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滋賀県大津市坂本城より将棋駒が出土(長さん)

久々と言うよりは、本ブログが開設して、恐らく初とみられるが、
全国の遺跡の中から又、将棋駒が出土したとの情報が入った。
 場所は、滋賀県大津市下坂本3丁目の、確か琵琶湖に面した
坂本城で、明智光秀が築城。本能寺の変で城が焼け落ち、西暦
1582年に廃城になった所の、三の丸の調査で発掘されたもの
との事のようである。
 将棋駒は、気品の有る、江戸時代以降風(つまり、当時の最先
端)の、恐らく成一文字金の桂馬駒とみられる。

玉将/王将類に、滋賀県では玉将の出土例が無いため、特に注目

していたが、今回の出土駒は残念ながら、その類では無かったよ
うだ。
 なおこの城は落城当時、光秀配下の重臣と、明智光秀の嫡男の
明智光慶が守りに付いていた。明智光慶は、豊臣秀吉方に攻め
られた際の、城への味方の放火のおりに、軍記等では味方によっ
て処分処刑され、明智光秀の跡取りは、とにかくこのとき、事実
上廃絶したとされている。
 なお本ブログの管理人は、別の所で表明した事が有ったが、
本当に、明智光秀の嫡男の

明智光慶が西暦1582年の、このとき死亡したのかどうかは謎

との見方を、以前から独自の見解でしている。全く飛び離れた、
栃木県日光市に、前半生の経歴がほぼ不明な、日光東照宮ゆかり
の僧、南光坊天海が命名したと伝えられる、”明智平”という
地名が有る事等、良く噂される”天海は、元々誰なのかという
議論”関連というのが、その主な動機だ。
 そこで、今回のこの将棋駒の出土に関連し、東京都台東区上野
の寛永寺付近にある、その

上野の寛永寺の開基・開山者としても著名な僧侶、南光坊天海
上人ゆかりの寛永寺開山堂へ行き、”坂本城の将棋駒に関して、
天海上人の存在が、そもそもの出土理由とも疑われるため、念の
ための感謝表明”

の御参りを東京都台東区上野へ行き、個人的に行ってきた。

寛永寺開山堂.gif

 そのあと、寛永寺中堂にも御参りした。堂内で、観光客向けの
ビデオが流れており、ちょうど、

東京都台東区上野の不忍池(しのばずのいけ)は、南光坊天海が、
滋賀県の琵琶湖を模して作成した、人手の入った天然池である

という音声が、入った所であった。不忍池と天海と滋賀県琵琶湖
との関係について、気になる方がおられたら、調査するなり、
東京都台東区上野桜木の寛永寺に、確認するなりされると、よろ
しかろうと私は考える。
 なお昨今は、東照宮裏山で著名な、栃木県日光市”明智平”付
近、いろは坂の紅葉も、だいぶん深まる季節となったように、私
にも伝えられている。(2018/11/20)

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将棋盤の足の形。水無瀬兼成駒が関連しては、い無いのか(長さん)

前に、将棋盤の足の形が蓮座型なのは、江戸時代からかもしれない
との旨の予想を、本ブログでした事があった。その根拠として、
絵画史料に関して、平安時代末から戦国時代中期の碁盤は逆L字型、
江戸時代の絵画や、将棋盤の現物はほぼ全部蓮座であり、江戸時代
草創期に入れ替わったと仮定して、矛盾しは無いことを挙げた。
今回は、その後の調査結果について報告する。結論として、

北野天神を配下に置いている曼殊院が、水無瀬兼成作の駒を使用す
る将棋盤として、北野天神縁起に記載の足型の将棋盤が、似合いで
あると宣伝したのが、そもそもの蓮座型普及の始まりではないか

という仮説を以下に提示する。
 理由は、

北野天神縁起に、蓮座とは形が同じでは無いが、逆L型では明かに
無い絵画史料があるのを、成書で私も見たから

である。
 では、以上についてより詳しく説明する。
 囲碁盤の足を描いた絵画資料を集めた成書に、前に一度紹介した
もので、次の書籍がある。

日本常民生活絵引 渋沢敬三著 平凡社(1984)

それには、逆L型の足を持つ碁盤が3点、鳥獣戯画の碁盤と、上記
で述べた、北野天神縁起の”火事場から避難させられた碁盤”の絵
が載っている。
 以下が、北野天神縁起の、裏側だけ描かれた碁盤である。

北野天神碁盤.gif

 話を最初に戻すとまず、逆L型の3点だが皆、増川宏一氏著書の、
ものと人間の文化史23-1将棋Ⅰ(法政大学出版局、1977)
に載っている。なお、将棋Ⅰには、将棋盤の足を論じているところ
で、6例の逆L型将棋盤の話または、絵画が紹介され(厩図も、数
に入れる)、将棋の渡来伝説、吉備真備説で、同入唐絵詞の逆
L足囲碁盤が紹介されている。そこで逆L足囲碁盤が、合計7例載っ
ている事になる。日本常民生活絵引を見ても、全部その中に含まれ
るから、

逆L型足囲碁・将棋盤は、平安時代末から戦国時代末に関しては、
発見されている絵画史料が、恐らくその7例だけなのであろう

と、私は想像した。数がそれなりに多い事や、日本常民生活絵引に
載っている中世の碁盤も、多くはこの形であることから、

逆L型足囲碁・将棋盤は、古代末期から中世の戦国時代中期までは、
ほぼ定番の形と言って良い

と、私も考えるようになった。
 次に、良く知られた鳥獣戯画(西暦1252年より前に成立)の
囲碁盤であるが、

L型ではなくて、丸い玉のような足だが、はっきりしない絵なので
良く判らないとしか言えない

と、私は思う。そこで、本ブログではこの鳥獣戯画の囲碁盤の議論
は、詳細には、し無い事にした。
 最後に残った、

北野天神縁起(西暦1219年成立)の
”火事場から避難させられた碁盤”の足の絵は、どちらかと言えば、
逆L型より、蓮座型に近い絵だ

と、私は思う。ただし、多角形ではなくて、丸い塊が先に付いてい
るだけなので、江戸時代の将棋盤と同じとは、言えない。中央クビ
レは、有るように私は見る。何れにしても、鳥獣戯画もそうだが、
この北野天神縁起の碁盤の足も、逆L型の普通の碁盤とは、足の形
が何故かは、私には判らないが、少し違って見えている。ただし、

両方とも単に、足になる材料を適当に見つけて使用しているだけ

というのが、理由の疑いも有る。
 しかしながら、仮に将棋盤の職人の誰かが、安土桃山時代の末に、
江戸時代流の将棋盤をたまたま作成して、”水無瀬兼成が売ってい
る、水無瀬将棋駒用である”と称して、追加セットにして売りつけ
ようとしたときに、

その将棋盤は、水無瀬兼成が作成した将棋図の元になる曼殊院配下
の、北野天神の縁起絵巻にある将棋盤を象っているので、曼殊院将
棋図にちなんでいる、水無瀬駒とセットで使うのが似合い

と、曼殊院に、推薦して貰えるような、安土桃山時代後期からの、
新型将棋盤になりそうな事だけは、確かではないかと思う。つまり、
珍しい碁盤の足の書いてある、北野天神絵巻の、その北野天神を、
配下として支配しているのが、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の元と
なった、西暦1443年将棋図の曼殊院というふうに、

将棋駒で名高い水無瀬兼成駒と、蓮座型に似た足の囲碁/将棋盤が、
”曼殊院”という共通項で、くくれる形になっている

のである。恐らく水無瀬駒は、安土桃山時代以降の上流階級の使う
将棋駒の、定番と言ってよいのではないか。だから上流階級が、
水無瀬駒を使うとき、”それを指すための将棋盤は、北野天神絵巻
の蓮座型足の将棋盤にすると良い”と言われば、元々金銭的には余
裕があるため金の力で、連座型の将棋盤を選択的に購入しただろう。
そしてその上流階級の将棋盤を、少し後の江戸時代の絵師が、将棋
盤の代表形として、北野天神縁起の碁盤の足類似の蓮座型将棋盤の
形で、縦線の切れ込みを加えて、描いているうちに、

江戸時代の特に、上流階級の使う将棋盤は、ますます蓮座の足型に
転換してしまったのではないか。

以上のように経緯を説明しても、特に今の所、少なくとも矛盾は無
いのではないかと、私には思えるようになってきた。つまり、

将棋の水無瀬駒の出現を境に、囲碁/将棋の盤の足の形が、逆L型
とか猫足型と言われる形から、蓮座とかクチナシと言われるものに、
転換しているのではないか

と私には、今の時点では疑われるという事である。(2018/11/19)

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今小路西社会福祉センター中将棋の成ルールはどうなっていたか(長さん)

前に述べたように、表題の鎌倉市今小路西社会福祉センター遺跡
出土の、従来判読不能とされた木簡は、14世紀半ばの、言うな
らば、南北朝中将棋の内容を記載したものと、本ブログでは推定
している。念のために、この狛犬型中将棋の初期配列を書くと、
5段目以下が、次のようになっていたとみられる。

5段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口仲人口口口口口口
4段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
3段目:横行堅行飛車龍馬龍王狛犬奔王龍王龍馬飛車竪行横行
2段目:反車猛豹角行口口盲虎麒麟鳳凰盲虎口口角行猛豹反車
1段目:香車鉄将銅将銀将金将玉将酔象金将銀将銅将鉄将香車

