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2002年頃発掘。金沢市近郊”堅田B遺跡”の裏不明飛馬駒の謎(長さん)

今から15年位前の事だと考えられるが、石川県の金沢市埋蔵文化財
センターが発掘調査した、金沢市近郊の”堅田B遺跡(堅田城跡)”
という城館跡遺跡とみられる場所から、成りが不明の”飛馬”という
駒が、発掘されていると聞いた。最近まで桂馬だろうと、個人的に私
は、記録を読み流していたのだが。良く見ると、この駒は

桂馬にしては形が変だ。

細長い桂馬というのは、少なくとも今の常識では、一般的でないから
である。なお、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003)にも、当
時発掘されてまもなくの時点とみられる、この駒の情報が載っている。
それによると、

成り不明の”馬”駒

とされたようである。余りはっきりしない情報だが、この遺物が将棋
駒だとすると、存在する将棋駒で一番近いのは、むしろ”龍馬”で、

成り龍馬角行駒か、成り角鷹龍馬駒か、不成り龍馬駒

のどれかのように私には思える。ただし、少なくとも2文字目の”馬”
が崩し字になっておらず、反対面に墨跡が無いとすると、

後期大将棋や大大将棋、摩訶大大将棋の「不成り龍馬駒」

と言う事になってしまうだろう。今回の論題は、最初に結論から書く
が、”この駒は何なのか”である。

堅田B.gif

では結論から書く。

栃木県小山市神鳥谷曲輪出土の、裏一文字”金”角行駒の仲間

のように私には見える。根拠は、

寸法がほぼ同じ

であり、小ぶりで、やや細長く、駒の形が寸胴なのが良く似ている
からである。では、以下に以上の結論について補足説明をする。
 根拠に述べたように、堅田B遺跡の不成り?龍馬駒?の寸法は、
長さ3.1センチ、幅1.7から2.0センチ、厚さがやや薄いが、
0.3から0.5センチとされる。
 他方栃木県小山市神鳥谷曲輪出土の、裏一文字金角行駒の寸法は、
長さ3.5センチ、幅1.8センチ、厚さがだいたい均一で0.7
センチであるので、

外見がほとんどいっしょである。

これほど細っそりした桂馬は、一見して珍しいし、またこれほど小ぶ
りでほっそりした角行や龍馬駒も、栃木県小山市の前記駒を除くと、
無いように、私にはぱっと見ても思える。桂馬でこの形に近いのは、
新安沖沈没船出土の成り”と金”桂馬駒だが、それよりも、やや細い。
また、神奈川県鎌倉市、雪ノ下出土の桂馬駒も、やや似ているが、
堅田B駒や、小山市神鳥谷曲輪駒よりむしろ、こちらの方が、やや大
振りである。ひょっとしてこれは、

小山市の駒と同列に並べてちょうど良い、後期大将棋や摩訶大大将棋
の歩兵下列の、不成り龍馬駒

なのではないのだろうか。なお、この駒が出土した遺跡の城館跡は、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒や、webの金沢市の情報によると、
鎌倉時代の1250~60年ごろのものであるとしており、栃木県
小山市の角行駒と、条件が、この点に関してもほぼ同じか、やや金沢
市の方が古い。普通唱導集の時代よりも、さらに少し古い時代である。
 なお、本ブログの大将棋西暦1260年モデルには、龍馬も角行も、
西暦1230~60年に発明されたとしており既に有る。普通唱導集
の大将棋の唱道には、角2龍馬2の専制攻撃を、嗔猪と桂馬で右仲人
の位置で受ける定跡が、書いてあると本ブログではみているので、
龍馬、角行が共に、少なくとも西暦1300年には、はっきり存在す
るというのが、私の持論である。
 ところでこの金沢市、北方郊外の山沿いの城館は、木曽義仲の戦城
とも、この地の有力武家、たとえば源姓の能登吉見氏関連の武者の住
居とも云われるが、記録文献が少ない。謎の多い城のようだ。何れに
しても、

栃木県小山市神鳥谷曲輪の裏一文字金角行駒は、ひょっとすると
摩訶大大将棋の2枚目の駒

だったのかもしれない。
 気がつくのが余りにも遅かったが、正直チェックして、事の重大さ
に、改めて驚いた。(2018/08/27)

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