SSブログ

中将棋。遊学往来に言及あるが、康富記まで対局記録が何故無い(長さん)

増川宏一氏の将棋の歴史(2013)によると、南北朝時代の
遊学往来(1372年より少し前、岡野伸氏)が中将棋の初出
であるが、公家の日記等に、対局記録が現われるのは、西暦
1443年の中原康富の康富記が初出だという。そのため、
中将棋の記録(一。自費出版。2004年)の著者である、
岡野伸氏は”遊学往来の中将棋の文字は、後世の加筆ではない
か”と疑っておられる。今回は、前に紹介した、鎌倉市今小路
西遺跡木簡等の内容も踏まえながら、中将棋の日記対局記録が、
遅かった理由を論題にする。
 いつものように、結論を先に書き、説明を後で述べる。

駒数多数将棋は、ルールのコンテンツとしての分量が多くなる
傾向が強いため、亜流ゲームを作りやすく、標準平安小将棋の
強かった京都では、一本化に100年位掛かったのが原因

と、本ブログでは考える。
 では以下に、以上の結論に関して説明を加える。
 本ブログでは、西暦1320年頃に、普通唱導集大将棋が、
自明定跡の発生という、ゲーム性の難点から衰退し、いわば
モンゴル帝国来襲時代の、カリスマが去って以降、

駒数多数将棋に関しては、戦国時代がしばらく続いた

と、見ている。鎌倉市今小路西出土の木簡または木板の、

”志ろいぬ”駒と疑われる文字の存在は、それを支持するもの

であろう。異制庭訓往来の虎関師錬の駒数多数将棋に関する記
載も、この考えと大きく矛盾するものではない。
 他方、京都はもともと、初期院政の時代に発生したと、ここ
ではみる、9升目36枚制の平安小将棋が発展した、持ち駒型
の同形小将棋が、皇族に距離的かつ対人関係上近い、公家には、

他に有力な将棋が何も無ければ、指される傾向が強かった

のではないかと考えられる。恐らく南北朝時代の北朝の公家、
洞院公賢の指した将棋も、単純に持駒有り型の9×9升目36
枚制平安小将棋だったろうと、私は想像するのである。
 しかし、新安沖沈没船出土将棋盤(?)が示唆するように、
9×9、12×12、15×15といった、易経の九星占いを
連想するような盤升目の将棋は、何れも継続して研究が進んだ
のであろう。その結果、結局の所

中将棋は発生してから100年程度で、駒数多数将棋の覇者と
なった

と考えられる。鎌倉市今小路西の木簡は、その試行錯誤に、鎌
倉市近郊のゲーマーの寄与が、比較的大きかった事を、あるい
は示唆しているのかもしれない。
 ひょっとして、花営三代記の足利義持が大御所の時代の
西暦1424年に、京都よりも早く、中将棋の少なくとも亜流
であると疑われる将棋の記載が、武家政権の記録に現われるの
は、それを示唆しているのかもしれない。なぜなら室町幕府は
京都だが、そこに、東国の武家の棋士の活躍が、記載されてい
るからである。
 そして、西暦1440年代になると、

相変わらず旦代の難点が、持ち駒ルールになっても残っていた
標準型平安小将棋(9×9升目、36枚制、持ち駒有り)に、
京都に於いても駆逐されずに、京都で中将棋を指す団体棋士集
団が、発生するまでに至った

のではないか。以上のような流れで、駒数多数将棋と後の、
日本将棋の親である、小将棋が並立する状態が、15世紀にな
ると、当時の首都であった日本の京都で、ほぼ定着したのだろ
うと、以上のように私は見ていると言う事である。(2018/11/11)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー