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今小路西福祉センター遺跡出土中将棋木札の、原寸はどの位か(長さん)

今の所、本ブログの解釈では、問題の、神奈川県鎌倉市の
今小路西福祉センター遺跡出土の中将棋関連の木札は、
今小路の将棋道場に於いて、いわば、中将棋順位決定戦の
大会規定を、張り出した札という事になっている。
 なお既に本ブログで述べたとおり、”今小路の御所”と
いう場所で、将棋の順位戦が行われている事は大日本史料
の、1221年7月13日の部分に記載されている。その
際、後鳥羽上皇の御前で指す将棋は、9升目36枚制標準
平安小将棋駒落ち型だが、”今小路の御所”で指す将棋が、
8升目32枚制原始平安小将棋で、今小路の順位戦では、
将棋のバージョンが、ゲーム性がその時点で最も良い、特
定の物に変えられていた疑いが、有り得るとここではした。
小将棋と木札記載の中将棋とで、ゲームの系統がそもそも
違うが、この木札の内容は、前記文献史料と、本当に場所
が同じかが今の所謎だが、驚くほど良く対応しているので
ある。
 そういう訳で、ここで指される中将棋が、遊びであって
も真剣勝負と考えられ、実際に対局する際に、合法手か、
非合法手かの境目の着手を、一方の棋士がしたときには、
ナアナアで済まされず、刃傷沙汰になる恐れまで有った事
を、示しているとみられる。だから、ゲームバージュンが、
将棋場に張り出されていただけでなく、バージョンの内容
自体が、ゲーム性能が良く、かつ問題が起こりにくい、獅
子に関する特別な規則等が無いものに、タイプを選択して
いた疑いがあるのだ。つまり、この木札を見る棋士には、
性格が荒っぽい武家が、多数含まれており、賭け試合まで、
今小路西御成小学校付近で、かつて行われていたのだろう。
 むろん、以上の仮説を証明するには、出土木札に、掲示
物としての、機能が有るという事が、確定するというのが、
一つの必要条件だ。それには、木札に書かれた文字は、
中将棋盤を置いて、指している棋士から、部屋の隅に置か
れたこの木札を見ても、かなり目立つ大きさの字だったと、
証明できなければならない。
 この史料は現物が紛失し、実は成書、”よみがえる中世
3 武士の都鎌倉”の221ページの下の図に、情報が有
るのみだ。しかも、たまたま縮尺が書いていない。今回は、
この木札の字が、将棋場の隅に置かれて、棋士から見える
程度に、木札に有る程度の大きさが有ったのかどうか、
木札の原寸の概略を論題とする。
 結論を先に書く。最小の大きさに推定したとして。

上下に繋がった、現状の状態で、横が10.5センチより
少し大きい程度、縦が15センチより少し大きい程度、字
は、12畳程度の部屋だと端から端までの距離程度になる
と見られる5メートル離れて、視力0.5の人間が何とか
読める、1.2センチ程度の大きさだった

とみられる。
 では、説明を以下に加える。
 この木札の写真に、実寸を推定する手がかりは、残念な
がら

ほとんど無い。

 なお現時点で、この成書以外に、この木札が撮影された
との情報も無い。手元に、鎌倉考古学研究所が昨年出した、
鎌倉市出土の墨書遺物に関する2000円の自費出版の某
書を、所持していると聞いている鎌倉市の職員の話から、
ざっと見た限り、

成書以外に、問題の木札が載っている書は見当たらない

と、私は聞いているからだ。従って今の所は何としても、
この成書だけから、木札の実際の寸法を割り出すしか無い。
 成書”よみがえる中世3 武士の都鎌倉”221ページ
下には、横約3.5センチ、縦約5センチで木札が載って
おり、文字の大きさは、だいたい4ミリ程度だ。

手がかりは、”志ろいぬ”の字付近に散らばる、3~4個
の白い点のような物体だけだ。この物体はポリエチレング
リコールの析出物のように、私には見える。

保存処理をしたときに、木札の細かい割れ目から噴出して
固まったのだろう。常識的に考えると、2~3ミリの大き
さの丸く潰れた塊になりそうな気が、私にはするが、小さ
めに

1.5ミリ程度だと推定

してみた。これが、成書に、画像で0.4~0.5ミリ程
度に写っている。だから、

成書の縮尺は、最大値で1/3倍と計算される。

ポリエチレングリコール析出物の実際の大きさが、もう少
し大きいと、縮尺は小さくなるが、1/6倍が最小だろう。
そうすると、この木札は、実寸最小の見積もりで、結論に
書いたように、

字が1.2センチ位の大きさになり、12畳の将棋場の
隅からでも、ひらがななら棋士は、何と書いてあるのか、
何とか判りそう

だ。ただし、10.5×15センチ角の木札自体は、ハガ
キに近い大きさであって、目立つと言うには、やや不足だ。
実際には、縮尺は1/4で、14センチ×20センチ位は、
ほしいかもしれない。
 なお鎌倉末期から南北朝時のここのゲームセンターの管
理人は、木札ではなくて紙に書いて、中将棋バージョンの
徹底を図った事も、有ったのかもしれない。しかし、紙で
はそのうち切れてしまうし、順位戦は、現在の日本将棋
のプロの順位戦といっしょで、1年単位といった、長期の
バッチで、行われていたのかもしれない。だから、耐久性
のある、木の札へ、紙から変えたと考えて、一応矛盾は無
いだろう。
 何れにしても、

ゴミのような、ポリエチレングリコールの析出物の像から
しか、木札の実際の大きさが、割り出せないとはつたない

話だ。誰か30年前の発掘成果発表会で、この木札を見た
事があり、現物のだいたいの大きさ位覚えている目撃者が、
いないのか。さらには”よみがえる中世3 武士の都鎌倉”
の該当部分の執筆者で、西暦1948年生まれの、現在、
70歳前後と見られる、上智大学元講師の河野真知郎氏が
存命で、木札の大きさを知らないのか。または、そもそも

この木札を持ち去った犯人に、返却してもらえないのか。

この中では、河野真知郎氏の記憶が、速効では最も期待で
きそうに、私には思える。
”よみがえる中世3 武士の都鎌倉”、文字のある生活の
執筆者の上智大学元講師の河野真知郎氏が元気なら良いが。

彼が他界したら、この木札は、そもそも出土しなかったの
と、同じになってしまった

と言う事に、くれぐれもならないように、願いたいものだ。
(2018/12/22)

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今小路西鎌倉市福祉センター中将棋木札。何故充て字用法不統一(長さん)

今となっては貴重な、紛失木札の写真が載っている成書、
”よみがえる中世3 武士の都鎌倉”平凡社(1989)
で、当時、上智大学講師だった、紹介執筆者の河野真知郎
氏によれば、この木札に象徴されるように、鎌倉市の遺跡
の墨書出土物は、”多くが、くずし字やあて字の用法が、
不統一”で、この木札については、”字の崩し方がひどく、
内容は良く判らない”との旨されている。後者については、
一部の、存在が推定される、”近”と、”行”、”上”と
見られる楷書で書かれた漢字を除いて、全部”ひらがな”
か、”変体かな書きのひらがな”であったというのが、
本ブログのこれまでの解釈だ。
 ちなみに”普通のひらがなの元漢字を崩すか、典型的な
変体ひらがなの元漢字を崩すのかは、江戸時代でも、同一
文書内で、統一されないのが普通”との情報が、”よくわ
かる くずし字 見分け方のポイント”山本明著、メイツ
出版(2017)に有る。
 では、

河野真知郎氏の認識が間違いかと言うと、そうではない。

 毛ひゃうの毛の崩し方が、毛は”も”の標準的な元漢字
なのだが、

この”も”は尋常な形ではなく、崩し字のやり方が判りに
くい

のである。つまり、ほぼこの一点だけが、河野真知郎氏の
言い分の根拠だろうというのが、本ブログの見方だ。そし
て、内容が黎明期の中将棋に関するものであったために、

意訳するという意味での解読は、駒数多数将棋の歴史や、
有る程度のゲームルールを知っていないとまず無理

だったとみられる。
 では、この”う-”にも見える、毛の崩し字の、やり方
の適切ではない、

”ひどい崩し方”は、何故起こったのか

を、今回の論題とする。
 最初に何時ものように、答えから書く。

猛豹は猛将の洒落で有る事を、字の表現からニジませる為

である。
 では、以下に説明する。
 一見すると、問題の木札の上段二列目は、”うし”にも
見える。しかし、”う”ではなく、第一字目は”も”だと
言うのが、本ブログの解釈だ。理由は、

(1)うに見える字の第2画目の”つ”の細長い部分が、
第1画目の”ゝ”と、通常の近世の”う”習字のようには、
繋がって居無い事。
(2)第2画目の”つ”の最初の鉤部分が、”う”の正し
い崩し方にしては、食い込みすぎている事。

