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なぜ日本は、米も将棋も雲南原産なのか(長さん)

本ブログの将棋伝来の謎に関する回答は、中国雲南省から北宋時代
に、宋の交易商人による、基本が日本の朝廷への伝来という事になっ
ている。ただし、流行のきっかけは、将棋ゲーム情報が、将棋具を
博多で陸揚げする際に、輸入品検査が原因で情報として、博多の輸
入経典写経所で経帙牌を扱っていた僧侶と、大宰府詰めの藤原隆家
配下の武者に漏れて、五角形駒の将棋が発生・普及したからである。
 ところで、雲南と言えば、日本人の主食の米が同様に主食である
事でも著名であり、明治や大正の頃には、日本人の祖先との関連な
どが、議論された地として知られている。今回の論題は、本ブログ
に関してだけだが、

どうして米と将棋の原産地が、ほぼいっしょになってしまったのか

を論題とする。いつものように回答から書いて、後で今回は、ごく
総論的に、荒く説明を加える事にする。では、先ず回答を書く。

実質的に文化人類学の心得のある人物の手によって、平安時代とい
う、考古的には比較的新しい、歴史時代に将棋が伝来したため

と、本ブログでは考える。ようするに、

あるがままの、人文科学的法則によって、伝来元であるべき雲南か
ら、将棋が来たのではなくて、文化人類学者が、日本の文化は、雲
南から伝来すべきであるという、実質的に学術的な論理に基づいて、
人為的・作為的に将棋を、雲南から日本に持ってきた

というのに、こと将棋伝来のケースは近いという意味である。
 では、以下に上記の結論に至る論理を、荒く説明する。
 ポイントは、個人的に私は、周文裔という人物を疑っているが、

この日宋交易船団の長とみられる人物は、当時としては、今の文化
人類学者に近い教養を身につけており、それゆえに、船団の長だっ
たし、藤原道長とも交渉等、交流関係が持てた

と考える。
 周文裔に限らず、日宋貿易の時代(10~11世紀)ころの、
中国の交易船団の長クラスは、それなりに世界の民族風習・文化に
関する、文化人類学者的知識を、身に着けた者達だったと私は思う。
でなければ、立場上、業務は勤まらないだろう。
 従って周文裔のような人間は、

漢民族と東南アジア人の中間に、人類学上の位置を占める、中国
南部の人種と、日本人の間に、”中間混合種族”であるがゆえに、
容姿に関して近似関係がある点は、常識として当然知っていた

と少なくとも私は見る。しかも、
当時雲南の大理国は、仏教国である事、宮廷の生活物品が金や銀で
装飾してある事、雲南であるが故に、国土には田圃が広がっている
事、同じ漢字文化圏であり、補助的に自国独自の文字を混ぜて使用
している事、その時代は対外紛争が余り無く、対外的には比較的国
が安定している事等、政治・文化面で、ほとんど同じである事にも、
当然気がついていただろうと、私は見る。
 特に、平安時代の王朝文化最盛期には、宮廷の生活物品が金や銀
で著しく装飾している事が、日本と雲南の古代国家とでは、特に似
ており、かつ

藤原道長が(一例)周文裔に、将棋具の購入を結果として依頼した
のが、天皇の居所の火災による、金銀財宝の消失や、皇太子の遊戯
具の補充

が動機であったとみられるために、

大理国と日本の朝廷とを、同一物品で結びつける、自明の動機付け
までがあった

と見るのである。
 むろん、雲南の中国人と、日本人とが同じ、漢人と東南アジアの
ハイブリッドだという事は、常識で知っていても、それだけでは、
(一例)周文裔には、同一視できるという根拠として、まだ弱かっ
たのかもしれない。
 ところが彼には、雲南の中国人と、日本人とが同じとみなせる、
更なる動機があったと、私には思われるのである。それは、

彼が日本人と結婚して、間に息子もいる

という事である。この話は、web上で私は”森公章著。東洋大学
文学部紀要、西暦2014年、「朱仁聰と周文裔・周良史:来日宋
商人の様態と藤原道長の対外政策」というpdf論文”で、知った
話である。中国と博多の港を、しばしば行ったり来たりしていても、
(一例)周文裔が、日本人に接する機会が、交易の際だけなら、

顔形の、漢人よりも東南アジア寄りは、極端に強い印象を抱かせる
とまでは行かなかった

だろう。しかし(一例)周文裔は、彼自身の妻が日本人であった為、

日本人の顔形に関し、雲南地方の人間と同じく、漢人と東南アジア
のコンタミで、雲南の大理国と、日本の朝廷には似たところが多い
という点を、日ごろから強く感じていた

に違いない。そのため彼にとっては、

雲南から将棋具を持ってくるというのは、同じ国の中で、ある場所
から、他の場所へ富豪の指示で、嗜好品を運ぶのとおなじイメージ

と感じられたに違いない。また、稲作等の共通性も、当時の大理国
と、平安時代の日本には既に共通性が有ったので、

類似の風土のために、植物が伝来して別の場所に定着したように、
将棋文化を人為的に尤もらしく自分が今、伝来させようとしている

という意識にも、当然なれたものと考えられるのである。
 以上の事から、恐らく藤原道長に端を発した、金銀の補充要求に
基づいて、金・銀で飾った将棋具が送られるというイベントが考え
られる場合に、雲南以外の、例えば東南アジアにも、そうした贅沢
品の輸入を選択する余地は有ったのかもしれない。しかも、東南ア
ジアの場合、中国奥地の雲南と違って、陸路で運搬しなくても良い
という利点に関しては、むしろ雲南よりも、条件が良かったのだろ
う。しかし、もしそうだとしても、

(一例)周文裔には、東南アジアではなくて、その北隣に位置する
中国南部の大理国産の将棋道具を、選択的に伝来させる、明解な
動機付けが、以上のように幾つも有ったのではないか

と、私には推定されると言う事である。(2018/09/08)

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