なお、この時代には、中将棋にもまだ鉄将が存在して、96枚制
だったのではないかと、本ブログでは一応推定する。
 ところで以前同様に示したが、まだこの時代、飛鷲、角鷹、
飛鹿、一例・走兎、白駒、鯨鯢、飛牛、奔猪等の成り駒名は、無
かったと見られる。では、これらの駒は、敵陣の4段目に入ると
き成り、その次には成れないが、敵陣内にて相手駒を取った時等
には成るが、具体的に、とんな駒に成るルールだったのだろうか。
すなわち、この将棋の成りのルールがどうだったのかを推定して、
実際にプレーできる程度まで復元する事を、今回の論題とする。
 最初に回答を書き、その次に説明を加える。
以下のように成ったと、本ブログでは推定する。

5段目:口口口口口口不成口口口口口口口口不成口口口口口口
4段目:金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将
3段目:不成不成不成不成不成不成不成不成不成不成不成不成
2段目:不成不成不成口口不成獅子奔王不成口口不成不成不成
1段目:不成不成不成不成不成不成太子不成不成不成不成不成

なお、ひょっとすると歩兵も不成だったのかもしれない。つまり、

この成りパターンは、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の後期大将棋
と同じ

である。
 では、以下に以上の結論について、説明を加える。
 かなりの不確定性があるが、今の所本ブログでは、

普通唱導集大将棋の成りのルールが、西暦1290年から、
西暦1350年の間で、大きく変化した

とみている。つまり、普通唱導集大将棋に有る駒は、上記の、
鎌倉市今小路西社会福祉センター遺跡で、西暦1350年頃のバー
ジョンと見られる南北朝中将棋でも、同じになるように、ルール
が援用されると見るのであるが、成りのルールについて、

基準となる普通唱導集大将棋のルールに関して、西暦1350年
時点での、普通唱導集大将棋のバージョンが適用される

と見るのである。具体的には、
 西暦1290年頃には、二中歴の大将棋とほぼ同じ成りルール
であった普通唱導集大将棋は、結論を言えば、西暦1320年に
は、飛車、角行、竪行、横行が金将成りとなって、足利尊氏時代
の、成りの多いパターンになった後、西暦1350年頃以降には、
逆に今述べた駒に加えて、少なくとも将駒と、桂馬、香車、反車、
仲人の金将成りが、逆に急に消失して不成となり、

のちの、後期大将棋のパターンと同じになって行った

と、ここでは見ているのである。従って、問題の南北朝中将棋も、
一応1350年盤の後期大将棋型に成るとみられる、普通唱導集
大将棋の成りが適用されて、結果として、

麒麟、酔象、鳳凰、と、もしかして歩兵の4種類の駒だけが、
獅子、太子、奔王、金将(と金)に成るだけだったのではないか

と、ここでは見るのである。
 無論相当の不確定性があるから、以上の論は確度は低い。だか
ら今、このタイプの将棋を楽しむ程度なら、

獅子に関する特別な規則を除外した上で、獅子を狛犬に入れ替え
て、後は普通の中将棋のルールで指しても、木簡の記載に合って
いるので、良いとも言える

のではないかと、少なくとも私は思う。
 ちなみに、本ブログでは、同じ鎌倉市の鶴岡八幡宮遺跡から
出土した5枚の将棋駒は、成りのパターンから後期大将棋系では
ないかと見ているので、これらの駒が、

実は後期大将棋用ではなくて、鎌倉市今小路西社会福祉センター
遺跡1350年頃用の、南北朝中将棋の駒だと見なしても、
当然矛盾は起こらない

事になる。
 なお、西暦1420年代の”奔王を出して勝つ将棋”は、鳳凰
の成りの書体が楷書だと、元駒の奔王がどちらかなのかが、判ら
なくなって将棋具としてまずいため、鎌倉鶴岡八幡宮遺跡出土駒
を使ってする将棋では無かったのだろうと以前述べた。足利義持
の御前で指された将棋は、以上のべた南北朝中将棋が、このあと
更に進化し、今の中将棋に、より近くなった形の物だろうと、私
は推定する。
 話を元に戻すと、今話題にした”南北朝中将棋”は、香車や鉄
将が、後戻りできないで、相手陣奥で、身動きできないのが気に
なるが。これでもゲームとしては、ひどくおかしいものとまでは、
行かなかったので、今小路西社会福祉センター遺跡に対応する、
南北朝時代の遊技場では、これで将棋が指されたのかもしれない
と私は思う。(2018/11/18)

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将棋纂図部類抄の桂馬の点。動きルール±2,2の動かぬ証拠か(長さん)

