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本ブログの普通唱導集大将棋と後期大将棋。猛牛の場所が違う訳(長さん)

本ブログの普通唱導集大将棋では、2段目の配列が、猛虎から
外が、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車となっていて、猛牛は、
中央筋の3つ目、3/7の列の位置を占める。なお、猛牛は、
ジグソーパズルのように、何が置かれているのか不明な升目に、
”鬼門信仰”から、それが置かれたと仮定して、位置を推定し
ている。
 それに対して、15升目制の後期大将棋では、猛牛は端列の
隣の列の3段目に配置されている。つまり、7/8の列の位置
にあり、本ブログの推定する普通唱導集大将棋の猛牛よりも、
ずっと端に寄ったところにある。
 この差が何に起因し、前に述べた、亀山天皇の対モンゴル帝
国戦争勝利の勅願寺で指す将棋として、どちらが的確なのかに
ついて今回は論題とする。
 回答を先に書き、説明をその後でする事にする。

後期大将棋は、闘獣棋系の要素のある将棋で、それは中央アジ
アの文化を、恐らく晁補之の広将棋の序によりの知見から、取
り入れた結果、牛駒が袖に配列されるようになった

将棋である。従って、中央アジアに広大な支配地域を持つ、
モンゴル帝国に、既に征服された国の将棋のようでもあり、
少なくとも亀山天皇の、

対モンゴル帝国戦争勝利の、勅願寺付近で指す将棋としては、
必ずしも適切なものとは言えない

と、本ブログでは考える。
 つまり、東岩倉山の観勝寺に間借りしていた、東山光明院の

普通唱導集編者の良季が編集した大将棋としては、後期大将棋
は、不自然な初期配列のゲームである

と言うことになる。
 では、以上の結論について、下記に説明を加える。
 そもそも、後期大将棋の2段目および3段目には、動物駒が
主として配列される。
 獅子から斜め下、ついで斜め上に、ジグザクに辿ると、次の
ようになる。

獅子→盲虎→悪狼→猛豹→嗔猪→猫叉→猛牛→反車

この配列は、現在中国の

雲南博物館に造形美術品として展示されている、闘争動物種の
勝ち組から負け組に向かって、並べた順番とほぼ同じ

である。
 つまり、虎や狼や豹は、猪と牛を捕らえて食べてしまう側に、
回っているのである。恐らく晁補之の広将棋には、闘獣棋の要
素が有って、それが虎関師錬等により、南北朝時代に紹介され
ており、後期大将棋のゲームデザイナーに、取り入れられた為
と、私は考える。
 それに対して、平安大将棋に牛駒と猪駒を加えて、鬼門を守
る動物神として、2段目に4種類の動物駒を置いたと推定され
る、本ブログの普通唱導集の大将棋では、2段目が左から、

反車(左端)、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、麒麟、酔象(中央)
そして、
酔象(中央)、鳳凰、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車(右端)

となるから、猛牛は、比較的中央に近いのである。つまり
飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎というのは、嗔猪、猛牛、猛虎、飛龍、
と、中央の位置を鬼門の北東方向に合わせると、中間の鼠と、
兎を加えてみると良く判るが、

・・嗔猪、鼠、猛牛、(鬼門)、猛虎、兎、飛龍、・・

となって、方位の12支の順に、きちんと並んでいるのである。
 ところで、本ブログの仮定した普通唱導集大将棋で、中央部
分に、麒麟、酔象(中央)、鳳凰、とおき、その袖に方位の
12支駒を、鬼門方向を中心に並べるのは、

江戸の北東に、仏教寺の寛永寺を置いて、仏の力で鬼門の鬼に
打ち勝つという、宗教思想と内容が同じ

である。つまり、酔象の裏が太子で釈迦であるから、”聖人が
現われるときに、麒麟と鳳凰は現われた”として、釈迦駒と3
組で中央に並べ仏教を象徴し、その隣に、鬼門の4つの動物神
を置いて、仏教が、鬼門に置かれて日本の国を守っているとい
う図を表しているのである。だから普通唱導集大将棋では、

邪神の束であるモンゴル帝国の侵略に打ち勝つ、仏門の国日本
を現している

という事である。
 ところが、後期大将棋では、その配列が全く崩れている上に、
雲南省付近の文化の取り入れとはいえ、この闘獣棋のような
ゲームデザインの配列は、その文化が中央アジアに支配力
の強かった、モンゴル帝国内の文化のようでもあり、

中央アジア高原の支配国に対する、その時点での日本の隷属

を示唆しているようにも見えるという事になる。ただし、実際
には、後期大将棋はモンゴル帝国の脅威から、だいぶん経った
ときに、中国の広将棋の知見を、その時代のゲームデザイナー
が取り入れる事によって、”日本で今流行の中国文化”として
取り込んだ

室町時代前期のゲームとしては、適正な形に仕上げたもの

と、見れば何ら矛盾はない。
 以上の事から、後期大将棋は、モンゴル帝国の脅威が喉元を、
だいぶん過ぎた頃の、ゲームではないかと、私には疑われる。
普通唱導集大将棋が、西暦1274~81年の蒙古来襲から少
し後の、西暦1300年の将棋とすれば、後期大将棋は

その100年位後の西暦1400年頃の将棋

なのではないか。そのように、猛牛の配列の違いのパターンか
らは、私には推定される。以上のような結論に、少なくとも、
本ブログの今までの流れからは、なってしまうと言う事である。
(2018/10/17)

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