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五代十国時代後期。十国で大理原始平安小将棋が指されなかった訳(長さん)

本ブログでは、平安小将棋の元になるゲームは、宝応将棋であり、
既に晩唐時代の、雲南の南詔国に、日本の小将棋の元は存在した
との立場を取る。そもそも宝応将棋は、洛陽の唐王朝の重臣、
”牛僧儒が玄怪録で記載したもの”と、されている訳である。
よってこの事は、平安時代の早い時期から、本ブログの論の通り
なら、

唐王朝内では、後の日本の小将棋の元ゲームは、知る人ぞ知る

だったという事になる。華北に首都のあった唐王朝で、晩唐時代
に、オープンにされたゲームであった、わけであるから、より地
理的距離の近い、中国の華南で、五代十国時代の何れかの諸侯に、
雲南の将棋は全く

知られて居無いという事は、有り得無いのではないか

とも考えられる。そこで五代十国で、華南に中心のあった十国の
中のどこかの国に、後の日本の将棋が、予めゆっくりと浸透し、

雲南→華南→日本という経路で、華南から日本の将棋が、ゲーム
プレーヤー勢力の東進によって、西暦950年頃、史料の初出の
矛盾を回避できる、ぎりぎりの早さで、伝来する可能性は、本当
に無いのだろうか

という、疑問が沸いて来るようにも思える。そこで今回は、その
点を論題にする。すなわち今回は表題のように、日本の将棋の
本ブログの主張の、直接雲南からの運搬説より、中国経由説に、
より中身が近い、日本への原始的将棋の

中国華南への浸透後の東進渡航説

について、是非を考える事を論題としてみた。
 そこで、いつものように結論を先に書くことにする。
中国の五代十国時代に、雲南に地理的に近い、十国の少なくとも
一つで、大理国原始平安小将棋が盛んに指される可能性は、ほぼ

無い

と本ブログでは考える。そのため、一旦華南に、後の日本の将棋
が土着してから、東進して日本に広がる可能性は、まず無いだろ
うというのが、本ブログの見解である。また、そう考えられる理
由も先に書く。なぜなら、

五代十国の十国の支配者は、根本的に”唐代の節度使”の継続だっ
たため、雲南大理国文化への同化は、意識的に避けただろう

とみられると、本ブログでは推定するのである。
 では、以上の見解について、少し解説してみる。
 五代十国時代は、中国史では数十年の短さである。後の開封付
近では5つの国が、平均10年程度の寿命で交代した。それに対
して、地方では北宋に征服されるまで、数十年、もった国があっ
たようである。華南には、特にそうした国が多く、南唐、呉越等、
これらは、何れも節度使という、日本の武家に、宋代の支配者層、
士大夫に比べてより近い階層の、武族集団が牛耳った国だったと
されている。よって将棋を指す勢力としては、むしろ、北宋期の
華南の士大夫よりも、可能性が高い人種であるように、私には予
想はされる。
 特に、中国の歴史書には、少し内陸の南唐の王侯貴族が、贅沢
三昧な生活をしていたと、たいてい紹介されている。従って、
たとえば、

南唐の宮廷には、黄金の大理国原始平安小将棋の道具が、存在し
ていたとしても、特におかしくない

と、私は思う。
 しかし、中国の史書を読んでもそうだし、頭の中で思考しても
判る事だが、たとえば

南唐の王侯貴族が、大理国の王のスタイルを、熱心に部下の前で
真似て見せるとは考えにくい

事である。なぜなら、

中国のその当時の、北宋時代の中心部の領有者、後周国等に、南
唐は、取って代わる気が、そもそも無いのか

と皆から、南唐政権が見られてしまうからである。せいぜい南宋
のように、中国南部を支配する国家で終わるか、雲南の覇者にな
る事を、南唐は狙っているのではないかと、余りに王侯貴族が、
熱心に、大理国のスタイルを真似たならば、皆に勘ぐられてしま
うことだろう。そのため、実際にもそうだったようようだが、
南唐に限らず

五代十国の十国の王は、古の唐代の宮廷を模倣していたと、これ
も、五代十国時代を記載した、中国の歴史成書には書いてある

と、私は確認している。つまり、

南唐国、呉越国といった、日本と比較的、渡航距離の近い地方国
家には、宮廷に大理国原始平安小将棋の道具が、たとえ陳列され
ていたとしても、それは単なる飾りにすぎず、熱心にそれらの国
の王や重臣が、それでゲームをしているというイメージを、かも
し出すことは無かった

のではないかと、私は考えるのである。だからそのゲーム機具を
見て、たとえば経帙牌で、原始平安小将棋の将棋字駒を作る、
中国禅僧が稀に居たとしても、

それは、極レアー

であったと私は予想する。つまり、その簡易的な将棋具が、更に
日本に伝来する可能性は、極めてわずかな枚数しか無いため、
ほぼ無いのではないかと、私は考えるのである。つまり、その

国の大金持ちが財に任せて、豪華に楽しんでいる訳でもない、レ
アなゲームの駒の字を、木札に写してプレーすると、やがて何ら
かのご利益があるという訳でも無いのに、下級の僧等や、下級士
官が、はたしてそれを熱心にするのかどうか

と言う事である。
 従って、後々中国中原の支配者化を狙っている、中国五代十国
の何れかを経由して、大理国の将棋が日本に、じわじわという経
路で、10世紀後半に伝来するケースは、当時のゲームの、ゲー
ム性の低さを考えて見ても、ほぼありえないのではないだろうか。
 そして華南の、中国の日本からの玄関口の港付近では、北宋に
より、これらの華南の十国の類が滅ぼされると、その後は、科挙
の試験で、都開封の中央政界入りを狙う、士大夫の時代になって
しまった。そのため、中央政界からはより遠い、雲南大理国の
ゲームは、10世紀の五代十国の時代よりも、11世紀には、
さらにそこでは、プレーされなくなっただろう。
 従って結論は上の通りとなり、やはり、日本に伝来した将棋は、
孔雀同様、藤原貴族等がお気に入りの、唐物の珍獣、珍鳥、珍品
の類の、雲南の山奥にしか無い、知る人ぞ知るレア物の、世界の
文物を良く知る、交易商人紹介の一品だったように、私には予想
されるのである。
 つまり、これが日本でだけ流行ったのは、そもそも開封の政権
になる気が、日本の朝廷には、五代十国の、十国の王と違い、少
なくとも平安時代には、特に無かった。そのため、日本の朝廷に
は、当時の、仏教の盛んな大理国スタイルを真似る事に関して、
抵抗する要因が、特に無かったために、自国に元から有る、ナショ
ナルゲームであるかのような扱いも、概ね可能だったと言えるの
ではないかと、私は考えるという訳である。(2018/07/01)

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