だいぶん発表され、それから時間が経ったが、大阪電気通信大学の
高見友幸氏により、大阪府島本町教育委員会編集の将棋纂図部類抄
(以下”水無瀬神宮所蔵の正調・将棋纂図部類抄”とも記載)の
チェックが行われ、当時の桂馬のルールが、現在の相対X,Y座標
表記で±1,+2型ではなくて、表題のように±2,+2型であっ
たとの説が出された。将棋纂図部類抄には、そのほかに、
加賀前田藩書写本があり、”桂馬の二番目の点が、上に向いている”
等で、(故)溝口和彦氏が、この説に異議を唱えていたことでも
知られている。本ブログとしては、水無瀬神宮所蔵の正調・
将棋纂図部類抄が、比較的源流に近いと見ているため、

事実としては、高見氏の言い分に理が有る

との立場である。しかし、桂馬がこのようなルールだと、本ブログ
の普通唱導集大将棋の第2節の解釈は、当然おかしくなるし、二中
歴の”前”の字を、古流の解釈である”前進”と意味が同じという、
本ブログの見方とも合って居無い。
 ではそもそも、図として、±2,+2型に見えるように、行き先
ルールの点が打ってある古文書が存在するなら、確実に桂馬の動き
ルールは±1,+2型ではなくて、±2,+2の、動かぬ証拠かど
うかを、今回は論題とする。最初に結論を書き、後で説明を加える。

動かぬ証拠とは言えない。理由は将棋六種之図式に、桂馬のルール
が±2,+2型になるように、点が打たれた図があるからである。

では、以下に説明を加える。高見氏の論は、前提として、

±2,+2型になるように点が打たれた図について、完全に写実的

であるとの仮定があると、私は思う。しかし桂馬のルールに関する

この仮定は将棋六種之図式に±2,2型の図が有るから正しくない

のではないか。すなわち将棋六種図式は江戸時代の文献であるから、
安土桃山時代の水無瀬兼成の将棋纂図部類抄を写す筋合いも無いし、

そうしたとの記載も無い。

水無瀬の業績は、国会図書館蔵の将棋六種之図式でも言及されてい
るが、将棋纂図部類抄を紹介してもいない。先行文献の紹介の後、
一般的に古将棋のルールを、将棋六種之図式という独立の書物で、
江戸時代の著者が、記載を続けているに過ぎないと私は思う。
 そして、将棋六種之図式が成立した時代には、将棋の家元が存在
して棋譜があるし、類似棋書の諸将棋図式の、”酔象を入れて42
枚制の小将棋の図”を、将棋盤に示した図の中に、

この別の棋書には、桂馬の駒の行き所のルールが、X,Y座標表記
で±1,+2型であると明記

されている。従って、±2,+2型を自明には連想させる、点を打っ
たルール図は、一般的に実際の桂馬のルールが、

±2,+2型かまたは、±1,+2型のどちらかであるという証拠
にしか、依然ならない

と、私は思う。なお近年作成された、増川宏一氏所蔵の教育用の桂
馬の駒に点を打って示したルール図には、もっと写実的に、桂馬の
前方に、点を2列に3点ずつ打ち、黒丸を左右の前方の2点だけに
付けたものも、あるようだ。
 従って、中世に桂馬が

±2,2型である事を、確定するには、もっと確実な証拠が要る

事は確かなのではないかと、本ブログでは考える。つまり、

高見氏の説は、古代の桂馬のルールに関して、現行の定説では疑問
と結論される材料の一つを、単に示したに過ぎなかった

のではないかと、本ブログでは疑っているのである。(2018/11/17)

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日本の将棋に”舟”駒が無いのは何故か(長さん)

本ブログの見解によると、現在の中国雲南に中国の北宋、日本の
平安時代後期に有った大理国から、現在の日本の将棋の源のゲー
ムが伝来する以前の10世紀程度にも、東南アジアのカンボジア、
アンコール王国等から、散発的に土地の将棋が漂着していたと
している。所で、カンボジアやタイの将棋の車駒は、少なくとも
現在は舟になっている。飛車の動きで香車相当の車駒が、当時の
アンコール王国等でも舟という駒だったかどうかは、正確には判
らない。が、漂着したものの廃れ、今では日本人一般には”異形
の駒名称”のカテゴリーとなってしまった、東南アジアの将棋の
舟が、必要な駒名称数に欠乏感の強い、後の大大将棋・泰将棋等
にも、取り入れられなかったとしたら、理由は何だったのであろ
うか。以上を今回の論題とする。最初に本ブログの見解を書き、
その後で説明を加える。答えはこうである。

日本人は江戸時代の末まで、舟で攻めてきた外国の軍団に、国内
が占領された経験がたまたま無かった。そのため、舟という名称
の将棋駒名に、コワモテするようなイメージを抱けなかったため

と本ブログでは考える。では以下に、以上の内容についての説明
を加える。
 現在知られている日本の将棋で、舟に関連の有りそうな駒名は、
和将棋の牛車の成りの、前牛だけである。前牛の前は別字で、止
の下に舟であるが、一応”前牛”の事だと見られる。ただし、江
戸時代になると、東南アジアの象棋の情報も、それなりに増加し
たであろうから、東南アジアの象棋の舟駒が、漢字の一部に有る
字を、車駒の類である、和将棋の牛車の成りに入れたとは、一応
推定は出来る。ただしこの程度では、舟駒を日本の将棋の駒名と
して使うという文化の存在が、中世から有るとは言えないだろう。
 ところで、日本の将棋では、将棋の駒名として、戦力になりそ
うな名前のだけが、取り入れられるという性質がある。一旦は
一部の将棋種の駒名となっても、その名称に恐怖感が有るという
性質が、全く無いと、後続の将棋種に、取り入れられ無いと言う
共通性が、必ずあると私は認識するのである。日本の将棋に、
西洋流の城駒や、僧侶駒、農夫駒が無いのは、そのためだと考え
られる。
 他方、カンボジアの将棋が10世紀までに、日本に一度も漂着
した事が無かったとは、私にはとても考えられない。以上の点で、
個人的には、将棋史研究家の増川宏一氏に私は賛成する。しかし、
舟というカンボジアの駒種に接した、海岸端に居住する日本人の
記憶が、他人に伝わらなかったから、舟駒は、日本の将棋駒の名
称として残らなかったとしか、少なくとも私には考えられない。
その理由としては、別の日本の将棋の駒名の、名づけのパターン
から、やはり、

舟という”武器”に対して、中世以前の日本人には、恐怖感が無

かったからだとしか、私には考えられない。日本人自体は、中国
や朝鮮半島の海岸を、倭寇として荒らしまわって、外国人へ武器
としての舟の、恐怖感をかなりの程度与えたのだろうが。逆に、
モンゴル帝国の来襲時も含めて、船団でやってきた、外国人の軍
隊に、日本の少なくとも領土の一部が占領される事が、その可能
性を含めて、日本の江戸時代の末までは現実無かった。そのため
に、舟という将棋の駒名が、恐怖感の有る事物と認識される事は
ほとんど無く、その関連熟語が駒名として残らなかったのでは、
あるまいか。
 そのうちに、中国雲南の大理国の将棋で、舟駒が車駒の将棋が
伝来してきた。その時代には、日本の朝廷の宮廷人が、車を使用
する時代になっていたので、車駒は、その上に武器を持った兵隊
の群を乗せて走る物といったように、武器として想像する事の可
能な事物になっていたのだろう。逆に言うと、奈良から平安時代
にかけては、移動用の車もあまり無かったため、吉備真備が、
イスラムシャトランジを長安等で学んで帰ってきても、”終盤に、
それで王を追い掛け回す、車”と、指し方のコツを聞いたところ
で、”車”と言う駒名の意味も、謎であったのだろう。それもあっ
て、8世紀程度では、日本には将棋類が伝来しがたくする要因に、
なったのかもしれないと、私は推定する。
 逆に言えば、前世紀の1977年に著作された、増川宏一氏の
将棋歴史書、ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰ、法政大学出
版で、”香車駒は、その存在が謎”と記載されているのは、日本
への将棋の伝来時期の定説が、数世紀程度とされるから、謎なの
であろう。つまり将棋の伝来時期が、数世紀から西暦1000年
前後に切り替わってしまうと、書いている増川氏にとっても、伝
来時期の定説が、貴族の乗物としての車の発生時期以降にシフト
しただけで、簡単に謎では無くなってしまったという事なのであ
ろう。(2018/11/16)

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将棋盤の足の蓮座型。近世になってからなのでは無いか(長さん)

前に、中国の碁盤の足と日本の碁盤の足とが、前者が典型的には
床脚、後者が仏座の台座の蓮座型であるのは、仏教の影響力が、
日本の方が強いためとの議論を、本ブログでした事があった。
 しかし、文献を良く調べてみると、今述べた事は、一般論とし
ては正しいのかもしれないが、日本の中世に、中国と日本の碁盤・
将棋盤の足に、仏教の影響力という意味での差が有ったとの、確
かな証拠が無いのに、遅ればせながら本ブログの管理人にも、判っ
てきた。
 増川宏一氏の代表著書、ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰ
に、将棋盤の足の形についての、変遷の説明が載っている。それ
によると、将棋盤の足は、

平安時代から室町時代まで、逆L字型であって、蓮座型では無い

という。なお、同著書のこの部分で、増川氏は西暦1500年頃
とみられる、”厩図の将棋盤に足が無い”と記載されているが、
私の認識だと、

西暦1500年頃の厩図の将棋盤の足も、逆L字に書いてある

と認識する。つまり少なくとも

安土桃山時代前期まで、日本の将棋盤に仏座の台座の蓮座型の物
が有ったとの確たる証拠が、ひょっとして、無いのではないか

と、最近になって私には、疑うようになってきたと言う事で
ある。たとえば、”戦国大名の遺宝”山川出版(2015)の、
増川宏一氏記載のパートにも、足の有る将棋盤の現物の写真は、
江戸時代のものしか載っていなかったように思う。そこで確かに、
日本と中国で、碁盤や将棋盤の足の形に差があるのは、一般論と
しての、仏教勢力の相対的影響力の差だとは言える。しかし個別
には、日本の将棋盤の足が、仏座の台座の蓮座型であるのは、

江戸時代に、将棋の家元が寺社奉行管轄であったため程度の理由

であるという仮説を、これでは完全に否定できるほどのものでも、
無いように思えると言う事である。
 実際には、安土桃山時代の将棋盤や囲碁盤の脚がどうなってい
たのか、

事実認識そのものを、もう少し正確にすべきなのではないか。

以上のように、この問題については、さいきん私は考えるように
なってきたのである。(2018/11/15)
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鳥羽離宮(59次)遺跡の裏墨跡金将。裏は一文字”成”か?(長さん)

前に、鎌倉時代末期のものとされる、京都市鳥羽離宮出土の
金将は、裏にも墨跡があり、飛車であるなら、中将棋の初出
かもしれないとの旨を、本ブログで述べた。その後、草書体
の常用漢字辞典をあたり、この裏側の墨跡について、微かに
特徴として残された、上部の△模様を頼りに、表題のように、

”成”の崩し字とも読める事が判った

ので、以下に報告する。
私が今回あたった辞書は、以下のものである。

亀田秋陽著。漢字・くずし字早わかり辞典(2013)。
メトロポリタンプレス発行

 上記辞書によると、△型の出る草書にしたときの漢字とし
て、他には土を中央含む字がある。一応、将棋駒に出てきそ
うな字で、可能性が高そうなのは、”成”のケースだけであ
るようだ。
 下の写真は、私がマジックインキで書いた、△部分が”成”
の草書の何処なのかを説明した、模式図である。

成草書.gif

 なお成書の一部で指摘されている、”飛”の崩し字でも、
三角が一番上に出て来るように出来る可能性も有るが、反時
計回りに45°位回転した、別の形になる可能性が高いと、
私は思う。
 それに対して成りの草書で△が有るのは、伐の字の作りの
部分が、∫のような形に、なるからのようである。なお以上の検
索時、△以外の部分で本物の墨跡は、介の字の第1画目に見
える部分程度と考えた。すなわち残りは、2文字目に見える
延のニョウに見える部分も含めて、墨が、木目の隙間に侵入
したためのニセモノと仮定した。
 ところで、今問題にしている、鎌倉時代末期の京都市出土
の金将駒の裏に”成”と書いてあった理由であるが、次のよ
うに、今の所は考えている。

すなわち、この将棋駒具では、玉将を除いて全部の駒の裏側
に、ひょっとして、これと同じ字体で”成”と書いてあった

のではないか。つまり、駒の形だけで区別する、飛車角の無
い、持ち駒ルール有りの時代の、平安小将棋用の駒だったの
だろう。
 本来何も書いてないのが正常な金将にまで”成”を書いた
のは、たまたま、それで良いと見て作った駒なのか、あるい
は、木地だけで、未使用の駒が同じ道具箱の中に入っていた
ので、実使用する物である事を強調するためかもしれない。
 従ってこの駒自体は、

鎌倉時代の末期に飛車成り金将が有ったという証拠としては、
それに当たる可能性の、比較的少ない駒

なのではないかと、私には思えるようになってきた。なお、
この駒の現物を、この2018年の12月9日まで、
京都府立山城郷土資料館の展示会にて、一般公開しているら
しい。(2018/11/14)

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(写真の説明)地球の温暖化に追われる生物達

本ブログの写真は、S□ny社のハンディカムで撮影している
が、カールツアイスのレンズが暗いので著名なのと、当方の
腕が悪いのとで、余り鮮やかな写真が撮れない。申し訳ないの
で、出土史料等ではなく”自然”を一枚撮影して、ブログの左
に置いてみた。この写真の意味は地球の温暖化で、昆虫類の発
生の調子がおかしいというものである。撮影は、2018年の
11月12日に、関東の市街地でした。写っている昆虫の名前
は、アサマイチモンジ蝶の第3化と言われるものとみられ、市
街地では、埼玉県さいたま市大宮区で、私は昔見かけた事が有
るが、比較的珍しいものだ。只の、イチモンジ蝶も、都市には

