)

以上は、言うまでも無く、27列のはずなのに14列しか書いてないのは

上記は、自陣の中央および、右袖半分の初期配列を示している。つまり、
左側は、右側とほぼ同じなので、長いので省略して書いてあるのである。

 線対称にしたのと、隙間があるのと、並びが摩訶大大将棋風で統一され
ているので、泰将棋より駒数が少し多いが、把握しやすいゲームである。
従って、

25升目制泰将棋に比べて、27升目制大摩訶大大将棋型延年泰将棋は、
作りやすい位なので、敢えてこちらにしない理由はさほど見当たらない

事になる。他方大局将棋は、水無瀬兼成の泰将棋の作成に準じたもので
あると、少なくとも本ブログでは見るから、

水無瀬兼成が25升目に、こだわった理由だけが実質問題

だと、本ブログはみる。大局将棋は、自陣が12升目より1つ足らない
11升目になっており、12升目ごとに聖目のある、3分割将棋盤は、
使用できないので、以上のような論理では作成されて居無い。
 他方、水無瀬兼成が25升目で出発し、作りにくい泰将棋の作成を、
最後まで無理やり通した合理的理由は、余り見当たらないので、

豊臣秀次にせっつかれたので、良く考えずに、格言にそむいて、”急い
だときに回ら”ずに、安直に最初に、25升目に決めてしまったために、
開発ポテンシャルの高い、ゲームデザインを、水無瀬兼成はそのままし
続けてしまった

としか、私には、考えられないように思う。そもそも、

泰将棋が、実際よりも摩訶大大将棋に、より形が近かったとしたら、
”行然和尚のまとめ部”は”延年大将棋”に、よりマッチしていたはず

である。しかし、25×14+4=354で、”延年大将棋”を安直に
焦って作ろうとしたために、

より旨いゲームの作り方を、水無瀬兼成は、取り逃がしてしまった

ように、私には思えた。むろん、日本将棋の将棋盤を9つ組み合わせる
と、延年泰将棋になるという嗜好は、実際の泰将棋よりも、殿様、豊臣
秀次向けの評判も、むしろ良かったはずだったのである。(2018/07/19)

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埼玉県さいたま市の岩槻城から、将棋駒の出土は期待できない理由(長さん)

本ブログで過去何回か、栃木県小山市小山城関連の、小山市神鳥谷曲輪
遺跡の将棋駒を取り上げてきた。小山城周辺には、栃木県宇都宮市の
宇都宮城跡とか、今回取り上げる、埼玉県さいたま市岩槻区(いわつき
く)の岩槻城とか、小山城とほぼ、同じくらいの規模の中世から戦国時
代にかけての城跡が存在する。特に岩槻城については、南北朝時代には、
太田荘自体に、小山氏の支配が及んでいたので、小山城の地域との
関連がやや深い。そこで、今回文献で、戦国時代ではあるが、太田道灌
が築城したと伝えられている、岩槻城について、たとえば戦国時代の、
将棋駒の出土が、期待できるのかどうか、ざっとだが調査してみた。
結果を先に書く。

井戸跡の水分含有が、思川沿いの小山城に比べて、少なくとも現在は、
元荒川沿いの岩槻城の方が、低いのであろうか。木製品が井戸跡から
出土する事があまり無く、将棋駒の出土は、そのために過去例がない

ようであった。以上について、以下少し補足する。
 今回調べた、埼玉県さいたま市岩槻区の岩槻城遺跡の発掘調査報告書
は、以下の通りである。

埼玉県(旧)岩槻市教育委員会(遺跡調査会)、2003年発行。
岩槻城二の丸跡第4地点発掘調査報告書

 上記の遺跡発掘調査によれば、調査地点に井戸跡が6つあり、小山城
関連の、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡同様、井戸跡からカワラケが、
多数出土している。ところが、

炭化した米の塊程度の有機物は出土しているのだが、曲げ物用の板切れ
とか、箸とか、木製の遺物が、6箇所の井戸共に、全く出て居無い

との事であった。木製遺物は、遺物の埋設された場所の水分が、空気を
完全に長期に亘って遮断する程度に無いと、言うまでも無く、その木製
品の遺物は、腐って消失してしまう。残念ながら、

岩槻城の井戸跡は、小山城付近の、地下に思川の水脈が流れている、
神鳥谷曲輪の井戸と異なり、元荒川の護岸工事が、近代にはしっかりと
しているためか、枯れて、木製品が腐ってなくなってしまう環境

にあるようだ。その証拠に、腐らない瀬戸や陶器製の遺物は、小山の
遺跡と、岩槻城の遺跡とで、さぼどの差が無いようである。なお、岩槻
城の年代の方が、小山城よりは下るので、金属製の破片の遺物が、岩槻
城でのみ、出土している。
 ちなみに岩槻城遺跡の発掘は、大規模なものが、2003年までに、
数回行われているとも、上記報告書には書かれている。しかし、将棋駒
の遺物が、一見出そうな岩槻城から、出土したという話は無い。むろん、
地元の特産の、木製品の雛人形の遺物が、城跡から出土するというのは、
論外のようである。ようするに、

木製品は出土しない、遺跡の自然環境

なのであろう。ただし普段は、井戸は2~3mも掘ると、水が出てくる
環境だとも書いてあった。
 何れにしても、東京に向かうにつれて、雨が降っても水が出ないよう
にしてあるだろう。そのため東京都心に近い、有力な城跡である、岩槻
城や河越城等からは、近代には比較的、

将棋駒が出にくい遺跡環境

なのではなかろうかと、調べてみて私は感じ始めたた次第である。
(2018/07/18)

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アルマゲストから惑星動きのイスラムシャトランジ駒ができた事情(長さん)

何回か前だが、イスラムシャトランジが成立する前の、西暦770年~
800年の頃に、アレキサンドリアのプトレマイオス著書のアルマゲスト
が、アッパース朝の王(カリフ)によって、ギリシャ語等からアラビア語
に翻訳され、その影響で、イスラムシャトランジの馬駒が、八方桂馬動き
になる等、惑星の動きを象ったシャトランジが、完成したのではないかと
の旨を、本ブログで述べた。上記の年代は当時、webの情報を参照し
たものであった。その後、イスラム圏の歴史書等を当たったところ、
プトレマイオスのアルマゲストのアラビヤ語への翻訳は、西暦830年
前後と、ややズレている事が判ってきた。そこで、専門成書やwebの
情報を再度調査し、この点に関し、今回正確に調べて見る事にした。
 結論の要旨をまず書くと、次のようになった。

アルマゲストは6世紀には、アラブ社会では、その土地の言語へ訳されて
いた。だから、イスラム社会でアルマゲストが普及したのは、アラビア語
訳が出来たからではなくて、西暦770年~800年の頃のイスラム帝国
アッパース朝のカリフ、3名程度に、何れも重大視されていたからである。

 では、以下に上記の解説を少しする。
 そもそも、本ブログで、イスラムシャトランジを象棋と分類する根拠に
なっている事柄のため、アルマゲストの、イスラム社会への普及が先か、
イスラムシャトランジの成立普及が先かという問題は、大いに重要である。
従って、イスラムシャトランジに、名人が生まれたかなり後で、プトレマ
イオスのアルマゲストが普及して、天文学と象棋が関連付けられるように
なったでは、済まされない。従ってこの点は、正確に確認する必要がある
事項である事は、明らかだった。そこで、以下の成書に当たり、アルマゲ
ストがアラビア語訳された事情について、再度当たってみた。

恒星社発行「アルマゲスト」(プトレマイオス著)薮内清訳。新装版発行
西暦1982年(元々の発行年:1958年)

 この著書の、日本語訳者の薮内氏の解説によると、
アルマゲストは、元々古典シリア語へギリシャ語等、元言語から6世紀に
は早くも翻訳され、

西暦830年頃に、口語でイスラム圏では話されなくなった、
古典シリア語からアラビア語へ再翻訳された

となっていた。つまり、イスラム教が普及した頃、言語がイスラム帝国で
は、キリスト教の祭礼にしか、以後使われなくなった古典シリア語から、
アラビア語に変わったので、

アルマゲストの重大性を知っていたカリフにより、古典シリア語から
普及のために、イスラム社会の標準言語であるアラビア語に、西暦830
年頃に再翻訳された

と事情のようであった。つまり、

言語に詳しいアラブの専門家なら、西暦770年時点でも、アルマゲスト
は、読んで理解できたという事

である。
 そもそも、プトレマイオスのアルマゲストは、2世紀に現エジプトの
アレキサンドリア付近で著作されたものなので、

インドのマウリアのカナウジで、西暦650年頃、二人制チャトランガが
発生したのよりも、ずっと古い

のである。しかし、当時はギリシャ・ローマ世界でしか、アルマゲストの
惑星運動理論等は普及していなかった。西暦550年頃に、やっとアラブ
世界に達したが、

そこで普及したのは、更に、それよりだいぶん後のイスラムアッパース朝
の西暦770~800年頃の王(カリフ)の努力のおかげだった

という事のようであった。つまり、翻訳の時点を、アルマゲストの普及と
見るのではなく、

2世紀に成立したアルマゲストの内容は、8世紀の終わりごろに、イスラ
ム社会に、アッパース朝の王(カリフ)達の掛け声で広がった

と、表現するのが正しそうだ。
 なお一旦、アルマゲストが西暦770年頃に、アラブ社会で注目され出
すと、これと、イスラムシャトランジの駒との関連については、ここから
シルクロードを通って、中国・唐王朝後期には、イスラムシャトランジの
ルールを記載した、”象経の類”として、西暦840年頃までには知られ
るようになったとみられる。つまり、それまでのアルマゲストの普及の
停滞に比べると、その優秀性に関する認識のグローバル化は、いったん始
まると、かなり早かったのだろう。
 一方中国では、西暦570前後に独立に、中国の南北朝時代の北周の
武帝が、”象経”を著作したとされる。日本の東洋学者で元北海道大学大
学の伊東倫厚氏が、その書を賞賛した内容や賦等を精査し、南北朝時代の
北周の武帝が作り出したゲームは、中国シャンチー等では無いと、結論し
ているらしい。
 前に高見友幸氏の摩訶大将棋のブログでも、「象経」(一巻・周武帝撰)
の内容の議論に、私も加わった事があった。イントロ部分しか、記録が残っ
ておらず、二中歴の記載をイメージすると、ゲーム本とは、凡そ似て居無
いものだったと記憶する。
 強いて言うなら、新猿楽記のような、書きっぷりであるようにも見え、

ゲーム本に入れるとすれば、強い棋士やゲーマーを紹介した内容が、本編

のようにも、私には思えた。なお、増川宏一氏はこれを天文書、幸田露伴
は、シャンチー以外のゲーム本と見ているという紹介内容が、伊東倫厚氏
の研究も合わせて、木村義徳氏の、「持駒使用の謎」には出ている。
 何れにしても、北周武帝の”象経”は、少なくとも私には内容不明だが。
象棋だか天文学だか良くわからない史料として、”チェスの歴史”の著者
のマレーの時代から、問題になっている類の中国の唐代等の文献は、少な
くとも、宝応将棋時代の晩唐期の物については、イスラムシャトランジ等
の、象棋・将棋類を牛僧儒等に見習って着目し、惑星の動きと、象棋ゲー
ム類(主にイスラムシャトランジ)の駒の動きを、唐国内に居たイスラム
大食人旅行者等のように、中国人が関連付けたという、カテゴリーのもの
なのだろうと、本ブログでは考えているという事になる。(2018/07/17)

