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二中歴小将棋が飛車角行無しと見破った増川宏一氏の眼力を振り返る(長さん)

今でこそ、webに出ているので、日本の平安時代の小将棋は、
飛車・角行の無い36枚制だろうと、皆が考えている。しかし
ながら、今から120年前~41年前までは、興福寺出土駒が、
発掘されて居無いため、実はそう言っても根拠となる史料は、
明確なものは、まだ無かった。説明は後でするが、仮に興福寺
出土駒があるから、平安小将棋に飛車・角行が無いと、証明で
きるのだとしよう。

では、120年前の幸田露伴が、最後まで二中歴の将棋に飛車
角行が無いのは、書き忘れただけと将棋雑考に書いたのに引き
かえ、将棋史研究家の増川宏一が、二中歴の将棋に飛車・角行
は無いと、約41年前に見破れたのは何故だったのか

を、今回は論題にする。答えを先に書き”興福寺出土駒より、
平安時代の将棋に飛車・角行が無い事は証明出来る”等の説明
は、いつものように、その後でする事にしよう。
 ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰ(1977)の記載を
見る限り、回答は、以下のようになる。

”異制庭訓往来の小さい将棋が36枚制”と記載されている事
を、増川宏一氏だけが、重く見たから

である。
 では、以下に回答に関する説明をする。
 まず増川宏一氏が、異制庭訓往来の内容を説明した上で、
飛車と角行が、二中歴の将棋に導入されたのは、異性庭訓往来
が成立した、14世紀半ばより後であるとの旨を、指摘して
いるのは、法政大学出版局(1977)、ものと人間の文化史
23-1将棋Ⅰの、日本の将棋の”7 現在の将棋の完成”
セクションの、”飛車の名称”の部分である。
 それに対して、幸田露伴の将棋雑考には、少なくとも、塩谷
賛氏の口語訳を読む限り”小将棋の初出は、初代大橋宗桂の時
代だ”と書いてあるから、

虎関師錬の異制庭訓往来の内容を、幸田露伴が読み損なってい
る事は確か

とみられる。むろん既に述べたように、虎関師錬の異制庭訓往
来は中国の、日本の時代で平安時代の、北宋朝に成立した、
広将棋の序を下敷きにしているとみられるために、小将棋と
小さい将棋が、駒数同枚数ゲームと、単純には推定されるもの
の、構成に将駒や車駒が有る事が自明でなは無い。単にそこか
らは、桂馬があるらしい事が、36禽という表現から、推定さ
れるだけである。
 しかし、”小さいものは”と、”多いのは”という表現で、
多いの方の、360枚制の将棋が、泰将棋と明らかに関連して
いるように見えるために、

”小さいの”を、平安小将棋関連と、見破った増川宏一氏の
西暦1970~1977年における眼力はみごと

であった。幸田露伴が、異制庭訓往来の将棋自体を見落として
いたかどうかは謎であるが、泰将棋と、虎関師錬の言う、
”多いの”とを、関連つけてはおらず、従って

幸田露伴が、異制庭訓往来の”小さいほう”に、小将棋の枚数
や、飛車角行無しに関する、情報が有りと疑っては居無い事は、
明らか

とみられる。

我々は、二中歴の将棋に飛車や角行が落ちて居無いとする、
西暦1976~7年の時点での根拠が、はっきりとしたもので
はなくて、、南北朝時代成立の異制庭訓往来だけだったという
事実

を、この事実から、かみ締めるべきだろう。つまり、

史料は出来る限り集め、しかもユメユメ読み飛ばしが有っては
ならない

という教訓が、ここから明解に読み取れると言う事だと、私は
見る。
 ちなみに、増川氏がものと人間の文化史23-1将棋Ⅰを
世に出したのは、韓国で、10枚前後の日本の将棋駒に、飛車・
角行が含まれない事を示した、新安沖沈没船の将棋駒の発掘解
析が始まる、1976年と、ほぼ同時だった。つまり、
これ以降、日本の平安小将棋時代の将棋駒が、遺品として多出
土する時代に入る。

 何れにしても幸田露伴は失敗したが、増川宏一は興福寺出
土駒が出る前(寸前)に、今では明らかに正しい事を、証拠
がはっきりしない時点であったにも係わらず、あっさりと、
示していた

のだ。なぜなら彼は、二中歴将棋の説明をしているだけでなく、

それが当時の主な将棋であって、記載された駒に落ちは無い

と自書で明確に表現しているからである。その点、二中歴将棋
の実体説明を、正確にしてはいるものの、それだけである、当
時の将棋史研究者の大勢とは大きく違う。なお”平安時代に、
日本将棋は無かった”との論は展開していないものの、平凡社
が1968年に発行した世界大百科辞典の”将棋”担当執筆者
は、”二中歴記載の小将棋に飛車・角行を足して、日本将棋を
成立させた”との旨の記載を、正しくしている。
 では、つけたしになるが、興福寺出土駒を知っていれば、そ
れが、将棋に飛車・角行が無い事の証明になるという理由を、
説明して終わる。なお、興福寺の出土駒が現在の出土数になっ
たのは、西暦2013年、数枚少ない状態には、西暦1993
年頃にそうなった。以上の結果から、次のようになる。
 興福寺の出土駒は、全部で現在29~30枚相当とみられる。
この中には、棒の先に歩兵と書いた駒を1枚、習字木簡の各駒
名を、1枚づつとカウントした分を含む。習字木簡については、
飛車の字も角行の字も、本来習字すべき字ではあったが、たま
たま他の駒名を同じものは、実質一枚だが、習字なので複数書
いたという仮説を、棄却検定する。
 すると、現状の普通の駒の出土数が26枚前後であり、棒の
先歩兵1個と、習字が金将、歩兵、酔象の3種類なら、だいた
い29枚程度相当である。西暦1993年から西暦2013年
の間では、これがだいたい20枚前後だったとみられる。
 そこで29枚としたときの、飛車・角行の合計出現平均確率
枚数は2.9枚であるから、
ポアソン分布で近似して、飛車・角行が一枚も出ない確率を、
数表で引くと、6%(1/16)位になる。だから、飛車・角
行があると仮定する仮説では、異常値が出たと見てよい。つま
り、これを裏返すと、

ほぼ飛車・角行は、西暦1058年~1098年の頃は無かっ
たと、出土駒史料に基づき、現在では推定できる

と言う事である。
 今は誰もが、興福寺の発掘成果の恩恵を受け、平安小将棋に
は飛車角行の無い、今の将棋だと理解しているのだが、西暦
1993年以前に、それが理解できる上に

そうはっきりと確信できたのは、

増川宏一氏等、異制庭訓往来をよく読んでいた、将棋史研究家
の一部にすぎなかった、という事を、少なくとも今以降の将棋
史研究家が、きっちり覚えておかなければならない事だけは、
明らかではないかと、私は思うのである。(2018/09/24)

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