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鶴岡八幡宮出土の成り奔王鳳凰駒。なぜ歩兵と大きさが同じなのか(長さん)

以前、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮にて、西暦1980年前後に
出土した、5枚の将棋駒のカラー写真の載っている成書を、最近
綿密に調べてみた。前から気がついていたのだが、自身も歩兵よ
りは強く、かつ成ると、奔王という大駒に成る、鳳凰駒が出土し
ているのだが、他の駒に対する大きさが、余り顕著に大きくない。
今述べたカラー写真に載っていて、今回調べた「よみがえる中世
 武士の都鎌倉」(西暦1989)㈱平凡社。網野善彦監修、
(原広志氏が”さまざまな遊び”で出土将棋駒を解説)によると、
カラー写真の鳳凰が、歩兵よりも、幾分小さく見える。天童の
将棋駒と全国遺跡出土駒に、駒の長さが載っており、歩兵と同じ
なはずなので、ものさしを当ててみると、目の錯覚も含まれる
ようであり、大体同じ長さが、確かに正解のようだった。
 そこで今回は、この比較的強い駒である、鎌倉鶴岡八幡宮出土
の駒の中で、鶴岡八幡宮出土の成り奔王鳳凰駒が、大きく作られ
て居無い理由を論題にする。
 最初に何時ものように、回答から書く。
この駒は、後期大将棋用だったので、鳳凰・麒麟・獅子がそれよ
り袖の小駒、悪狼、嗔猪、猛牛に合わせて、歩兵並みに作られて
いた。他方、最下段の駒と、奔王列の駒は、全体として、鶴岡八
幡宮出土の、鳳凰、歩兵駒より、長く作られ、特に出土しなかっ
た玉将や奔王は、鳳凰よりも幅も有って、かなり大振りだったと
予想される。
 では、以下に上記の結論に至る、説明を加える。
 まず、もしどんな条件ならば、大きな鳳凰が作られたのかを説
明する。もし

中将棋の駒だったとしたら、実際の長さ2.8センチではなくて、
角行並に3センチ以上に、長く作られたはずだ

と、私は考える。
この駒は、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、鶴岡八幡宮出土駒
の4番の歩兵と、3番の香車とは恐らく組物であり、

装飾用に作られたもの

なのではないかと、私は考えるのである。つまり装飾用に、

列が同じなら、駒の字が一線に並ぶように、大きさが調節されて
いるフシがある

という事である。だから、もしこの鳳凰駒が中将棋の駒だとした
ら、袖の方に有る、角行に合わせて、長く作られていたはずだ。
ところがこの駒は、後期大将棋の駒であったため、袖には上記の
歩み駒しかなく、そのため並んでいた、獅子と麒麟と共に、陳列
した際の

見栄えから、小駒の大きさに、実用性を無視して調整されていた

のではないかと、推定するのである。つまり結局、鶴岡八幡宮に
存在する事になった、この後期大将棋の装飾品は、仲人と歩兵と
獅子と酔象の段の駒は、全部歩兵とほぼ同じ、長さ約2.8セン
チ前後に調節され、他方、奔王と玉将の列の駒は、共出土した、
不成り香車のように、3.2センチないし、それより少し大きめ
の長さにして、

装飾品としての形を、整えていた疑いがある

と、私は思う。つまり、やはり

この鳳凰は、後期大将棋の駒なのではないか。

 なおこの出土駒の埋葬年代は、定説では南北朝時代から室町時
代の早期とみられている。少し前に中将棋、前後して後期大将棋
と摩訶大大将棋が成立したと、本ブログでは、この時代を将棋史
上は見る。すなわち前に、埼玉県児玉郡美里町広木上宿近くの寺、
大興寺や、摩訶池関連が疑われるとして本ブログで紹介した、鎌
倉公方が、足利氏満、足利満兼、足利持氏の時代という事になる。
 さて「よみがえる中世 武士の都鎌倉」にカラー写真が出てい
た結果、私には新たに判った事について、次に述べる。