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栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡北端八号井戸の南東10m出土墨書瓦(長さん)

表題のように、前に本ブログで報告した、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の
北の端の方の土壙(つちあな)から、墨書瓦が出土しているとの記載が、

神鳥谷曲輪遺跡の調査Ⅰ(第2分冊)にのみ記載されている。

なお、神鳥谷曲輪遺跡の調査Ⅰ(第1分冊)は、より配布数が多いが、
こちらには、今回問題にする墨書瓦の事は、

全く書いていない。

この墨書瓦が重要なのは、この墨書瓦の地点から北西10mの、同じく
発掘地帯の北端の8号井戸から出土した、摩訶大将棋用?の駒、
裏一文字金角行駒同様、

文字が書いてあるという点である。

その他、道路遺構の各地点から、墨書瓦がこれとは別に3枚出土している
と、神鳥谷曲輪遺跡の調査Ⅰ(第1~2分冊)に書いてあるが、この3枚
については、絵かまたは、少なくとも私には、読めない文字である。
 それに対して、今回問題にする、第12番の土壙(つちあな)からは、

”宮内”と、明確に読める字のある、墨書瓦が出土

していると、最近入手したばかりの第二分冊で、私は読んだのである。
 そこで今回は、さっそく、この事が何を意味するのかを、論題とする。
 最初に結論を書くと、

神鳥谷曲輪遺跡の発掘地点のうち建築物3~4軒跡の北側から、天満宮か
らみの宝物(のうち、価値が低くて盗難される事も無かった物品)が出土

していると、少なくとも本ブログの見解では考える。つまり、元々

南北朝時代の遺物であるにはあるが、室町時代~江戸時代まで、”宝物”
として、天満宮や、小山市の廃尼寺ないし、男寺の青蓮寺で保存されて
いた物品が存在する

と見られると言う事である。
 では以上について、以下にもう少し詳しく述べる。
 第12番の土壙(つちあな)から発掘された墨書瓦の”宮内”の文字は、
ずはりその地点が、近世ごろには近く(北西40~50m)の

天満宮の敷地内である事の証拠

だと私は思う。理由は個人的に、埼玉県越谷市の新方地区、越谷市大松に
ある、戦国時代には館跡だった寺として現在も存続している、”清浄院”
という寺の道路脇に、無造作に露出して、

”堀内”と書かれた、墨書瓦が転がっていたのを、2017年暮れ頃に、
私は目撃しているから

である。なお、この遺物は拾わずに、私はやり過ごしたが、後日行ってみ
ると、片付けられていた。つまりこの清浄院の”堀内”瓦は、城の堀の中
にある建物用の瓦である事を、中近世に示した瓦なのだが、

人通りがさほど無い場所なので、ごく最近までも地表に、たまたま転がっ
て放置されていただけ

なのだと私は思う。栃木県小山市神鳥谷曲輪の場合は市街地なため、土に
埋もれて居無いと、そこがどのような施設の敷地内なのかを示す、中近世
の墨書瓦が、単に今では、簡単には見つからなくなっただけ、なのではな
いだろうか。
 他方、この墨書瓦が発掘された場所から2~3m南から、中世の小山氏
の館跡とされた、3~4軒の建築物の堀立て柱建物跡の領域となる。

恐らく、小山義政の乱以降は、これらの建物は取り壊されて、一帯は荒れ
た場所となり、それより北の、現小山パレスホテル付近の、現天満宮の日
光街道を挟んで反対側(東側)が、小山市の青蓮寺になった

のではあるまいか。そして、たまたま明治の廃仏運動で、青蓮寺が完全に
廃寺になると、

宝物が、寺の南側でかつ、神鳥谷曲輪遺跡発掘現場の北端に当たる、
”8号井戸”等に廃棄されたあと、井戸が井戸跡になってしまった

のだと、私は考える。こう考えると、8号井戸跡から、瓶だの将棋駒だの、
女性用の下駄だの櫛だの、壊れて居無い曲げ物だの、ほかの地点では、余
り出土しない、”安物の宝物”のような物品が、集中して出土(捨てられ
ている)のが、旨く説明できるような気がするのである。なお、8号井戸
に近接して、10号井戸と11号井戸があるが、10号井戸からは8号井
戸同様、女性の化粧用かと見られる櫛の破片3本が、11号井戸からは、
江戸時代のような平和時に、寺に置いてあるのが、ふさわしいとも思える、
鋤や盆栽のカスが出土している。
 これら、8号井戸、10号井戸、11号井戸出土の物品のうち”平和時
代のもの”の出土理由が、墨書瓦の文字、”宮内”を、天満宮か、その
神社の親分であった、小山市の青蓮寺(廃寺)の境内内の印と解釈すると、
ぴたりと説明できると言うわけである。
 なお、8号井戸の下駄について、神鳥谷曲輪遺跡の調査Ⅰ(第1分冊)
には何も書いていなかったが、神鳥谷曲輪遺跡の調査Ⅰ(第2分冊)には、

履物としての寸法が、”括弧23.4センチ”と載っていた。

だいたい23センチだから、おおかた”小山よし姫(小山芳姫)の下駄”
でも象っているのではないかと、私は個人的には、前々から思っていたの
だが。”大人の女性の履物”でどうやら、見立てに狂いが無さそうだった。

神鳥谷曲輪駒.gif

 また将棋駒の赤外線写真も、第2分冊の方にだけ、載っていた。肉眼で
私が見たイメージと、ほぼ同じ感じだと思えたが、さすがにコントラスト
が付いて、字が読みやすい写真になるものだと、赤外線写真の威力に私は、
痛く感心させられた。(2018/07/16)

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小山評定跡(市役所)の発掘作業の様子見をした(長さん)

前回述べたように、現在栃木県小山市では、市役所の立替え予定地
の、遺跡発掘調査をしている。小山市には、いわゆる小山城と言わ
れる小山市の祇園城、および神鳥谷曲輪遺跡という、有力な遺跡が
あり、市役所の場所は、やや小山城寄りの、中間地点にある。神鳥
谷曲輪遺跡は、鎌倉時代後期から南北朝時代の遺跡であり、特に、
西暦1349年?~1382年に存命し、小山氏の頭領であった、
小山義政の名を冠した館の記録が古文書にある。そしてそこからは、
今の所、摩訶大将棋の駒としか同定されない、裏一文字金角行駒が
出土しているという訳である。また、小山城の方は、鎌倉時代から、
江戸時代初期まで存在した城と考えられている。従って、新市役所
の建設現場は、鎌倉時代から、江戸時代にかけての遺物の出土が、
かなりの確率で期待できるとみられる。なお元々、新市役所の建設
現場は、安土桃山時代最末期の史料から、徳川家康の小山評定の地
との説も有力で、史跡として、この点を栃木県小山市が、従来より
アピールしている所でもある。
 以上の理由で、前に述べたように、この”小山評定跡(市役所)”
遺跡の発掘現場の様子を、今回見て見る事にした。なお、小山評定
跡の説には、この他”小山評定跡(須賀神社境内)”説がある。ど
ちらにも、立て札が立っているらしいが、栃木県小山市の市役所前
の、”小山評定跡”の立て札は、以下の写真のような感じである。

小山評定跡.gif

 奥に見えるのが、現在の小山市の市役所で、新市役所は、この写
真から見ると、右手の奥に建設される予定である。遺跡の発掘現場
には、下の写真のような看板が立ててあり、回りは現在柵で囲われ
ていて、発掘現場への立ち入りは、困難なようであった。

小山評定工事.gif

 なお、立て看板には”休工中”のレッテルが張ってあるが、剥が
し忘れであり、実際には工事が現在進行している。また、小山市の
ホームページには、”ボーリング調査”の文字が見えるが、これと、
遺跡発掘とは無関係なようである。ボーリング調査の方は、地盤に
関して、高層建築物の耐震性に、問題が無いかどうかのチェックと
みられる。
 さて、今回は発掘現場の周りを2回ほど巡回して、何か出土して
いる感じかどうかを、見てみた。その結果、現在の所、表土を取り
去り終わった所であって、何かあるかどうかの調査は、これからだ
という所であった。以下に、現場の様子の写真を示す。

小山評定発掘.gif

写真は、柵の高さが低い、国道四号(日光街道)側から、撮影した
ものである。50cm程度掘り進んだ所だろうか。近代の客土を剥
がして、元々の地面の所まで行ったという感じである。ゴミを撤去
した後だろうか。表面に何も遺物は無い。ちなみに、写真の向こう
側の建物が、”小山評定跡の写真”と同じく現在の市役所である。
 客土部分の土砂は、撤去せずに、南側に3m位の高さまで、野積
みにされていた。何か無いかどうか、念のためにそこも、柵の外か
ら、私は遠巻きに観察してみた。

大型の”瓦の破片”のようなものが1個、山の表面に見えた。

しかしながら、その瓦には塩化ビニールのような色の付着物があり、

明らかに近代の粗大ゴミのよう

であった。他には、目ぼしい物は、やはり見当たらなかった。
 小山市の市役所内に、教育委員会が入っているので、念のために
”粗大な遺物の出土が、目撃されていないかどうか”だけ聞いてみ
た。そういう話は、今の所余り無いようだった。
 教えてもらった礼も兼ねて、神鳥谷曲輪遺跡発掘調査報告Ⅰの
第二分冊を600円にて購入した。というよりも、予備で置いてあ
ったのを、私が無理やり、横取りした。ちなみに、神鳥谷曲輪遺跡
発掘調査報告Ⅰの第一分冊は既に、だいぶん前に私は入手済みであ
る。本ブログの将棋駒の遺物に関する情報は、実物を私自身が2度
目視もしているが、第一分冊の情報も参考に、ここでは書いている。
 なお私は知らなかったが、神鳥谷曲輪遺跡からは、上で少し述べ
た瓦類に文字が書いてある、いわゆる”墨書瓦”が、2枚ほど出土
している事が判った。小山評定跡(市役所)の発掘は、成果がまだ
のようなので、次回以降には、この神鳥谷曲輪の”墨書瓦”につい
てを中心に、神鳥谷曲輪遺跡発掘調査報告Ⅰ第二分冊の内容の紹介
を、少ししてみたいと考える。(2018/07/15)

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栃木県小山市の小山市役所前で、遺跡の発掘調査中との情報(長さん)

しばらく前から、栃木県小山市のホームページに有ったようだが、
表題の、小山城遺跡の発掘調査が、現在行われているらしい。
すなわち、栃木県小山市のホームページで、綜合政策部総合政策課
のページによると、第1期6月23日(土曜日)から8月中旬
(予定)、 第2期8月下旬から11月下旬(予定)で、
小山市市役所前の日光街道に面した空地付近で、小山市市役所の立替
に伴う、遺跡の発掘調査等をしているとの事らしい。
 もともと小山市市役所は、小山市の小山城群の、小山城(祇園城)
の南端のやや東側に位置しており、江戸時代草創期には、徳川家康が、
小山評定を行った地点ないし、それに近い場所にある。なお、小山
評定の当日、数万の軍勢を相手に、徳川家康が、どのようなパフォー
マンスを行うために、軍勢の間を、どう歩行したのかについては、
少なくとも私には明らかでない。そのパフォーマンスの際、徳川家康
が、いわゆる、小山市市役所近傍の”小山評定跡”を、通過した
可能性は、かなり高いのかもしれない。
 何れにしても発掘地点は、本ブログの注目している、将棋駒(裏一
文字金角行駒)の出土地点からは、北へ1km程度の近所である。
小山市役所前の小山評定跡は、祇園城と神鳥谷遺跡に挟まれ、後二者
の両地点からは、それぞれ過去遺物が多く出土している。従って現在
の市役所の建設の際に、遺跡が荒らされて居無い限り、更に遺物が
出土する事は、充分に期待できる場所である。近々、手の空いたと
きに、私も様子を見に行きたいと考えている。(2018/07/14)

