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南北朝時代(西暦1356年)の貴族の将棋の記録(長さん)

南北朝時代には異性庭訓往来や遊学往来(続庭訓往来)等の
教科書物に、大・小将棋の記録があるほか、太平記で、九州
少弐氏が少将棋の将棋盤と思われる物を、所持していた等の
記録があると、認識している。ただし、将棋種を特定できる
ような、史料は乏しい。鶴岡八幡宮出土の成楷書奔王鳳凰駒
が、後期大将棋の存在を示唆しているほか、小山市神鳥谷曲
輪、成り一文字金角行駒が、摩訶大大将棋系の将棋の存在を
示唆している程度である。小将棋で、時代の長さが限られて
いる南北朝時代と、ぴたり特定できる駒は、京都市南区上久
我駒が酔象かどうか、はっきり私は断言する情報を個人的に
持たないので、むしろ酔象で無いとか、小将棋の変種で酔象
が使われたとか言うと、小将棋の証拠にはなるかもしれない。
そもそも、小将棋の遺物の存在は、はっきりとは聞いた事が、
無いように私には認識される。
 他方、南北朝時代の北朝方の公家で、武家方との取次ぎ役
をしていた高官の、洞院公賢という、藤原氏の子孫のがおり、
以下の成書に、日記”園太暦”の紹介がある。その日記
”園太暦”の西暦1356年2月27日の所に、

将棋が出てくる

との事である。近年著作の紹介文献は、以下の通り。
 林屋辰三郎著。”内乱のなかの貴族”角川選書(1991)
記載は、第十章戦争と平和の四”幻夢の世情”の最初の方に
ある。正確には、

”将棊興”と書いてあるらしく、将棋種は残念ながら、特定
できない

ようである。
 仮に”中将棊興”と書いてあったなら、遊学往来より早く
なり、将棋史上重要な文献になった事であろう。この日記は、
上記成書によると、戦国時代の公家で、将棋を愛好したので
著名な、甘露寺親長が日記の保存に絡んでいるため、選択的
に、将棋の記載が残される可能性が、むしろ高いとみられる。
そこで残念ながら南北朝時代に、藤原貴族の間で、将棋が極
めて盛んだったという証拠とまでは、言えないかもしれない。
 将棋種は、当てずっぽうだが、9升目36枚制の標準型の
平安小将棋で、持駒有りのルールなのかもしれないと思う。
 前に、小山義政に関連する、冒頭で言及した、栃木県小山
市神鳥谷曲輪角行駒は、小山義政は40年強保管しただけで、
もともとは、小山氏の殿様で2代前の

小山朝氏が西暦1340年頃に近衛経忠より贈答されたもの

ではないかと、述べた事があった。近衛経忠は南朝方の藤原
長者のため、

大覚寺統関係者の貴族は、鎌倉時代末の亀山天皇時代の、
良季の作成した、普通唱導集大将棋を南北朝時代に引き続い
て指し、
持明院統関係者の貴族は、南北朝時代作の15升目の大将棋、
中将棋、標準型平安小将棋を指す

といった、何か傾向があるのかもしれない。ちなみに持明院
統の後深草天皇は、鎌倉時代末の西園寺公衡の日記により、
”遺品に小将棋の将棋盤がある天皇”というので、良く知ら
れている。何れにしても、南北朝時代の将棋を記載した公家
等の日記文書等の資料は、余り例が無いと見られるため、
”いろいろな種類の将棋が有った”とされる、南北朝時代の、
洞院公賢の日記”園太暦”に現われる、

将棋種が謎の、”将棋興”の記載も、一応記憶に留めて置く
べき

ありがたい情報のように、私には思えた。(2018/10/16)

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