SSブログ

玄怪録岑順。物語中の将棋の着手が1天馬2歩卒3輜車なのは何故(長さん)

前に引き続いて、今回も(伝)牛僧儒の玄怪録岑順の話題である。
物語中で進行する将棋では、各訳書が紹介するように、
1手目が先手の天馬の移動、2手目が後手の天馬の移動、
3手目が先手の歩卒の移動、4手目が後手の歩卒の移動、
5手目が先手の輜車の移動、6手目が後手の輜車の移動と実質的
に表現できる着手で、将棋が進行したと読み取れる。
 ところが、本ブログの宝応将棋の初期配列は、歩卒が3段目配
列なため、

1手目2手目に天馬動かす手は、移動先の歩卒が障害となり、
原理的に有り得ない手

である。そこでさっそくだが今回は、この困難を、どう説明する
のかを論題とする。
 まず、最初にいつものように回答を書き、次いで説明を書く。
まず回答は次のようになる。
 物語中で表現された一局の着手は、宝応将棋のルールで指して
居無い。

実は、インドの古典チャトランガのルールで駒を動かし、古代イ
ンド将棋流の指し方で、局面を進行させている

と、本ブログでは物語の”攻め鼓が鳴ると・・”部分を解釈する。
 では、以下に以上の結論について、説明を加える。
 この文を私が書いたのよりかなり前の事であるが、将棋史研究
家の(故)溝口和彦氏が、”玄怪録岑順物語の将棋は、中国にそ
の時代に存在した、幾つかの象棋を混ぜて記載したものと見られ
る”と、表明されている。私は、混ぜている事は正しいと見るが、
混ぜたものは、

中国国内の将棋・象棋ではなくて、世界中の将棋

だと思う。つまり、

牛僧儒は唐王朝内で、外交を担当していた高官であるため、武術・
軍事に関する、各国の機密情報を、個人的にも役目として組織的
にも、政権内で集積し、取り扱っていた可能性がかなり高い

と、私は見ていると言う事である。
 つまり、イスラムシャトランジや宝応将棋(南詔将棋)位は、当
時の中国人は大衆でも、存在を知っていたと見られるが、牛僧儒の
場合はそれに加えて、東南アジアのカンボジアのクメール・アンコー
ル王国の象棋とか、インドの9世紀のチャトランガの知識等、ほぼ
当時の世界中の、武芸と絡んだ将棋・象棋類のルールや、指し方に
関する知識があっても、特におかしくないのではないかと、私は見
るのである。
 実は、その当時唐の都の長安で、イスラム・アッパース朝の移民
が指していて、中国人には、最も馴染みが深かったとみられる、
イスラムシャトランジでは、

5手目と6手目で車駒は移動させない。車駒の前の歩卒を1歩上げ
てから、飛車動きの車を上げる手が意味不明

だからである。なお、少なくとも私はこの将棋は取り捨てだとみる
ので、左穴熊の類の戦法を取る可能性は、少ないと思う。何れにし
てもだから、玄怪録岑順物語中の、将棋の序盤のシーンは、

宝応将棋でも、イスラムシャトランジでもなく、9世紀のインド
チャトランガの指し方

のように私には見える。
 なお、9世紀のインドチャトランガは、1段目と2段目が以下の
初期配列の8×8升目のゲームだったと見られる。

2段目:卒卒卒卒卒卒卒卒
1段目:車馬象王将象馬車

問題は、駒の動かし方のルールであるが、
11世紀にインドを旅行して、インド人からチャトランガのルール
を聞き取ったとされる、

アル=ビルニの言「イスラムシャトランジとインドチャトランガで
は、象と車のルールがあべこべだ」が正しい

のではないかと、私は思う。
 つまり、9世紀のインドチャトランガの駒の動かし方ルールは、
少なくとも唐の牛僧儒には、以下のように認識されたルールだった
のではないか。
王:日本将棋の玉将の動き。
将:日本将棋の金将か、あるいは酔象の動きの類。
象:日本将棋の飛車の動き。
馬:前升目の斜め前動きという、日本将棋の桂馬の動きか、当時
既に、八方桂馬。
車:跳ぶだけの飛龍の動き。すなわち斜め2升目先に跳ぶ。
卒:チェスのポーンの動き。すなわち前に一歩。駒を取るときだけ
斜めに1歩進む。