アサマイチモンジ.gif

余り居無い。この昆虫は通常は、この環境では10月頭程度に
出現する。一月以上遅れたのは、さいきん異常に暖かいからだ。
 なお、いっしょに写っている植物はフリージアの葉で、冬に
緑色の葉がフサフサの、この球根の葉が、こんなに伸びている。
近くに、当方のネームプレートとしても使用している、小菊も
八部咲きだったので、こっちにいる所を撮影すれば、なおさら

異常が強調された

のかもしれない。
 このブログの管理会社に免じて、S□ny社のハンディカム
は、普通の写真なら結構良く撮影できる点を、とりあえず強調
しておくことにする。(2018/11/13。その2)

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大大将棋に酔象が無いのは何故か(長さん)

本ブログも、これまで駒数多数将棋の個別の駒種の謎を、多数取
り上げて来た。がしかし、たまに聞く表題の件につき、回答を与
えた事が、未だ無かったようだ。そこで今回は、大大将棋の特徴
の一つとして以前から著名な、近王に置き換わっていて、成り太
子酔象が、この将棋種に無い理由についてを論題とする。
 本ブログの回答を、いつものように最初に書き、説明をその後
で加える。

ずばり、大大将棋の作者は、摩訶大大将棋で酔象の成りが、太子
ではなくて、王子になっている理由を知っていたから

だと、本ブログではみる。つまり王子にした経緯を聞いた大大将
棋の作者は、

釈迦を意味する太子を、自ら作成した将棋ゲームに加える事に対
して、嫌気がさした為

だという事である。なお、摩訶大大将棋に習って、太子を王子に
変えると、摩訶大大将棋に関する、言い伝えの残っている時代の
ため、摩訶大大将棋の方が、大大将棋より古いのが、ばれるので、
それはできなかったと見られる。
 それでは以下に、以上の内容につき説明を加える。
 本ブログの見解では、大大将棋の作者は、書家であり、恐らく
寺院に関連のある人物である。また作成された時代は、水無瀬兼
成が、生まれた後だと、本ブログでは推定している。大大将棋を
水無瀬兼成自身が、新しいという事が判らないように、デザイナー
の了解のもと、一部手直ししていると、見ているのである。また、
大大将棋が、せいぜい戦国時代末期から安土桃山時代のものであ
る事は、水無瀬兼成作である泰将棋と、将駒の並びが似ている事
や、同じく、水無瀬兼成の将棋馬日記の、駒数多数将棋の大阪城
からの注文に関して、駒木地の枚数を集計する際に、摩訶大大将
棋と泰将棋の間に挟んで、大大将棋の駒の数を加えている等、
複数の証拠がある。
 なお泰将棋が水無瀬兼成作である事は”将棋纂図部類抄の行然
和尚まとめ部”の、水無瀬兼成自身による、成りを中将棋のパター
ンで、とどめたいがゆえの、大将棋の駒数の改変(記載された
将棋種の、実質的交換)から判る。
 従って、本ブログでは西暦1443年には存在したと見られる、

摩訶大大将棋より大大将棋の方が、新しい事は確か

だと考える。他方、大大将棋の作者は水無瀬兼成と繋がっている
し、また、そもそも将棋のゲームデザイナーなのであるから、
摩訶大大将棋だけ、

酔象の成りが太子ではなくて、王子になっている理由について、
かなり詳しく知っていたと見るのが自然

である。その理由であるが、本ブログでは、前に天文の錯乱とも
言われる西暦1532年頃の、浄土真宗系の一向宗の門徒による、
奈良県侵攻時に、それ以前は太子成りであった、摩訶大大将棋の
酔象を、十市氏や筒井氏といった、反一向一揆派の在来武闘勢力
を束ねるための政治的な意図から、

摩訶大大将棋の自在王を世自在王になぞらえて、玉将を浄土真宗
流の阿弥陀如来に仕立てた上、”仏教宗派闘争という、そもそも
教祖の望まない戦闘による、殺性を毛嫌いする釈迦が、将棋駒の
構成要素から抜けて、善財王子等に交代した”というルール変更
話を、実際にそれをして見せた上で、奈良県の在来勢力の親方格
が、その時代に作りあげた

のではないかという仮説を、述べた事がある。なお善財王子は、
善財童子が、近畿地方の熊野信仰と習合した物と、ここでは見る。
つまり奈良一向一揆、撲滅作戦時の戦意高揚に、奈良県では
摩訶大大将棋が、西暦1532年頃に政治利用され、そこから広
がったのが、太子から代わった摩訶大大将棋の王子だったという
事である。
 もちろん元になる話が、今述べた仮説に間違い無いと、特定す
ることは困難だろうが。この例に限らず元々、

