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中将棋の盲虎の成りの”飛鹿”の鹿は、”奈良の鹿”(長さん)

前に、現行のように、獅子・奔王・玉将以外の駒が成る、成り駒の
多い中将棋での成り駒のうち、盲虎の成り駒の飛鹿は、中将棋の成
駒成立時に、全く新たに考えたものであろうと述べた。その際、
中将棋の成立が、鹿に関連する地域でなされた事を、示唆するのか
もしれないと、本ブログでは指摘した。
 そのときには、具体的な場所は、特に示さなかったが、鹿と言え
ば、奈良県奈良市の鹿が有名というのは、自明ではある。従って、
中将棋の成立は、奈良県奈良市ゆかりであろうと、言ってしまった
のと、その時点でほぼ同じだったのだが、最近、根拠となる史料が、
幾分あるのに、私も気がついた。
 成書で次の物に、

藤原実資の日記等に、奈良の春日神社の鹿が、神の使いとして記載
されている等の情報がある

のである。文献名は、次の通り。
 吉川弘文館発行(2009)。”人と動物の日本史(4)信仰の
中の動物達”、中村生雄・三浦佑之編。第Ⅱ編神仏と動物、(一)
神となった動物達。小島瓔禮著。
 上記の書の小島瓔禮の記載によると、藤原実資の日記「小右記」
に刀伊の入寇のあった、西暦1019年の2月10日の所で、
藤原定頼と共に春日神社へ行った某武者が、鹿を射殺した話しを聞
き「古い伝えに春日神社に参る人は、鹿を見る事を吉い徴とする」
と、たぶん揶揄したように、記しているという紹介がある。その
武者が罰せられたかどうかは、私には良く判らない。
 更にその2番目の例として、藤原宗忠の日記「中右記」で、
西暦1104年11月10日の所で、”春日神社や興福寺で、鹿を
見たことを大吉祥とする”と書かれているとの紹介がある。
 また3番目には、藤原頼長が日記の「台記」で、1148年9月
25日の所で、”夢に鹿を見たのは吉祥であり、春日神社の加護で
ある”と記載しているとも紹介されている。
つまり、平安時代の藤原氏は、鹿は鹿でも、いわゆる”奈良の鹿”
には、大いに注目しているとの事のようである。
 ところで言うまでも無いが、

春日神社や興福寺は、藤原氏の関連宗教施設として著名

である。”春日神社の加護”と藤原頼長が書いているが、春日神社
に祭られた藤原氏の先祖が、藤原頼長を守っているという意味に、
当然取れよう。つまり、

中将棋を南北朝時代に流行らそうとするとして、ターゲットとなる
ゲーマーを、藤原氏の末裔に絞るとすれば、奈良の春日大社にちな
んだ、いわゆる”奈良の鹿”駒を選択するというのはうまいやり方

である。ようするに、子孫への遺言が目的の「平安時代の藤原氏
の日記」の、3つに”奈良の鹿”が記載されて居る事から見て、
中将棋に存在する動物駒として、鹿もあるのが当然という事になる。
3名の”奈良の鹿を信仰する、平安藤原貴族”の大先輩が居る訳で
あるから、陰陽道等、神仏宗教のの雰囲気が色濃く付いた、中世の
新しい駒数多数将棋である中将棋に、もし

不足があれば、”鹿”駒から加えるというのは、当然の選択だった

のかもしれない。逆に言うと、中将棋が成立した時代に、

中将棋のデザイナーにとって、それを指してくれそうなユーザーは
貴族で、しかも南北朝時代の籐氏系の上流階級の人間が多いという
点が、恐らく、初めから当たり前のように判っていた事

だったのであろう。そう考えないと、実際には

中将棋の成りのルールについて、全く混乱が有ったような痕跡が無
く、そのまますんなり、このゲームが流行ったのは何故なのか

を、説明し辛い事だけは、確かだと私には思われるのである。
(2018/07/24)

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