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城跡の井戸跡類から、木製品はどの程度の確率で出土しているのか(長さん)

前に”埼玉県に関して今の所、将棋駒の遺物が騎西城の一箇所でしか
見つかって居無い”との旨、このブログで紹介した事があった。発掘
は各所で行われているから、騎西城がかなり、稀少な例である事は、
漠然と判ると思われるが、今回はもう少し、稀少の程度を詳しく調べ
てみる事にした。
 以下結論を先に述べる。
城跡の遺跡から、

木製品が出土する確率は、騎西城のある埼玉県を例として、計数調査
をすると、数パーセント

程度である。恐らく

城で将棋を指す確率は、平均に比べてやや低いのであろう。木製品が
出ている遺跡で、将棋駒の史料が出土する確率は、さらにその数分の
一程度

である。つまり、

約100城調査して、1箇所の割合

である。
 以上について、何時ものように以下に、もう少し詳しく説明する。
 文献として、以下のものを調べてみた。

西暦2000年発行。㈱東洋書林。村田修三・服部英雄編。
”関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉”の埼玉編。
調査団体 埼玉県・千葉県教育委員会

 上記書に、埼玉県の発掘調査城跡として、だいたい104の城が
記載されていた。恐らく、埼玉県教育委員会で調査した分なのであろ
う。埼玉県には、たぶんその2~3倍の城跡があるとみられる。この
埼玉県教育委員会の調査は、計数調査には都合よく、ほぼアトランダ
ムだったようであり、著名な川越城が抜けているが、大相模館跡等、
余り有名でないと見られる小規模な城も、逆に入っている。なお、前
に言及した、さいたま市岩槻区の岩槻城は、記載されているので、以
下の計数の中に含まれる。そして、

104の城跡の中で、”木製遺物が井戸跡等から出土している”と記
載されているのは、私が斜め読みした限り、4箇所

である。内訳は埼玉県川口市東本郷の石御堂遺跡、児玉郡美里町南十
条の新倉館、蓮田市黒浜江ヶ崎の江ヶ崎城、それに前に紹介した、
不成り金将駒の出土した、加須市根古屋の騎西城の以上4箇所である。
なお、騎西城のケースは、城に隣接した、武家屋敷の遺構で木製品が、
主に出ているという事らしい。
 この事から、

堀や遺構をほぼ伴っている城跡で、水に浸かって木製品が腐らずに
出土する確率は、私の読み飛ばしを1%加算しても、数パーセント

程度とみられる。

いかにも、小さな率だ。

しかも、上記のリストから明らかなように、

”当たりくじ”は、ほぼ気まぐれに、たまたま出てくるだけ

のように、少なくとも私には見えた。川口市の遺跡は工場の中だし、
美里町の遺跡は山の中、蓮田の遺跡は新興住宅地帯の中だし、加須
の騎西城は、タンボの中と、皆バラバラだ。なお、川口市の城跡は、
都心に近いが、農業用水の、見沼代用水の水路の一つに、たまたま
浸っていて、木製遺物が腐りにくかったようだ。
 ちなみに井戸跡や遺構があっても、合戦の後物品が持ち去られた
のか、全く遺物の出ない城跡も半分位は有る感じだ。従って自然の

恵みは、10%程度の城跡遺跡に、気まぐれに与えられている

という感じらしい。
 その結果、20の城を掘って、木製遺物の束が1箇所から出ると
いう程度になるらしい。ただし、武家は体育系の人種なのか、通常
よりも、

木製遺物の中に占める将棋駒の割合は、数分の一と、やや小さめ

になる。その結果、堀の水引の効果で木製遺物の出土確率は、やや
上がるが、もともと将棋を指す人間の居る確率がやや低くて、将棋
駒の出土確率が減り、相殺すると正確な数値ではないが、どうやら

100城に1城位の割合で、ランダムに将棋駒が出ている

ようである。中・近世都市等を掘ったほうが、効率が良いと言われ
ればその通りだが。”土中の90%の場所の木は腐る”というのは、
どのみち、いっしょなのだろう。
 なお今回はたまたま、埼玉県を例に取ったが、同じ関東平野で、
海無し県である事も同じなので、

栃木県は埼玉県と、ほぼいっしょ

だと私は思う。栃木県小山市の小山城群の、ほんの触りの発掘で、
神鳥谷曲輪遺跡と、曲輪一つに名前をつけた狭い領域から、摩訶
大将棋の駒のような、裏に一文字金と書かれた角行駒が、2007
年に出土した。
 従って、その城跡の発掘を再開したという情報が、今回のように
あったケースには、当然だが100城分の調査が、又再開された
という感覚で、発掘調査に注目しなければならない事は、どうやら

木製遺物の残りにくさからみて、自明

なように見えてきたのである。(2018/07/22)

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