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西洋チェスのクィーンは、日本の将棋の奔王起源なのか(長さん)

本ブログで、太子成り酔象のティムールチェス起源を、後先が逆と
本ブログで否定した時に、コメントとして匿名で”大阪電気通信
大学の高見友幸氏が、今回の表題の説を、学会で発表している”
との情報提供があった。
 発表に際して、奔王がチェスクィーンを形成させたとの旨、書
かれた元になる高見氏の原稿等を、私はまだ入手していない。が、
とにかく、この、

高見友幸氏がオリジナルである、チェスクィーンの奔王起源説

が正しいのかどうかを、今回は論題としてみたい。結論を書くと、

Yes.であると、本ブログは考える。

ただし、女王自体の駒名は、奔王の変形ではなくて、大臣の欧州
各国語が、女王に訛ったためと、

駒名の起源については、本ブログでも定説のままにしておく。

つまり、

女王の動かし方のルールとして、15世紀末に、チェスのデザイ
ナーが、奔王の駒を、ティムールチェス経由で知って、結果として
日本の奔王のルールを、女王のルールとして真似る事になった

と高見氏見解の、たぶんその通りに本ブログでもみる。なお、ティ
ムールチェスの奔王駒の、当時の正しい名称は、多分記録が残っ
て居無いと、私は見ている。
 では、以下に、上記の結論に至る経過を、少し説明する。
 一番の根拠は、本ブログの見解でさえも、奔王の成立が、

西暦1250年代と、西洋チェスのクイーンの成立に比べて、
軽く200年は早い

という事である。名称で”クィーン”が初めて出てくるのは、
wikipediaによれば、西暦1250年~1300年と言
う。繰り返すが、クィーンは、副官駒”大臣”の、欧州各国語音
が、訛ったものであるという事である。そもそもわが国には、
奔王以前に西暦1200年には既に奔車があるし、西暦1230
年前後のものと本ブログでは見る、奔横駒も出土している。ので、

日本の奔王の動きの発明が、西洋の女王という名称の駒の発明に
さえ、やや先立つ事は、かなり尤もらしい事

だとみられる。
 なお、チェス史に関する定説では、今の所、この時点で女王は、
猫叉の動きであって、奔王の動きでは無いとされているらしい。
何時から奔王の動きになったかだが、増川宏一氏の西洋チェス
の歴史に関する認識では、

西暦1475年~1500年頃に、最初の文献が現われる

と見られていると私は聞く。これは、ティムールチェスの幾つかの
バージョンが指されたとみられる、西暦1400年~1450年
よりも、やや遅い。従って、ティムールチェスのバリエーションの
一つにあるとされる、

名称は私には少なくとも判らない、奔王のルールの駒を、名称が
女王を連想する等、何かあったのかもしれないが、西洋チェスの
デザイナーが、クィーンの動きに、15世紀末に取り入れた

と考えるのが、一応自然だと私も思う。
 他方、前に本ブログで見解を述べたが、

ティチムールチェスへは、各国のチェス・象棋・将棋型ゲームの駒が、
ティムール帝国の情報収集力により、ほとんど全て取り入れられた

と推定される。つまり、上記のティムールチェスの特定変形ゲーム
に存在した、奔王動きの駒は、そのような駒が、日本の大将棋系
以外には、余り見当たらないという状況から見て、チムール帝国
が日本の