殺生も原因となる死の苦しみが、出家の原因である釈迦が、
合戦行為を模した将棋に、駒種として加わる事の不自然さ

が、太子から王子への転換であろうと言う一般論自体が、尤もら
しいと思われるのは、充分に確かだと私は見ている。だから、
”そもそも将棋一般に、太子があること自体が、おかしいのでは
ないか”という議論が、何らかの経緯で、安土桃山時代頃までに
は発生したと考えるのが、自然なのだろうと考える。
 そして、大大将棋の作者もまた寺院の関係者なら、駒数多数将
棋に釈迦が入っているという事に対し、今述べた釈迦の性格が、
追随への疑念を感じさせる、原因になったのではないか。そのた
め、摩訶大大将棋の、酔象の成りの変更の、上記仮説例に限らず、
とにかくその経緯を知っていた大大将棋の作者は、以上の思考で

大大将棋には、酔象を入れる事自体を止めた

のではないかという結論自体に、不自然感が無いと私は考えるの
である。
 ただし、彼は象駒が将棋に有ってはならないとは考えなかった
のだろう。そのため、釈迦の伝説に関連の深い、酔象という駒は
構成要素から外したのだが、その代わりに、仏教上の聖人の名と
しても名高い香象や、イメージの良い白象は、大大将棋で新たに
追加したようだ。
 なお、水無瀬兼成の方は仏教徒ではあっても、寺院関係者では
無かったし、中将棋の流行を加勢して、自身も駒師として身を立
てたいと思っていたので、泰将棋では、酔象や太子を排除しなかっ
た(2枚にした)と私は見る。
 従って以上の事から、大大将棋に

成り太子酔象が無い事もまた、この将棋が摩訶大大将棋より後

の作である事を示唆している証拠の一つなのではないか。以上の
ように、今の所私は、考えているという事になるのである。
(2018/11/13)

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今小路西社会福祉センター遺跡木簡。消失した三枚目は有るのか(長さん)

既に本ブログで述べたように、表題の神奈川県鎌倉市市内の今小路
西遺跡、社会福祉センター出土の木簡または木札は、様子では割れ
ていた、2片からなっていたとみられるものである。本ブログの読
み下しによると、”近く”の近の字が、2枚目の札の右の方で切れ
ていたり、1枚目の猛豹の”う”の字が下の方で切れていたりする
ので、擦り切れが多少有ると見られる。では、この木簡または木札
は、その程度の破損であって、これ以外にも、このシリーズの別の
木片がまだ有ったのだが、3枚目以降については、消失したという
事は無いのだろうか。以上の疑問を今回の論題とする。
 最初にいつものように回答を書き、後で説明を加える。

これだけであって、3枚目以降は恐らく存在しないと、本ブログ
では推定する。

では、以下に説明を加える。
 ようするに中将棋のルール説明とみられる、この木簡または木札
の説明が、以下の形で言い尽くされているかどうかだと考えられる。

鎌倉木簡.gif

本ブログでは、狛犬と猛豹と盲虎の説明で、この木簡または木札が
作成された時点での、中将棋のルールは、基本的に言い尽くされて
いるのではないかと、推定する。理由は、

狛犬、猛豹、盲虎、この3種類だけ言及しさえすれば、
西暦1300年頃の普通唱導集大将棋に無く、問題のプロト中将棋
にはあると見られる駒が、全部出てくる

と、少なくとも本ブログでは認識するからである。ようするに、
この木簡は、初心者にルールを説明するためのものではなくて、

鎌倉今小路西の、この遊戯場で、どのバージョンで、中将棋類を指
す事になっているのかを、来場者に周知徹底するため、この遊技場
の主催者が作成したと見られるもの

だと言う事である。
 従って、

これ以上のルール説明は、普通唱導集大将棋と、狛犬のルール、
猛豹のルールを予め教わっていて、以上を知っている者には、特に
必要ない

と考えられると言う事である。恐らく、この木簡は西暦1350年
頃のものだろうが、このプロト中将棋には、成り駒の、飛鹿、飛鷲、
角鷹、飛牛、奔猪、白駒、鯨鯢も、まだ無かった時代のものなので
はあるまいか。以上の点でこの、昔から皆にアクセス可能だったが、

成書に堂々と載り放置されていた今小路西遺跡の、木簡または木札
は、将棋史、特に黎明期の中将棋の様子を知るには、最重要な史料

だった可能性が今の所、簡単には否定は出来ない、状況なのではあ
るまいか。私は以上のように考えるのである。(2018/11/12)

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