ここで、9世紀のインドチャトランガをする要領で、ゲームを進め
る場合には、卒が2段目なので、いきなり馬、つまり物語中の天馬
は動かせるし、イスラムシャトランジの象動きの小駒の車は、3番
目に動かすのも、余りおかしくないはずだ。卒を動かす手が一手
間に入るのは、相手の卒が、高飛びした馬や象動きの車を、両取り
で餌食にしないように、予め右馬前の卒を、進めてブロックしてお
くという事だろう。すなわち、実際の着手は、

▲1六天馬△8三天馬▲2六歩卒△7三歩卒▲3六輜車△6三輜車

と、その直ぐ前の物語中の、駒の動かし方のルールは、全く無視し
て、インドチャトランガ流に、動かしたのではないかと私は疑う。
 なお、インドチャトランガでは、当時は特に象は飛車動きで強かっ
たので、”強い象は、最初からは動かさない”という、インドでは
今でも格言にされていると、私が聞いている指し方が、玄怪録岑順
物語中でも、適用されたと見る事ができる。なお、ここで”象”は、
玄怪録岑順では、”上将”と表現されている。
 ようするに、

宝応将棋は、どちらかと言えば、イスラムシャトランジ系の象棋で
はなくて、インドチャトランガ系の将棋に近いと、世界の将棋研究
家の牛僧儒には、9世紀に認識されており、物語中の将棋の局面の
進行は、インドチャトランガで代用したのではないか

と、私は考えるという事である。
 ちなみに、上記のインドチャトランガ、(仮説)宝応将棋、玄怪
録岑順で、駒の名称はそれぞれ違うが、インドチャトランガと宝応
将棋は、実質的に以下の4点だけが、違うゲームであると、本ブロ
グでは見る。なお以下の説明内の駒の名称は、上記のインドチャト
ランガ流で表現する。また下記文では、宝応将棋を説明している。
1.車が後期大将棋の飛龍の動きではなくて、日本将棋の香車。
2.馬が、桂馬の動きであって、八方桂馬の可能性が無い。
3.卒が2段目ではなくて、3段目配列である。
4.卒が相手陣の最奥で、王と桂馬動きの場合の馬を除いて、その
位置に初期配列時存在した、1段目駒に成るのではなくて、卒以外
にも馬と車も成り、かつ成るのは相手陣の3段目であって、最奥で
はなく、成り駒が単純で、全部将に成るのである。
 確かに、以上4点程度なら、チャトランガで代用したいという気
持ちも起こる事であろう。
 何れにしても逆に言うと、この長安の大食人将棋、イスラムシャ
トランジ流の指し方でも無い、玄怪録岑順の、物語中の将棋の指し
方から、著者が、世界中の将棋をかなり把握していたと、推定もさ
れるのではないかと、私は疑うのである。つまり、唐代

中国には将棋・象棋の類は無かったが、西暦650年に発明された、
チャトランガの約200年後の各国分岐に関する情報は、少なくと
も唐王朝政府部内では、当時かなり把握できていたのではないか

と、疑われると言う事である。
 むろん、宝応将棋の指し方を、9世紀のインドチャトランガ流で
代用しても、当時の中国の一般大衆読者には、どう指しても、将棋
に見える事には、変わりが無かったのだろう。だから作者の(伝)
牛僧儒は、以上のような、

手抜き

をしたと考えられる。そして以上の”手抜き”に、気がつく読者も、
少なくとも当時は、居なかったに違いない。そのため、

インドチャトランガの戦法という情報が、玄怪録岑順には暗号のよ
うに隠れている

のに、気がつく人間も、少なくとも唐代には、ほとんど居なかった
し、まあ特に、娯楽でこの物語を読むのに、気がつく必要も無かっ
たのではないかと、私には想像されると言う事である。(2018/09/05)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー