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増川氏の持駒遅延発生説に不利な興福寺駒形に関する彼の認識は違う(長さん)

今回の表題は、一見すると意味不明かもしれない。研究者は客観状況を
しばしば自説にとって、有利に解釈する傾向がある。が稀ではあろうが、
そのようなありがちな傾向とは間逆な、その例外も有るという、やや不
思議な話を以下でする。
 従来より小将棋で持駒ルールが始まった時期に関しては、木村義徳氏
の”興福寺出土駒1058年物より開始”との、極めて早い説から、
増川宏一氏の、興福寺出土駒はおろか”西暦1500年の厩図の将棋ま
で、有ったとの確たる証拠は無い”とする、極めて遅い説まで複数ある。
当然だが、駒を裏から見て、表駒が判るから、持駒ルールのある将棋は、
先が読めるのであり、興福寺出土駒が、裏面を見て銀将から歩兵まで、
それぞれ区別できなければ、持駒ルール”超早期説”にとり不利である。
 区別する方法は、おおよそ2つで、成金の字体に銀将~歩兵でそれぞ
れ差があるか、駒の大きさについて、銀将~歩兵までで差があるかであ
る。前者の方が確実性が高く、後者が補助的である点は、既に本ブログ
でも述べている。
 ここではその補助的な方の、新安沖沈没船の出土駒のいわば、興福寺
出土駒(1058年物)版である、興福寺出土駒(1058年物)の、
銀将~歩兵の駒の大きさについて、以下議論する。
 答えから書いた方が、この尋常な流れではない話は、理解がしやすい
ので、結論から、先にどんどん書いてしまうことにする。
 すなわち、日本将棋連盟発行(2001年)木村義徳氏の「持駒使用
の謎」には、

1058年物の興福寺駒の場合”玉将と歩兵のみ大きさの違いが判る
程度であり、金将・銀将・桂馬(香車は出土して居無い)の間に、有意
な大きさの差は無い。であるから、裏の金の書き分けが有れば、表の
駒が何で有るのか判るという、手がかりが1つだけの状態である。”

との旨が記載され、

この見解が正しいと、本ブログでは考える。

 つまり、銀将~歩兵駒の間に形についての差が無いので、超早期派の
木村義徳氏にとっては不利で、増川宏一には有利な材料の一つがあると、
木村義徳氏自身が、著書の中で認めているのである。
 だから、木村義徳氏は、銀将~歩兵の成りの金の字体に差がないかを、
興福寺出土駒に関しては、必死になって探していたのだ。
 ところが、超晩期派の増川宏一氏は、自身の著書”将棋の歴史”
平凡社新書(2013)で、敵に塩を送るような内容の、次の主張を
しているという事である。

興福寺出土駒1058年物について、玉将から歩兵まで、駒の大きさは
順次小さくなっている。

当然だが、本ブログではこの見解は、

間違い

であり、増川宏一氏の説にとり不利となる事実は、本当の所は、彼の懸
念するようには存在しないと、ここでは見ている。
 そこで以下では、第3の著書として”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”
天童市将棋資料館(2003)の、出土駒の測定表に基づき、

木村義徳氏の言い分が正しく、よって増川宏一氏の遅い持駒ルール発生
説にとって、有利な材料の一つになっているという、おかしな内容の話

の説明を以下でしよう。
 興福寺出土駒(1058)について、出土していない香車を除き、
玉将から桂馬のうち、劣化して形が崩れている物は、予め除き、玉将か
ら桂馬までは、最も小さい駒の長さと、上下幅の平均値を、センチメー
ター単位で順に書くと、次のようになっている。
すなわち以下、玉将から桂馬までは、最も小さい駒(min.)。
玉将 2.9,2.2
金将 3.0,2.0
銀将 3.0,2.0
桂馬 3.1,(不明)
次に同じく興福寺出土駒(1058)の歩兵のうち、今度は最も大きい
物で、劣化していない駒の、同じく長さと、上下幅の平均値を、センチ
メーター単位で順に書くと、次のようになっている。すなわち、歩兵だ
けは(max.)を考える。
(max.の)
歩兵 3.1,2.0

