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滋賀県滋賀里遺跡と大阪府上清滝遺跡王将の中央横棒下よりの訳(長さん)

前に、奈良の興福寺を除き、京都市近郊から、少なくとも南北朝
以前の出土遺物として、玉将が出ない事、およびその理由が、
本ブログによれば、西暦1080年代の白河天皇と大江匡房によ
る平安小将棋の玉将の廃止と、王将への標準化の詔の、発行によ
るものだとの旨を述べた。なお、王将に統一されただけでなく、
そのとき8升目32枚制の原始平安小将棋や、同じく8升目制で、
酔象が右銀将位置にある、真性大理国平安小将棋が廃止命令を受
け、9升目36枚制の標準平安小将棋だけに変えるようにとの、
詔も出ているはずだとした。そこで今回は、その結果として、
本来玉将であるはずの駒が、王将になったと見られるケースにつ
き、そのより詳しい、書体を問題にする。そこで表題に書いた、
(1)滋賀県大津市の滋賀里遺跡出土の鎌倉時代とされる王将、
(2)大阪府四条畷市の上清滝遺跡出土の平安末期とされる王将、
それに、
(3)京都府京都市の鳥羽離宮135次の鎌倉時代かと見る王将
の書体が、以下の議論の主な対象である。
 すると実は

(3)だけ、正常

なのだが、

(1)と(2)の出土駒については、以下の点で奇妙な書体

である。すなわち表題のように、王の字の中央横棒が、(1)と
(2)の出土駒では、中央より下に来る。ただし(1)について
は、特に裏面の一文字”王”の方を、問題にしている。
 ちなみに、九州の博多や大宰府、岩手県の平泉から王、玉駒は
たまたまだろうが、出土していないので、地方の状況については
残念ながら判らない。
 なお、これらの書体が異常であるのは、以下の成書に、正しい
”王”の書体について、解説があるので、そのように判断できる。

角川書店、1976年「漢字の語源」、加藤常賢著

すなわち、上記の成書の王、玉の漢字に関する解説によれば、

王は、国王の王であれば、
中央横棒は下の横棒より、上の横棒に、少しで良いようだが
近くなければならず

玉の正字であれば、
中央横棒は中央に引かれなければならない

と書いてある。つまり、

出土駒の(1)と(2)は、そのどちらでもなく、

”王様の王”に近いのは、(3)の鳥羽離宮135次の鎌倉時代
とされる、王将一枚だけである。
 そこで今回はこの、(1)と(2)の王将ないし一文字の王の、
”異常な書体”について、原因を論題にする。
最初に回答を書き、ついで、いつものように解説する。
 まず、以下が回答である。
興福寺の玉将ないし、その系統の玉将の書体を、玉の点だけ取り
除いて残りを(1)、(2)は真似たと見られる。
 そして大事なのは真似た理由だが、

玉の正字に近い形にして、朝廷の詔に対して、意識的に抵抗して
見せた

と考えられる。
 では、以下の以上の結論について、解説を加える。
 西暦1080年代に、大江匡房の原案に基づいて、平安小将棋
は、玉将を王将へ変え、酔象の廃止等が朝廷より、オフレの形で
出されたとみられる。だが、中央の政治勢力に対して、抵抗勢力
の強かった、

延暦寺や興福寺では、命令は”いつものように”徹底しなかった

と考えられる。すなわち、興福寺では1098年頃にも、酔象を
使う将棋が指されていたし、1098年物の出土駒に玉将が、た
またま、出土してい無いため、はっきり断定できないが、朝廷の
命令を無視して、玉将駒が使われ続けていたと、私は想象する。
 そもそも、将棋は当時賭博の一種だったので、棋士はアウトロー
が多かった。そこで元々、お上の命令や、寺の戒律に逆らう感覚
の人間が多かったので、

興福寺の駒師や、棋士のやり方は、京都府や滋賀県、大阪府の
将棋の駒師、棋士には当時、共感を持って受け止められた

と考えられる。実は、興福寺の西暦1058年物の出土駒の王駒
は、玉将ばかりで王将が無いだけでなく、

玉の字の中央横棒が、中央より下に来る、玉の正字である事を点
と横棒の位置で、”過剰に強調した書体”に、概ねなっていた。

 そこで朝廷の命令が、内心気に食わなかった、京都府と滋賀県、
大阪府のお寺の僧侶が、かなりの割合を占めると見られる小将棋
の駒師と棋士たちは、

表面上、玉の点を削除しただけで、玉の正字と本来より更に強調
して読める、王の字の中央横棒が、中央より下に来る、王を書い
た(1)や(2)の書体の駒で、将棋を指し続けた

と考えられるという訳である。形の上では、点が無くなったので、
”おう”とも読めなくは無かったのだろうが、中央横棒が、上の
横棒ではなくて、興福寺の下の横棒に近い、我々から見ると、不
可解な書体のままだったため、ゲーム中彼らは、その駒を相変わ
らず、

玉の正字の類と見て、”ぎょくしょう”と読んだ

と、推定できる。
 ただし、鳥羽離宮の賭博場等では、白河法皇が滞在している等、
朝廷の力が強く、さすがに朝廷の命令通り、王の中央の棒は、上
の棒に少し近づけて、王将に直したとみられる。そこで、(3)
の出土駒だけ、正しい”王将”になっていると、私は推定するの
である。
 なおその状態は、鎌倉時代も中期を過ぎて、詔がうやむやにな
ってしまい、単に、王の字の中央横棒は、真ん中にあった方が、
意匠として、見栄えがよいという事だけが、広範な識字層に認識
・理解されるようになると、(1)(2)も、逆の(3)も、
やがて、武家に識字層の広がった、鎌倉中期以降には、共に廃れ
てしまったとみられる。そして、

王と書くにしても、玉と書くにしても、中央横棒は、中央に引く
書体だけが生き残り、点があれば”ぎょく”、無ければ”おう”
と、我々21世紀の人間と、同じように読まれるようになってし
まった

と考えられる。
 以上の結果から、平安末期から鎌倉初期の頃には、将棋を指す
棋士は、治外法権のような場所で暮らしている、興福寺の僧侶の
ような立ち位置の人間が、少なくとも廃棄されてしまう、低級出
土駒史料を使っていた階層としては、多数派だったと、結論でき
るように、私には思われるという事になる。(2018/10/30)

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