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戦国時代の将棋の棋士は、本当に全員字が読めたのか(長さん)

将棋を指すのが庶民層に広がった時代に関しては、諸説あるが、
本ブログでは、鎌倉時代の鳥獣戯画の頃からであると見ている。
それ以前は、識字の出来る古代の武家が将棋を指し始め、貴族
と僧侶の識字層に広がったと見る。鎌倉時代の鳥獣戯画の書か
れた頃に、僧侶に教わりながら、小将棋の字だけ庶民が読める
ようになり、庶民にも将棋が広がりだしたと、ここでは見てい
るのである。では、一乗谷朝倉遺跡の頃の、戦国時代中後期に
は、僧侶や城主に教わり、字が読めるようになってから、下級
武士等皆が将棋を指したと言えるのかどうかを、今回は論題と
する。
 回答を先ず書くと、

字を読むのが、すこぶる苦手な、駒師と棋士が一乗谷には居た

と推定できる。
 そこで、以上について以下に説明を加える。
 一乗谷朝倉氏遺跡から、香車の字が削られた、裏やや崩し金
香車駒が出土しており、この駒の作者は、たぶん香車という字
を読もうとしていないと、推定される。

一乗谷香車.gif

 この、木地への習字を無視して、形を切った駒には、書き師
に対する、駒師の、香車の大きさのデザインに関する、

怒り

が、ヒシヒシと感じられる。
 つまり細長い形で無いと、香車だとはピンとこないと、認識
するにも係わらず、幅広の”ミヤコ気取りの駒”用の習字をし
た、書き駒師への怒りと言った所だろうと、私には見える。
 そこで駒師は、最初の幅広の香車駒を、わざと、片方の側だ
け削り落として、

香車の字の切れた、細長い、彼に言わせれば、正常な形の香車
駒に”暴力的に”作り直してみせた

といった所だろう。つまり、駒師にとっては、香車駒は、形で
判断すれば良いのであり、

香車という字が、正常に表示されていなくても、さして目障り
ではない

と見ていた事になる。なお、この出土駒では、裏の金の書体は
と金である歩兵と区別できるように、成り金の金までは、切れ
るように、挟みを入れて居無い。つまり、依然として、

普通の持ち駒ルールの、日本将棋用の駒としては使える

と、駒師は認識していると見られるのである。
 以上の事から、一乗谷の恐らく朝倉館の中間部屋には、金
程度しか、字が判らないが、将棋駒は形で区別して指せる、
識字力が、ほぼ無い棋士や駒師も居たと、推定できるのではな
いかと私は考える。
 将棋駒の場合、字の代わりに絵を描くなどしなくても、将棋
駒の外見で、立体駒式に、有る程度駒の種類が判別できた。
だから、少なくとも10通り程度しか駒種名の無い、日本将棋
や朝倉小将棋を指すのに、識字のハンデは、さほど無かったの
かもしれないと、想像される。(2018/11/03)

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