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西暦1260年型大将棋で角行/飛龍のルール衝突をどう工夫した(長さん)

前に、平安大将棋の飛龍の動きについて、二中歴の記載を、角行の動
き以外で解釈し、ただし2升目先跳び越えとは解釈しないような動き
を考える事の是非について、確か論じた事があった。答えは、最初だ
け跳び越せ、そのあと走るのではないかという、定説との折衷案を出
した事が有ったと思う。今回は、西暦1230年型大将棋から、西暦
1260年型大将棋に移るときに、角行が導入されたとここでは見る
が、平安大将棋のままだと、飛龍のルールと角行が同じになるのを、
何とかしようとしなかったのか。角行道入者は、何故平気で、飛龍と
同じ駒の動かし方になってしまう角行を、1260年型には導入した
のかを、再度考えてみる事にしたい。
 なお、西暦1230年型の大将棋と、西暦1260年型の大将棋は、
ここでは、それぞれ次のように仮定されている。

西暦1230年型大将棋

口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車飛龍口口口口口口口口奔横口口口口口口口口飛龍飛車
反車口口口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口口口反車*
香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

*飛車の発明より間もなくであろうが、奔車が何時、反車になったの
か、正確な時期は謎である。
成りは、銀将~香車と反車、歩兵と注人が金将に成ったと見られる。
残りは不成りと考えられる。

西暦1260年型大将棋

口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
反車飛龍口口口口猛虎口口酔象口口猛虎口口口口飛龍反車
香車桂馬鉄将銅将銀将金将王将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

ただし”王将”は、奔横から奔王への名称変更の直前に、玉将/王将
1:1型になったと考える。
成りは、不明な点が多い。酔象は太子に成ったはずだが、この時代も、
銀将~香車と反車、歩兵と仲人が金将に成ったかどうかは不明である。
全体として、不成り駒がやや増加傾向であったように、ここでは見る。

 そこで以下、いつものように最初に結論から書く。その後私は、
いろいろ考えてみたが、次の考えが、最も座りが良いように思えた。

二中歴に記載されている、”飛龍・・行四隅超越”以外の表現で、
飛龍のルールが記載された事は一度も無かった。そこで西暦1260
年型大将棋の作者は、角行のルールについて”角行行四角不伝多少”
と決めた上で、飛龍の方の四隅超越を、”飛龍は走りであるが、1~
2升目に止まれないと同時に、その升目は空いて無いと、3升目以上
へは行けない。”と解釈しようとした。が結局、西暦1260年型
大将棋では、飛龍自体が、余り使われない、”奥の位置に押し込めら
れた駒”だったため、後世に、その考え自体が残らず、うやむや化
された

と結論した。では以上について、ここではもう少し詳しく説明する。
 西暦1200年頃の二中歴の、飛龍のルールである
”飛龍・・行四隅超越”は、西暦1260年時点では、升目数に係わ
らずに走れるに近い意味である事が、まだ読解できたと考えられる。
本ブログでは、

走りの動きだが、遠くへ行ってしまうの意味が元々だろう

と、考えているのである。西暦1260年型大将棋の製作者は、
二中歴大将棋へ、新規の駒を埋め込む方式で、西暦1260年型の
大将棋を作成しているわけだから、よりどころになる、飛龍の動きに
関するルールは、二中歴の大将棋の記載と、同じ物だけのはずである。
 だから、西暦1260年型の大将棋の作者が、飛龍と角行の動きが
類似になった事に関して、何とかしようとしたとすれば、”飛龍・・
行四隅超越”と”角行行四角不伝多少”とが、別の意味になるように、
文字解釈する以外に、方法は無いと考えられる。その方法は限られて
おり、

角行は升目の数が少なくても斜めに動けるが、飛龍は、遠くへ行くケー
スしか許されないと、やや無理に解釈する以外に方法が無い

ように、私には思えた。そこで、西暦1260年型の大将棋の、2段
目の配列を見ると、飛龍のほかに、酔象と猛虎が有る。本ブログでは、
猛虎は、斜めの隣接升目にのみ行ける小駒、そして、

酔象(西暦1260年~1290年型)は、中国シャンチーの象/相
と全く同じ動き

と見ている。つまり、猛虎は走りで1升目限定の物、酔象は走りで、
塞象眼が有り、2升目限定のものである。従って、同一段に並んでい
る飛龍は、西暦1260年型の大将棋に関しては、

飛龍は走りで3升目以上に行ける升目が限定され、1~2升目は空い
ていないと動けないが、止まれない升目

と切り分ければ、格好が付くことが分かる。以上のように考える事に
して、角行と飛龍のルールのバッティングは、当初回避しようとする
しか無いように、私には思えた。ところがそうすると、西暦1260
年型大将棋の初期配列を、良く見てもらうとわかるのだが、

飛龍は初期位置が、仲人下の、余り動かされる可能性の無い歩兵で、
この大将棋では、動きが抑えられてしまっている事が判る

のである。なお、隣接升目で止まれないので、飛龍は、このルールで
は鉄将や飛車の位置に、移動して走りの筋を変える事も出来ない。
 そのため、西暦1260年~90年型の大将棋では、飛龍はほとん
ど動かされないまま、終局になってしまう大将棋ばかりが、指される
ようになったと考えられる。結果として、飛龍を使う将棋を指す棋士
が、ほとんど居なかったために、

しばらくすると、飛龍と角行の駒の動かし方ルールが近いという問題
自体が、忘れ去られてしまい、初期のデザイナーが決定したルール自
体も、忘れられて、うやむやのまま、大将棋の衰退期に入ってしまっ
たのではないか

と、私には予想されるのである。
 以上のように、飛龍・・行四隅超越の四隅超越を、悠々と斜めの
遠くへ行くと、平安時代語で正しく、遠くへだけ行く事を強調すると
して、1260年の大将棋のデザイナーは二中歴の文面を理解した。
そのため、それが返って仇となって、飛龍は動けなくなり、余り使わ
れなくなった。そのため飛龍のルールの問題は、いったん忘れられ、
曼殊院の将棋図が作成された、西暦1430年ころになって、再び
後期大将棋に於いて、ルールの問題が、蒸し返される事になったの
ではないかと、私は予想しているという訳である。(2018/07/09)

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