駒の木地の色が良く判り、鳳凰駒と似ているのは、天童の将棋駒
と全国の遺跡出土駒の鶴岡八幡宮出土駒の、4番の歩兵である

ことが、まずは良く判った。同書の2番の歩兵は、色が少し黄味
である。2番の歩兵と、駒名の良く判らない5番の駒は、鳳凰駒
とは、別の将棋駒セットである可能性があると、私は考えるよう
になった。残りの3番の駒だが、「よみがえる中世 武士の都鎌
倉」にカラー写真で出たおかげで、墨が消えながらも、下地が白
く残って、

香車の、特に”香”の字が、浮き上がったので、香車だと、判断
できた事

が、この成書のおかげで、私にも良く理解できた。裏面もきれい
なようだから、恐らく

3番の駒は、不成り香車と考えられた

のであろう。そこで、色は黄味がかっているのだが、水無瀬兼成
の、将棋纂図部類抄の後期大将棋の成りと矛盾しないので、私は
この3番の不成り香車も、4番の歩兵や、1番の鳳凰同様、後期
大将棋の同一駒セットと、みなす事にした。その結果、上記にの
べた通り、

3番の不成り香車駒の長さが3.2センチとやや長いので、最下
段の中央駒の玉将は、少し鳳凰よりも大振りだったのではないか

と、個人的に想像するようになった。
 むろん、たまたま駒木地の形の、出来の悪い駒が捨てられたと
いった事情で、上に述べた事が起こっているとしたら、鳳凰駒が、
中将棋の駒であるという仮定も、この程度の知見では、完全には
捨てられないのかもしれない。
 以上で、今回の論題の説明はだいたい済んだ。その他2点、以
下蛇足として述べる。
 まず、大阪電気通信大学の高見友幸氏が”奔駒ではないか”と
述べられている、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の鶴岡八幡宮出
土の5番の駒は、個人的には、少し以前から

成り不明の歩兵駒ではないか

と、私は天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真から、考えていた。
つまり、5枚のうち3枚は、歩兵なのではないかと言う事である。
今回、「よみがえる中世 武士の都鎌倉」にカラー写真で、この
駒をカラーで見たが、5番駒”表面”の各所の墨の色の違いから、

本物の墨跡は、駒上部のト印だけのように私には、やはり見えた。

このト印は、別の歩兵の歩の字の最初の2角と、形がいっしょで
あるように、私には思える。よってこの駒は、やはり歩兵なので
はないかと、私は更に、疑うようになったのである。

一番穏やかな解釈であり、失望を引き起こす説

なのではあろうが。
 なお今回紹介した成書、「よみがえる中世 武士の都鎌倉」
(西暦1989)で、原広志氏が”さまざまな遊び”で出土将棋
駒を解説しているが、それによると、この”謎の5番駒”は
”飛車成り金将”で、裏面が、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で
は、表面として、紹介されているという事らしい。なお、私には
定説表面の、良く判らない模様が、飛車のようには、個人的には
どうしても見えない。
 もう一つ、蛇足を述べる。
 4番の歩兵は、いかにも1番の鳳凰と色がいっしょなので、同
じ駒箱に入っていた将棋駒という感じを、私には抱かせる。が、
実はこの駒は、

不成り歩兵の疑いが有る。

裏に墨跡は無いのではないかと、疑われるという事である。
つまり、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、後期大将棋のルールは、
”歩兵も不成りである”という点を含めて、

水無瀬兼成の言い分が、完全に正しかった疑いがある

と、今回よく調べてみて、私は後期大将棋に関して、思うように
なった。
 蛇足は、以上の2点である。
 何れにしても、鎌倉鶴岡八幡宮の出土駒は、境内内の地下に有
るとみられる水脈のおかげで出てきた、奇跡の出土品とみられる。
だから将棋史上は、最も希少な史料の一つとして、注意深く見る
べき物品だと、私には以前に増して痛感させられる。(2018/07/31)

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