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藤原頼長と無関係な東山区安井金比羅。鎌倉時代の観勝寺は違う(長さん)

表題に書いたように、webの情報を見る限り、京都東山区の安井
金比羅宮は、崇徳上皇と関連し、また平安時代の源頼政を祀るが、
恐らく平安大将棋を指した、保元の乱の関連者、藤原頼長を祀って
いるとの情報は無い。しかしながら、この状況が、鎌倉時代の
普通唱導集編者の良季よりも前、鎌倉時代前期、後鳥羽上皇の頃
になると、

一変する

との情報があった。鎌倉時代前期には、本ブログの表現での
”東山区の”観勝寺は、崇徳院社と呼ばれ、保元の乱で敗れた、
崇徳上皇と藤原頼長とを、

実は両方とも祀る宗教施設

であったという情報が、下記の成書にあるためだ。

㈱平凡社(1997)「京都・山城寺院神社大事典」(下中弘)。

つまり、良季は、崇徳上皇の霊だけ鎮める、後の安井金比羅とされ
る”東山区の”観勝寺に居たからではなく、

崇徳上皇と藤原頼長の2名の霊を、同時に鎮める

崇徳院社(関連)の僧であったから、大将棋を指した藤原頼長の霊
を鎮める、立場に居たという事になる。
以上まず、言いたい事を先に書いたので、以下に補足説明を加える。
 論を判りやすくするため、時系列で、普通唱導集に大将棋を記載
した僧、良季の居た、後の京都東山区の安井金比羅宮の一部として
の”東山区の”観勝寺の歴史の流れを成書に従い振り返る。すると、
以下のような経緯で、結局安井金比羅宮の一部になったようである。
 ㈱平凡社(1997)「京都・山城寺院神社大事典」によると、
”鎌倉時代の早期に、後白河上皇が、京都市左京区にある聖護院の
位置に、保元の乱で破れて、霊が怪奇現象を引き起こしているとさ
れる崇徳上皇と、藤原頼長とを共に祀る、崇徳院社を設立した。”
とある。が、この宗教施設は、設立後数十年で荒廃してしまった。
 そこでモンゴル帝国の来襲の少し前、在来仏教の僧とみられる
大円上人が、前記の崇徳院社を、

”東山光堂光明院”と名前を変えて、京都市左京区の東岩倉山
で再興したと、「京都・山城寺院神社大事典」には書かれている。

その際、大円は東岩倉山に元々あった、”左京区の”観勝寺を、
”モンゴル帝国の来襲を防ぐ、勅願寺にしたい”との、亀山天皇~
上皇の意思を恐らく受けて、それに協力し、

ここで言う”左京区の”観勝寺をもまた、整備した(中興した)。

そしてその際、”左京区の観勝寺”も、”東山光堂光明院”も両方
東岩倉山に置いた。すなわち、先に述べた、実質的に”崇徳院社”
である”東山光堂光明院”は、亀山天皇勅願寺の左京区観勝寺の
子院として”東山光堂光明院”という名称で、

同じ場所に置かれた

というのである。つまり、安井金比羅を説明する、”東山光堂光明
院”関するwebの情報は、

”東山光堂光明院”という名称だからと言っても、現在の行政区の
京都市東山区に、元から有ったとも断言できない

と言う事である。そしてその、東山光堂光明院という、モンゴル帝
国退散祈祷の勅願寺の子院の僧として、普通唱導集編集者で、
真言密教僧の良季が、ちょうどモンゴル帝国来襲の頃に、在来仏教
僧侶の大円の居る、京都市左京区の東岩倉山に住んで、唱導集の編
集を始めていたとみられるというわけである。結局その普通唱導集
は、来襲より20年近く経った、西暦1300年頃に、ようやく完
成したようだ。
 なお上記成書によると、鎌倉時代中~後期、”左京区の観勝寺”
と、同地の子院、”東山光堂光明院”との関係は、

”互住一味和合之思、

不可有偏執驕慢之意”とされたそうである。
本ブログの認識では、”左京区の観勝寺”は東大寺系在来仏教、
”東山光堂光明院”は真言密教だったはずであるが、交流があった
どころか、ある場所がいっしょだったのである。
 その後、戦国時代に入り、応仁の乱により、結局”左京区の観勝
寺”も”東山光堂光明院”も荒廃してしまった。後に江戸時代にな
り、崇徳上皇ゆかりの神社として設立された、安井金比羅宮が中興
され、更に少したったときに、東山区の

安井金比羅宮に”左京区の観勝寺”も、本ブログの表現での、
東山区の観勝寺、すなわちイコール”東山光堂光明院”も、両方と
もに取り込まれてしまい、

ついで、明治初年の神仏分離令により、両方の観勝寺共に消滅して、

後継の安井金比羅宮が、崇徳上皇の霊は鎮めるが、藤原頼長が特に
出てこない神社として残った

という経緯のように、「京都・山城寺院神社大事典」には書かれて
いるのである。
 以上の事から、

鎌倉時代に、普通唱導集編集者の良季の居た”東山光堂光明院”は、
藤原頼長をも、現在の安井金比羅宮とは違って祀っていた

事になる。ので平凡社の「京都・山城寺院神社大事典」を読む限り、
”東山光堂光明院”は、実質同じ、崇徳院社に藤原頼長への弔いが、
崇徳上皇に加えて存在していたため、

鎌倉時代には平安大将棋系の将棋にどんぴしゃ関連する、密教系
の寺だった

と見て間違いないように、少なくとも私には思えてきたのである。
(2018/10/14)

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