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水無瀬兼成将棋馬日記2ページ。大大将棋と摩訶大大将棋順番の謎(長さん)

本ブログでは、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の内容を、いままで頻繁に
問題にしてきた。所で水無瀬兼成が残した文献には、その他、作成した
将棋具の発注記録とされる、”将棋馬日記”という文書がある。
西暦1590年から西暦1602年の水無瀬兼成筆の古文書である。
 発注者の中に徳川家康、豊臣秀頼等の最高権力者の武家が含まれる事
で、将棋馬日記は著名だ。がここでは、大将棋に関連する問題に絞り、
話題とする。すなわち表題の、第2ページの、大将棋系将棋種の、必要
駒総枚数等を記した部分の内容について問題にする。なおこの部分は、
駒字を書く手間賃の計算かあるいは、原材料である、駒木地発注用の
メモとみられるが、正確には何の用途で書いたのかが、少なくとも私に
は良く判らない記載である。なお書いた動機については、水無瀬兼成に
とり、駒数多数将棋の唯一の買い手として、大阪城から将棋具の注文が
来るのが、彼にとっては嬉しかったためと明解に取れる。
 さて、ここには具体的にはこう書いてある。

大将棋354枚 大大将棋192枚 摩訶大大将棋192枚 大将棋
130枚 以上868枚。

なお、354+192+192+130は、確かに=868である。
なお、将棋の棋は、”棊”だが、残りは上記の書体である。大将棋には
両方”大”であって、”太”は使って居無い。行然和尚の文書の改ざん
も、名称が同じを知っていて、わざと水無瀬は行ったのだろう。”別の
ものに同じ名前を付ける不自然さ”に関する、安土桃山時代の将棋史学
会等からの非難等は、時の最高権力者、豊臣秀次の権威が有れば、容易
に封じ込められると見ていた、この文書は証拠の一つと、私は考える。
実際には、水無瀬兼成等は業務用の言葉として、後期大将棋は130枚
の大将棋、泰将棋は354枚の大将棋と、裏では呼び分けていたのかも
しれない。正しく”130”という数値を書いたとみられる、行然和尚
には、気の毒な話である。
 そこで今述べた、これから述べようとしているのとは別の”大将棋の
だぶったネーミングの謎”については、以上で解決済みと、一応みなす
事にしたい。
 つまりここで問題にするのは、今述べた”大将棋のだぶったネーミン
グの謎”ではなくて、別の不自然さ、すなわち

摩訶大大将棋と大大将棋の順番が逆という問題

である。なぜ泰将棋、摩訶大大将棋、大大将棋、後期大将棋の順番で、
水無瀬は、大将棋系将棋駒の総数を計算するときに足して、い無いのだ
ろうかと言う事である。なお、私が今述べた順番は、言うまでも無く、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の順番の逆順であり、盤升目が多いものか
ら、少ないものへ、規則正しく並べたものである。
 よって今回は、この水無瀬が、豊臣秀頼(少年)を注文人とする、
大将棋系の駒セットを作成するときの、駒字を書く手間賃の計算か、
原材料駒木地総数を計算するため等とみられる、将棋駒日記(西暦15
90~1602年)第2ページに書かれた、駒総数の計算方法メモの、
計算方法についての不自然さ

つまり、”なぜ摩訶大大将棋と大大将棋の順番が逆なのか”とする。

 そこで、さっそく答えから書く。水無瀬兼成は、この記載によって

大大将棋の方が摩訶大大将棋よりも後、泰将棋を水無瀬が作る少し前に
出来た将棋である事を、うっかり自白している

と、本ブログでは見る。
 では以下に、上記の結論に至る根拠を述べる。
 将棋馬日記は、水無瀬兼成にとって、業務用の記録書であるから、将
棋駒作りの合間に書くものであり、自分が後で見るために書いたと見ら
れる。よって、業務で通常使う、ミスの出にくい効率の良い言葉を使っ
たのであろう。そして元々水無瀬兼成は心の中で、曼殊院に百年の桁の
昔から記録のあったと見られる、後期大将棋と摩訶大(大)将棋とは別
に、泰将棋を作るために、水無瀬グループでプレ製作された大大将棋と、
その結果完成された泰将棋で、大阪城御用達多枚数将棋はワンセットと、
概念的に、判りやすく把握していたものと考えられる。だから水無瀬は、
その心の中の彼の”駒数多数将棋の世界”を、その通りにメモに書いて、
実際に駒木地を868枚単位で、駒字を書く手間賃の計算のときか、
将棋駒の木地師へ発注するときに、計算を間違えないような書き方をし
たのであろう。
 その結果、対外的に発表するときの順番と、摩訶大大将棋と大大将棋
が入れ替わったのではないか。つまり対外的に、将棋纂図部類抄等では、
大大将棋を発展させて、摩訶大大将棋が作られたかのように書いて、大
大将棋が、それほど古くないのを誤魔化していたのだが。将棋馬日記で
は、計算間違いによる、自分自身のミスのトラブルを避けるため、水無
瀬が関連性の高い物同士と、本当は心の中では見ている順番で、

うっかり、正直に書いている

のではないかと、私には思えるのである。
 つまり、大大将棋は、泰将棋よりも、たとえ成立が少し前だったとし
ても、それは豊臣秀次の依頼で、水無瀬が泰将棋(延年大将棋)を作成
するための、足がかりに作った将棋種に実は過ぎなかったのではないか。
 なお、私は最近、大阪府の島本町教育委員会の久保直子氏が、該当部
分を執筆した成書、”戦国大名の遺宝”山川出版(2015)監修:
五味文彦を読み直して、やっと気がついたのだが、

”将棋纂図部類抄の奥書き”で、水無瀬兼成は、”大大将棋と泰将棋を
記すのに、関白である豊臣秀次の尽力が有った”事を感謝している

という事実がある。つまり、摩訶大大将棋が飛んでいるのである。
ようするに、この書き方は、

摩訶大大将棋は、曼殊院の将棋図に最初から、しっかり載っていたので、
関白豊臣秀次が将棋ゲームデザインを、実は当の水無瀬や、そのグルー
プへ、プッシュする必要が無かったものである

という事の、”物は言いよう”のようにも思えるという事である。摩訶
大大将棋は、形から見てもやはり、室町時代の初期から有ったと、本ブ
ログでは、それでも遅く推定している後期大将棋と関連性が高いもので、

水無瀬兼成も、それは昔から有って当然と、認識していたのではないか。

以上のように、私には、この将棋馬日記、第2ページ目の駒数総数計算
のメモ書きの、”足す順番の謎”は、やはり大大将棋の新しさを示して
いる一つの証拠と、推定せざるを得ないように、思えるのである。
(2018/08/10)

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