奔王のルール情報を収集した後に、それを真似たものである

疑いが、結構有るという事だろう。
 以上のように推定してゆくと、

高見友幸氏が考える通りである

と、今の所、結論される可能性が、かなり高いのではないか。
 最近、高見ブログの”摩訶大将棋”は、夏休みなのか止まって
いる。実際本ブログにも、関係者が余り訪れ無くなったとの心象
だが、遅くとも季節が良くなったら、高見研究室の摩訶大将棋の
研究の再開と、更なる進展には、大いに期待したいと私は考えて
いる。(2018/07/13)

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埼玉県加須市根古屋の戦国時代金将駒出土の”騎西城”跡の調査(長さん)

たぶん、埼玉県では唯一の、五角形将棋駒出土の戦国時代の遺跡、
埼玉県加須市根古屋の騎西城周辺を最近調査した。成書・天童の
将棋駒と全国遺跡出土駒によると、今回調査した城から、朱書きと
みられる、(恐らく裏は無地の)金将駒が、一枚だけ出土している。
形から、一乗谷朝倉氏遺跡の出土駒の時代と同じく、戦国時代程度
のもののように、私には見える。
 埼玉県の木製出土駒は比較的珍しく、恐らく現在でも、ここ一箇
所だけなのではないかと疑われる。場所は、東武伊勢崎線の加須駅
から、南に2.5km程度の田園地帯で、近代になり、近世型の城
のモニュメントが、史料展示館として建設されている。ここは、公
園の中や、webの写真から受ける、”小観光地”ではなくて、加
須市の施設に城のモニュメントも有るという場所である。遺跡につ
いて現地の大型の立看板では、以下の写真のように説明されている。

騎西城看板.gif

 将棋駒が出土しているが、木製出土品として一ククリにされてい
て、この看板には詳細な説明は無い。史料展示館は11月にならな
いと、史料展示館は御開帳(?)されないようなので、レプリカも
含めて、将棋の駒がここに、現在陳列されているかどうかは、私に
は不明である。
 恐らく、騎西町自体が、平成の大合併で消滅してしまったので、
将棋駒出土の珍しさをアピールする者も、今や誰も居無いのだろう。

残念なことである。

 なお立看板の左上の黄色い枠で私が囲んだ部分は、拡大すると、
下のように書いてある。この城の本物は、西の端に、本丸が有った
ようである。

騎西城本丸.gif

本丸から、将棋の駒が出たのかどうかは、私は確認していない。が、
ともかく、この一帯の何処かの井戸か、遺構の底に有ったのであろ
う。実際に、”本丸”の所に行ってみると、下の写真のように、手
前南側が空き地、北側がタンボであった。本丸跡には、16世紀の
城の痕跡自体が、少なくとも地表には全く無い。

騎西城田圃.gif

 また、東側にも二の丸、三の丸と続いて、大手門があったという
ので行ってみた。住宅地と、小さな目新しい神社があっただけだっ
た。
 ここで唯一の中世の城の、本物の残存物は、下の写真のように、
最後にかろうじて残った、土塁の小山一つである。

騎西城土塁.gif

これだけ見せられて、城跡だと気がつく方は、城に詳しい専門家だ
けだろうと、私には思えた。この土塁は、私には古墳の跡のように
も見えたからだ。
 なお、この写真の木のカゲに、昭和の時代の建てられた、近世の
城を象った”遺跡史料館”の、モニュメント建造物のハコモノが見
えている。このモニュメントは、web上では、特に目立つ紹介物
だが、本ブログでは、この程度の扱いにしておこう。最初の立て看
板の記載からの心象では、この埼玉の遺跡もかつて、一乗谷朝倉氏
遺跡に似た、戦国時代の城砦都市の一つだったように、現地に行き、
私にはイメージされた。残念ながら、より古い時代の将棋駒が、更
に出そうな場所という感じは、特にしなかった。戦国時代の駒なら、
まだ近くの古井戸跡に、残されているのかもしれないと思われる。
(2018/07/12)

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