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将棋駒の盲虎。普通唱導集大将棋時代に何故出現できなかったか(長さん)

本ブログでは、中将棋の出現時に盲虎が成立したと考えている。
 つまり、普通唱導集の時代の13升目108枚制の大将棋、
仮説普通唱導集大将棋に有る虎駒は、猛虎だったと考えるとい
う事である。しかしながら、もしこの時代に猛虎が盲虎になっ
ていたとしたら、普通唱導集第1節の意図する、”香車と反車
が耳を破り、飛車を退け”て、次に成麒麟を作っても、それで
玉が成り麒麟に捕まってしまうと、自明には言えなかったはず
である。つまり猛虎に、盲虎のような守り駒としての性能が無
いからこそ、こう表現できた、普通唱導集の大将棋唄だと考え
ると言う事である。しかし、”猛虎の4方向歩みの、方向数を、
もっと増やして盲虎の7方向にすると、ゲーム性が改善される”
という事を、西暦1300年頃には考える事が難しかったとは、
とても思えない。ではなぜ、そうしさえすれば良い、虎駒の
変更が、中将棋の時代まで行われなかったと考えられるのかが、
今回の論題である。
 そこで、いつものように最初に答えを書いて、後で説明を加
える。まず、以下が答えである。

普通唱導集大将棋は二中歴平安大将棋の駒にほぼ、適宜別の駒
を加えて作られるべき将棋であり、その枠組みをはみ出す改善
は、棋士に支持されなかった。そのため、猛虎の動きに問題が
あっても、盲虎に変更する事が難しかった

と考えられる。
 では、以下に上記の結論につき、説明を加える。
 まず、獅子の動きの駒である麒麟の成りの獅子が考え出され
た時点で、虎駒が猛虎より盲虎の方が良い事は、ほぼ間違い無
い話である。だから、ゲーム性が常に優先されて、将棋ルール
が決まるとすれば、虎駒が猛虎のままで留まるという事は、有
り得ない。従って、

二中歴の大将棋の記載というのは、西暦1300年時点で、ゲー
ムルールを決める、原典として最重要視され、そこからはみ出
す事が難しいという事情が無い限り、普通唱導集大将棋第1節
の内容を、矛盾なく説明する事は難しい。

恐らく、大将棋のルール本として、よりどころになる情報は、
西暦1300年には、二中歴の内容しか、存在しなかったと、
結論せざるを得ないと私は思う。だから、

普通唱導集時代の大将棋で、銀将前升目の位置の駒は必ず、
猛虎で無ければならなかった

のであろう。ちなみに、隣に牛駒を置き、たまたま雲南省の
豪族の名前の一字をとって、猛牛としてしまったために、鬼門
でペアーになる、12支という意味での虎駒の名前としても、
猛虎の方が、別の字を書くよりも、ゲンが良いと言う事も、
猛虎を盲虎に変えにくい要因に、なったのであろうと見られる。
何れにしても、だから、

”大将棋は、二中歴大将棋が骨格となるべき”という時代には、
盲虎を採用できなかった

と、私は見るのである。
 それに対して、中将棋は、本ブログによれば12升目96枚
の駒で作る事から出発した、13升目108枚の駒の将棋、
普通唱導集大将棋とは、別の新しい将棋と、最初から見なされ
た。そこで、大将棋の駒種や配列を参考に作るにしても、中将
棋では、駒名を平安大将棋に、完全に合わせる理由が無くなっ
たと言える。だから、

中将棋にも獅子に成れる麒麟があるため、虎駒が猛虎より盲虎
の方がよければ、それだけの理由で盲虎を採用する事が出来た

と、考えられる。
 そのため、中将棋の時代に始めて、盲虎が現われたと、本ブ
ログでは考える。
 だから逆に言えば、前に述べたように、中将棋のごく初期の
形が、今の形とは完全に同じで無く、

成って出現する獅子はあるが、元駒の獅子が無くて、狛犬に置
き換わったような初期変則中将棋の時代でも盲虎は出現できた

と私は考える。つまりこの事は、

盲虎が出現したのは中将棋の時代だが、原因は成り麒麟の獅子
の存在のせいだったと、厳密に考えると、そう言える

という意味である。たとえば鎌倉市今小路西遺跡の墨跡木簡に、
”盲虎のルールの強調”のような、記載の跡が見られるのは、
今述べたような、事情によるものかもしれない。(2018/11/08)

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