以上の結果から木村義徳氏の主張を上下幅の平均値に対して適用すると、

木村義徳氏が、ずばり正しい事は明らか

である。つまり興福寺駒は玉将が、僅かに太いだけと言う事である。つ
まり、銀将と桂馬は1枚しか無く、大きさは同じ。歩兵は小さいものは、
銀将や桂馬よりも、縦横それぞれ最大で0.5センチ未満の差で小ぶり
の、細長駒やチビ駒があるが、製造時の誤差が大きい。ようするに、
大きめに製造ブレした歩兵は、ほぼドンピシャ銀将や桂馬と大きさが、
いっしょで、

大きさで表の駒の名前を裏面だけで当てられるという保障は、1058
年物の、興福寺出土駒に関しては、ほぼ絶望的

なのである。
 実は本ブログで、興福寺出土駒と対にして議論する、中尊寺境内金剛
院遺跡駒では、歩兵とその他の駒とで、字体がいっしょだが、大きさの
方は、縦横共に2ミリだが、歩兵(max.)が小さい。なおこのとき、
以前問題にした、成り二文字金将歩兵駒は、本来は金将として、集計か
ら外しておく必要がある。ただし、2番手歩兵を持ってきても、その差
は概ね10%程度の差なので、個人的には、興福寺出土駒(1058年
物)同様、中尊寺境内金剛院遺跡駒でも、”裏から歩兵と、銀将等を大
きさで区別”するのは、相当に困難だろうと、少なくとも私は見ている。
 それに対して、鎌倉時代末の新安沖沈没船出土駒の場合は、前に説明
したように、状況が大きく変わる。銀将が出土して居無いので、それを
除くと、玉将から香車までのmin.駒は、同じく駒の長さと、上下幅
の平均値を、センチメーター単位で書くと、次のようになる。
(min.)
玉将 3.7,2.3 
金将 3.4,2.4
桂馬 3.0,2.0
香車 3.45,1.15
歩兵のMax.駒と、歩兵の細長い駒を参考資料として今度は考えると、
同様に次の寸法である。
歩兵 3.2,1.55
(max.)
歩兵 2.8,1.2
(細長い歩兵。参考)
つまり新安沖沈没船出土駒の歩兵は、桂馬とは細いので違い、香車とも
短いので違っている。差は幅につき、今度は20%強有る。
 だから概ね3者は区別できるが、小ぶりで細長い歩兵が、混じる事が
あり、実際には

香車と相似形になって、少し、歩兵と香車の区別が弱いという状態

である。前に、新安沖沈没船出土駒ついては、駒の格の、1つ跳びなら
区別可能と、本ブログで説明したが穏当だったと、以上から判るだろう。
 以上の事から、増川宏一氏の”将棋の歴史”は、細かい議論について、
誤りが散見される事が判る。察するに廉価な本なため、自身の研究ノー
トは、著作のときに参照せず、議題だけ揃えるようにして、後は記憶だ
けでスラスラ書いて、ケアレスミスしてしまったのだろう。
 前に指摘した、異制庭訓往来のミスと、似たパターンではなかろうか。
 従って増川氏の、上記の廉価な通俗史の著作については、将棋史を全
体として把握するときに、論題を順を追って確認し、通史の把握に漏れ
が無いのかどうかを確認するのには便利だが、細かい議論の情報の厳密
さについては、厳格に見ると当てにならないと見られる。だから、論題
個々については、この通俗本で読んだ後には、真偽の詳しい内容を、
木村義徳氏の持駒使用の謎や、今回行ったような、天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒、更には増川宏一氏自身の将棋Ⅰ等の専門書、または必要な
ら古文書の元文献等で、必ず確認するという使い方が安全だろうと、私
には、思えるようになって来ている。(2018/09/23)

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