以上である。しかし、ここを”も”と、本ブログでは読ん
だわけだが、崩し字の”も”は第2画目が”つ”の形では
なくて”8の字”にループして返って来るのが、普通のは
ずだ。
 そうなっていないのは、次に”|”を書こうとしたから
だと見られる。中途半端な”も”と棒との間には、一瞬の
筆の停止による、にじみのような跡も、少なくとも写真か
らは見える。”|”には、更に次の”ひ”との間に隙間が
あるが、読み手に

”しひ”と読ませようとしたというのが、本ブログの見方

だ。つまり詳細に見ると、不完全な字で”もしひゃう”と、
書いてあると見られる。ただし、不完全なので”毛ひゃう”
と表現しても、間違いでは無いと見る。

もしひゃう.gif

 なぜこのような、”しひゃう”で、豹を表そうとしたか
だが、これは中将棋の将棋駒では特別に、猛豹が猛将の洒
落だが、本当の旧仮名遣いが、”へう”であったため

と見る。
 つまり、”「もっしょう」と「もっひょう」の、言わば、
中間発音の駒が有る”と、書き手は言いたいので、
”しひゃう”なる、”豹”の読みを、後世の我々に提示し
たのであろう。これでは河野真知郎氏らが、困惑するのも、
無理が無い事だ。
 つまり、本ブログで前に指摘したように、麒麟が退避で
きないと、中将棋の性能が落ちる等のため、

鉄将は取り除いて、その位置に、本来なら鉄将の前の升目
に有った猛豹を、最下段に落とす、駒数92枚制中将棋を
指すようなゲームルールの改良を、この時までにはしたと
言う事を、”もしひゃう”の字の存在は恐らく示している

と言う事なのだろう。
 恐らく、くずし字の読みが堪能な、古文書の専門家なら、
この木札の字を、読み下す事は、既にできているのだろう。
 しかし、大坂電気通信大学の高見研究室で紹介している

摩訶大将棋を普通に指せる程度の、駒数多数将棋の愛好者
でなければ、この木札が何を言いたいのか、内容を理解す
る事は、まず困難

だ。
 よって、この木札は、遊戯史の専門の研究者が、皆再研
究できるように、

現在、現物を占有している者は、すぐに鎌倉市役所に現物
を返すべきだ

と、私は再度ここで発信する。(2018/12/21)

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南方熊楠の随筆”四神と12獣について”に36禽の説明あり(長さん)

南北朝時代の西暦1350年頃の往来、異制庭訓往来で、
虎関師錬が、将棋を一文で比較的詳しく説明している。
その中に”36禽の獣の列位を象り”とあり、小さい将棋
は9×9升目36枚制の標準型の平安小将棋のようである
と見るのが、今の所一般的だ。
 ただし、小将棋は、将駒が3種あり、獣駒だけで出来て
いる訳でもない。従来は、この点について、はっきりと解
明されていなかった。ところが最近私は、南方熊楠の、
表題の西暦1919年に、人類学雑誌に発表された随筆に、

36禽の説明があるのを見つけた。

 南方熊楠によると、36禽の記載は、中国伝来の仏教書
で、仏教宗派の天台宗が重視する経典、

”摩訶止観”に説明がある

という。

12支の子丑寅卯・・・を、12の動物ではなくて、3つ
対の36の動物に対応させたもの

と言う。たとえば、寅には虎と豹と狸、戌には狗、狼、豺
を対応させるとの事だ。この話から、今回は何が判るのか
を論題とする。結論から先ず書く。

西暦1350年の異性庭訓往来成立時に、”摩訶大将棋”
という名前の12支の動物名を、将棋駒種類に多数含む、
駒数多数将棋が存在していた事を示唆している

と見られる。
 では、以上の結論につき説明を加える。
 元々、お経の摩訶止観は、中国伝来の経典であるから、
異性庭訓往来著者の虎関師錬には、馴染みの文献だったと
みられる。ここで重要な事は、

36禽の獣の列位を象るのは小将棋であるが、その内容は、
摩訶大大将棋の摩訶を表題に含んだ、お経の摩訶止観に書
いてある内容だ

と言う事である。つまり次いで記載された大将棋は、
360の一年の月日の数に則るのであるから、”36禽の
獣の列位を象り”というフレーズを、コンピュータプログ
ラム言語で言う、マクロとみなして”摩訶止観の”という
文字列で置き換えると、
”摩訶止観の”+”多い360の一年月日の数に則る将棋”
という文字列が合成される。つまり異性庭訓往来の将棋は、

”摩訶大将棋”は、36禽の獣の列位を象った摩訶止観の
一年の月日の数に則る大将棋である

という、暗号文を含んでいるようにも見えるという意味だ。
 36禽は小将棋の説明でも有るが、摩訶大(大)将棋は、
19×19=361の囲碁升目の将棋であって、12支駒
が、ほぼ全部入っている。だから、

異性庭訓往来には、この時代に、今の摩訶大大将棋の特徴
である、12支駒を含んで、囲碁升目である将棋が、その
時代に存在している事を、淡くだが示唆

しているという事になるようなのである。
 36禽・・のは、確かに異制庭訓往来で小将棋の駒数を、
虎関師錬は表現しようとしたのだろうが。摩訶止観の、
36禽の説明をここに持って来ているのは、駒数多数将棋
が具体的には、摩訶という名前で始まる盤升目361升の
将棋である事を、短い異制庭訓往来フレーズの中に、落と
し込むための、ものだったようにも見えるのである。
 次回以降でこの点を、より詳しく確認したいと思う。
(2018/12/20)

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大日本史料の後鳥羽上皇時代の今小路。京都なのか鎌倉なのか(長さん)

前に述べたように、大日本史料の西暦1221年宣命暦7月
13日の所に、隠岐に流された後鳥羽上皇の所に、僧侶で、
小将棋棋士の清寂が訪れて、小将棋等の棋士としての自慢話
をするくだりがある。
 当時、有力な棋士が、”今小路殿の御所”で、少なくとも、
AクラスとBクラスの順位制を取っており、清寂はAとBと
の間位であると、自慢するという内容で、始まるものである。
ところで、本ブログでは、将棋駒遺物の出土状況から、この

今小路は、神奈川県鎌倉市の今小路西御成小学校遺跡付近の
”殿”を指すという論を、その後展開した。

ただし、鎌倉市の今小路という道路名が、史料に現われるの
は、江戸時代頃からと聞く。なお地名辞典の類には、
”吾妻鏡に今大路と書いてある”との旨を、指摘するものも
ある。
 他方、本ブログでもだいぶん前に書いたが、この”今小路”
には、もう一つ候補地がある。

京都市の元誓願寺通りの一帯で、堀川今出川の交差点付近

である。
 そこで今回は、この小将棋の専門集団が、鎌倉時代の初期
に存在した”今小路”とは、鎌倉市なのか、京都市なのかを
論題とする。
 回答を先に書き、後で説明を加える。

今の所、京都御所と、さほど離れていない京都市の元誓願寺
通りの一帯を指すと見るのが有力だが、考古学等の進展によ
っては、ひっくり返る可能性もある

と、本ブログでは見る。
 では以下に、説明する。
 後鳥羽上皇は天皇の時代に、京都に居たのだから、京都市
の堀川今出川付近が、清寂が西暦1221年に言った将棋場
に、ま違い無いと言うのが、現在の将棋史会では有力のよう
に、本ブログでは認識する。

が、この決め付けは甘い

と思う。なぜなら、
後鳥羽上皇は、隠岐に流される前だと思うが、しばしば病気
の治療のため、栃木県現鹿沼市の医師、中野智玄の所に行っ
ている事で知られているからである。よって

途中で、鎌倉に寄っていた事は明らか

だ。だから、神奈川県鎌倉市の今小路西にゲームセンターが
有って、そこの話を清寂がしていたとしても、後鳥羽上皇に、
話が見えないはずが無いと、私は思う。
 そもそも、鎌倉市今小路西御成小学校遺跡近傍では、将棋
駒も出土しているし、今回のように、近接する鎌倉市福祉セ
ンターからは、専門棋士に見せるための、ルールを書いた
木札らしいものさえも、出土している。
 ただし、

まだ、清寂が自慢していると見られる、8升目制の原始平安
小将棋の存在を示唆する、岩手県平泉町の中尊寺境内遺跡の
タイプの小将棋駒は、鎌倉市のここからは出土していない。

そこで御成小学校に近接する、鎌倉市市役所が改築する等が、
将来もしあるとすれば、そのときには、現在の栃木県小山市
の小山市役所前の発掘調査のごときの発掘調査が、鎌倉市で
も行われるだろう。だから今度は、

現状の鎌倉市の出土駒よりも、少し古いタイプの将棋駒等の
出土に、期待したい

ところだ。
 他方、京都市の方の今小路を意味する、元誓願寺通りのあ
る、堀川今出川交差点付近からは、遺物としての将棋駒は、
出土しては居無い。が、

北野天満宮という、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の元史料の
出所、曼殊院関連の支配神社と、京都御所との中間という、
いかにも、将棋と関連が有りそうな場所

にある。おまけに、栃木県の小山市を南北朝時代にも支配し
た、小山氏の当時の9代目の殿様、小山朝氏と関連のある
堀川関白の近衛経忠は、あだ名の通り、京都の堀川今小路近
傍にも屋敷が有った可能性が高いと、私は思う。なお何回か
紹介したが、栃木県小山市神鳥谷曲輪の、南北朝時代からの
遺跡から、摩訶大(大)将棋系の裏一文字金角行駒が出土し
ていて、間接的に京都市に関連するように、私には見える。

だから、遺物が出てないからと言っても、京都市の今小路が
小将棋棋士、清寂の言う今小路の将棋場で無いとは、言い切
れない。

 どちらも有力だが、今の所は今小路という道路名の史料が、
神奈川県鎌倉市の今小路につき鎌倉時代に無いという理由で、

仮に京都市に、軍配を挙げて置くしか無い

と、私は思う。しかし、鎌倉市の今小路西からは、繰り返す
が多くの遊戯類の史料が出土しているし、30年前に出土し、
本ブログでは最近、解読に成功した、

木札の内容は、来場した専門棋士に、周知徹底させるような
しろもの

である。だから今の所、岩手県平泉町中尊寺境内遺跡のよう
な、駒の大きさが、種類で余り変わらない将棋駒が、鎌倉市
の今小路西御成小学校付近から出土しないと言っても、

大日本史料の西暦1221年に記載の今小路が、鎌倉市の、
今小路の通り付近の施設を、指さないとは断言できない

のではないだろうか。逆に言うと、遊戯遺物がこれだけ鎌倉
市の今小路西御成小学校遺跡近傍から、出ているのであるか
ら。ほとんどもう2~3点、どれも同じ大きさの将棋駒が、
たとえば、鎌倉市市役所の改築工事の発掘調査で、将来出土
すると、鎌倉時代の西暦1221年記載の、今小路は、鎌倉
の今小路の事として矛盾が無い事に、なってしまう可能性が
高いような気がする。そうなると、

現行の”今小路”という地名の初出が、大幅に繰り上がる点

に、遊戯史以外の他の分野、例えば都市の史学家等も、注意
が必要だと言う事になるだろう。
 以上の点から見ても、神奈川県鎌倉市御成町出土の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋木札の内容は、
都市の歴史学等、他の分野にも影響を与える、重要な遺物で
あった事は、明らかだ。行方不明の問題の木札が、早く見つ
かってほしいものである。(2018/12/19)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札の年代推定は可能か(長さん)

現時点で表題の神奈川県鎌倉市御成町にある、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋のバージョンを
記載したとみられる木札は、中将棋の初出文献である遊学往来
の年代から、南北朝時代であると、本ブログでは仮定している。
 しかしながら、共出土物やその他の情報から、別の方法で、
年代が推定できるのが好ましい。今回は、それが出来る可能性
について、現時点の成書程度の情報を元に、推定してみる。
結論を先に書き、その後で説明を加える。

建武の新政の頃の物で無い事は確かだが、その前後、鎌倉中・
後期か南北朝時代かの特定は、関連する武家がどちらの時代に
も健在と見られるために、困難と思われる。

では、以下に説明を加える。
 今の所、私が知りえる限りで、成書等として簡単に入手でき
る文献で、最も有力な手がかりになるのは、成書

よみがえる中世(3) 武士の都鎌倉(平凡社・1989年)
の3武士の屋敷・庶民の住まいの”武家屋敷の構造”、
河野真知郎氏執筆の、終わりの方の”屋敷の変遷”

である。その他、その後出た単行本に、屋敷の持ち主の諸説が
述べられているものがある。
 元に戻すと、河野真知郎氏執筆の成書の”武家屋敷の構造”
での記載で大切な事は、今小路西鎌倉市福祉センターの直ぐ隣
の遺跡、今小路西御成小学校遺跡で”北武家屋敷”と、
河野真知郎氏が命名したらしい、大きな屋敷が、

貴族的な武家屋敷

であると言う点である。なお、御成小学校の敷地を発掘すると、
北西に北の武家屋敷、西に南の武家屋敷、南部に町屋が出現
すると、河野真知郎氏は前記成書の中で述べている。言うまで
もなく、駒数多数の将棋は、武家よりも貴族に好まれる傾向が
有るのは、少なくとも安土桃山時代の、水無瀬兼成の将棋馬日
記から明らかである。
 従って、確定的ではないが、この中将棋木札は、
鎌倉市福祉センターの北隣にある、鎌倉市市立御成小学校から
発掘された、2軒の武家屋敷のうち、北側の屋敷と何らかの
繋がりがあると考えるのが、かなり自然なように私には思える。
 そして重要な事がもう一つある。河野真知郎氏によれば、
この北側の屋敷は、建武の新政期の戦乱等による火災で、一旦
焼失した可能性が高いが、

持ち主により、南北朝時代に再建された疑いがある

と言うのだ。つまり、北条得宗家とは繋がりが無い武家豪族な
ので、中先代の乱以外の時期には、追放された一族、つまり得
宗北条氏とは関連が薄かったため、南北朝時代になり、鎌倉府
の政権が安定すると、疎開先から帰ってきて、建武の新政で焼
けてしまった自分の屋敷を、建て直す事のできる一族だったと
いう事である。該当する武家一族としては、たとえば千葉氏と
か、あるいは西暦1285年頃の霜月騒動で、鎌倉幕府から
既に追われていた、安達泰盛方に付いた一族の関係者か、そう
いった者の家だったという事になろう。
 だから、

この木札を、建武の新政の混乱期、西暦1333年~1340
年位の間には作れないが、西暦1305年~1333年または、
西暦1340年~1380年には、どちらの時期でも作れた

と、今の所するしかないと考えられる。ちなみに木札自体は、
北の武家屋敷のある、今小路御成小学校遺跡からは出ておらず、
南隣の福祉センターにあった、町屋ないしは、粘土の採掘現場
の跡からの続きのような所で、出ている。が、至近であるので、
この程度の距離なら、元々の持ち主の居場所から外れていても、
常識的に見て、矛盾する距離では無いように私には思える。
 以上の事から、普通唱導集が成立した西暦1300年前後か
らは、後なのであろうが。そこから南北朝時代の後期頃の、
西暦1380年までの間の、建武の新政の動乱期を除いて何時、
木札が使われたのかは、現地の出土の様子から割り出すのは、
今の所困難で有るように、私には感じられる。

現物も紛失してしまったため無く、手がかりが今の所余り無い
のは、とても残念

な事だと思う。(2018/12/18)

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中将棋はどうして、”中将棋”という名で残ったのか(長さん)

現在の定説では”日本の将棋には先に大将棋と小将棋が、西暦
1300年には有って、盤升目がその間なので、12×12升
目92枚制の将棋が中将棋に、南北朝時代になった”というも
のである。しかしながら、この定説は、南北朝時代に大将棋が
健在で有った事を前提としている点に、注意しなければならな
い。
 他方、本ブログでは、西暦1320年以降、大将棋、正確に
は普通唱導集で唄われた13×13升目108枚制普通唱導集
大将棋は、衰微し、

後継の後期大将棋は、西暦1400年以降の作である

としている。つまり、たとえば西暦1370年時点頃に、遊学
往来に、中将棋を”中将棋”と、絶対に書かなければならない
筋合いが、大将棋というゲームが、別に健在で存在するのかと
言う意味では

特に無い

と見ていると言う事である。にもかかわらず、遊学往来には、
将棋とは別に、大将棋と中将棋が、確かに書いてあるのである。
 では、これを本ブログ流では、どう説明するのか。
以上を今回の論題とする。
 最初に結論を書き、後で説明を加える。

13升目108枚制の本ブログで言う、普通唱導集大将棋以外
のゲームで、特に、(1)3段目中央に奔王、龍王、龍馬、
(2)2段目袖から、反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、(3)
2段目中央に太子成り酔象、(4)一段目中央から、玉将
(王将)、金将、銀将、銅将、鉄将、(5)袖列に最下段から
香車、反車と並ぶ、自陣4段組構成の将棋以外を”大将棋”と
呼ぶのが、南北朝時代には、当時の棋士仲間の常識が壁となり、
困難だったから

だと、ここでは見る。
 では、以下に説明を加える。
 本ブログによれば、13升目108枚制の普通唱導集大将棋
が、

西暦1370年頃の時点で、棋士の記憶には存在して、それか
ら改善されて中将棋ができつつあった

という事になっている。
 その当時の棋士の認識では、普通唱導集大将棋は、右翼3筋
の歩兵を高く上げてから、堅行を歩兵下の段に付け、嗔猪を2
段目から一歩づつ、右仲人の居る5段目に上げて、桂馬を2つ
前升目の左に、一手跳ばすという将棋ばかりが指されて、お決
まりすぎて、つまらないものと見なされていたというのが、
本ブログの、普通唱導集大将棋第二節の解釈からの結論である。
 そこで本ブログで言う、西暦1290年盤普通唱導集大将棋
が記憶として残っていても、改善がもしできれば、改善された
駒数多数将棋を、大将棋と、本来は呼び直しても、良い状態だっ
た、はずである。ところが結論で述べたとおり、棋士には、

大将棋は13升目68枚制平安大将棋の、実質的な拡張であり、
かつ、モンゴル帝国来襲に対応して、宗教的に、(1)3段目
中央に奔王、龍王、龍馬、(2)2段目袖から、反車、飛龍、
嗔猪、猛牛、猛虎、(3)2段目中央に太子成り酔象が、加わっ
た形しか、許されなかった。

なお、(4)一段目中央から、玉将(王将)、金将、銀将、銅
将、鉄将、(5)袖列に最下段から香車、反車と並ぶのは、
二中歴に書いてある平安大将棋の元もとの特徴点である、だか
ら本来なら、普通唱導集大将棋が西暦1320年程度の頃から
衰退した時点で、後継のたとえば12升目96枚制の中将棋は、
大将棋と読んでも良かったが、

当時の大将棋の定義に関する認識から、それが出来なかった

と、少なくとも本ブログでは考えるのである。
 そこで、中将棋を発明したゲームデザイナー、ないしはその
少し後に、初期の中将棋を熱心に指したゲーマーは、

普通唱導集大将棋、平安大将棋の升目数である、13升目から
新しく出来た中将棋は、一角落として12升目にしていたので、
大将棋と小将棋の中間との意味で、中将棋と呼び、守旧派の批
判を封じた

と考えられる。
 恐らく、猛虎を盲虎に変えたのも、中将棋が出来た後であり、
守旧派の”(2)2段目袖から反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、
という配列になって居無い、別の将棋に、伝統ある大将棋の駒
名が有るのはおかしい”と、いった類の追撃の批判を、初期に
はカワすためだったのであろう。
 今小路西鎌倉市福祉センター遺跡の、中将棋ルールを書いた
出土木札(現物は行方不明)に、盲虎ではなくて、猛虎という
熟語が存在するからこそ表現できる、”まうこ”が有るのも、
猛虎が盲虎になったのが西暦1300年頃の普通唱導集大将棋
の時代ではなくて、西暦1370年頃の、中将棋が成立しつつ
あった時代であるという、証拠だと考えられる。つまり、

今の中将棋指しと異なり、南北朝時代の中将棋指しにとっては、
盲虎は猛虎と、熟語で有名な方のカナで綴る方が普通に見えた

という事である。
 以上の事から、

実質的に、西暦1370年の遊学往来の頃、日本には大将棋が
滅んでしまったので無かった

と結論できるように思う。
 遊学往来に、大将棋と中将棋が続けて書いてあり、将棋が、
かなり離れて書いてあるのは、遊学往来の筆者自身が、大将棋
など指されて居無いのだから、中将棋を本来、大将棋と書いて
もおかしくないと、ひょっとしたら思っていたので、その気持
ちが現われているのでは無いだろうか。(2018/12/17)

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鶴岡八幡宮出土鳳凰、不成香車、歩兵駒。なぜ今小路に無かった(長さん)

何回か述べたが、神奈川県鎌倉市今小路西御成小学校、および
福祉センター遺跡付近は、大日本史料の1221年7月13日
の僧清寂の、後鳥羽上皇御前での小将棋自慢話に、今小路殿と
いう場所で将棋の専門家が、順位戦をしている旨の記載が有る
ため、鎌倉時代のやや遅れるが、少なくとも後期には、ゲーム
センターとして、著名だったのではないかと疑われる。
 御成小学校遺跡からは、実際、やや粗雑な文字の金将駒と、
文字が消えたと見られる駒が計2枚出土している。しかし、こ
の出土駒の総数は、鶴岡八幡宮境内遺跡の5枚に及ばない。ま
た、駒種も前者は、2枚の形の差から持駒ルール有りと見られ
る平安小将棋の駒と、比較的ありきたりであるが、
鶴岡八幡宮境内遺跡の駒は、南北朝時代頃の後期大将棋系の駒
のようであり、明らかに格が上である。
 普通に考えると、鶴岡八幡宮の境内で、後期大将棋系の将棋
が指され、たまたま出土したようにも見える。しかし、在来仏
教の時代、大将棋と小将棋は神社仏閣では賭博行為として禁止
されていたし、南北朝時代の遊学往来では、大将棋と中将棋は、
博打の道具と記載されている。そもそも、博打は今小路で盛ん
に行われているのに、なぜ表向きにせよ、禁止されているよう
な所に、わざわざ大将棋の道具を運んで指したのか、良く考え
てみると、若干だがおかしい点があるのではなかろうか。
 そこで今回は、鶴岡八幡宮境内遺跡から出土の、後期大将棋
系の駒が、たとえば今小路西鎌倉市福祉センター遺跡で、なぜ
出土しなかったのか、考えられる理由についてを論題とする。
 いつものように最初に答えを書いて、その後で解説する。
鎌倉市の鶴岡八幡宮には現在、鎌倉国宝館が有って、今小路西
御成小学校出土の、安達氏一族のメンバーを記載した木簡等が、
鎌倉市の指定文化財として保管されている。が鎌倉時代等にも、

鶴岡八幡宮は、少し前の時代の遺物を安全に保管するのに使用

されていたのではないかと、推定される。
 では、以下に説明を加える。
 前に、仏教の戒律に触れるため、将棋駒が魚型に変化しなか
ったとの論を、本ブログで述べた事があった。その際、生臭僧
侶が、寺院で将棋賭博をするために、寺院から将棋駒が出土す
るケースとは別に、棋士が故人となった後で、宗教施設に、将
棋具が奉納されるケースが、あるのではないかと論じた。
 他方、神奈川県鎌倉市の今小路西鎌倉市福祉センターから、
中将棋のバージョン指定の木札が出た事から、成りのルールが
完成していない”鶴岡八幡宮境内遺跡タイプ”の黎明期の中将
棋にも使える後期大将棋系の駒が、かなりの数、鎌倉市の何処
かにあった疑いが出てきた。

言うまでも無く、御成小学校遺跡や鎌倉市福祉センター遺跡の
付近は、鎌倉武家でも、かなり位の高い人物が出入りしていた

所である。よってそこで使われた、特に上流階級が使うと、ほ
ぼ特定できる、中将棋の駒等は、出入りしていた、実は鎌倉幕
府や次の時代の、南北朝時代の鎌倉府内の重要人物である、
ゲーマーが亡くなると、遺品として、保存が考えられたであろ
うという事を、一応想定する事はできるのではないか。

鶴岡八幡宮境内遺跡の出土駒は、鎌倉時代等には、今の
鎌倉国宝館に保管されている、文化財のような扱いの遺品

だった可能性が、実はあるような気がする。鶴岡八幡宮の下級
の神官が、後期大将棋系の将棋をわざわざこっそりと、
鶴岡八幡宮の境内内で、近くの高級武家が出入りする、今は
今小路通り西の御成小学校の建っている、ゲームセンターへは
行かずに指すというのも、不自然と言えば不自然だからだ。
 では鎌倉幕府等の要人である、今小路ゲームセンターのゲー
マーの遺品を、鶴岡八幡宮に、なぜわざわざ運んだかだが、

将棋駒等は、次の時代のゲーマーにも使われるので、そこに
置くと盗難の恐れがあったから

だとみられる。つまり、

今小路西御成小学校遺跡近傍で、遺物を保存管理させるのは、
昔も今も危険

という事なのかもしれない。
 そもそも、鎌倉幕府自体が、講談社、2011年出版の、
細川重男氏(東洋大学講師等)著”北条氏と鎌倉幕府”にあり、
彼のブログ”日本中世史を楽しむ♪”にも書いて有るとおり、

極道の巣のような所であったとしたら、法を守るかどうかは謎

であったのだろう。また特に蒙古来襲の後、カリスマ執権と
現代評される北条時宗が他界した後は、鎌倉幕府内には政治混
乱や、退廃がひどかったと、私は上記細川氏の、前記本等で読
んだ事がある。南北朝時代になると、更に混乱が起こったのも
明らかだ。
 そのため、将棋のうちでも価値の高い後期大将棋系の遺品が、
他界した幕府や府の高官の、記憶の品として後世に残るように、

黎明期中将棋が好きだった、他界した鎌倉幕府等高官の遺族は、
遺品を鎌倉鶴岡八幡宮の、当時の”国宝館”に当たる所に奉納

したのではないだろうか。しかし時代が変わり、その時代の国
宝館が、戦乱等で消滅したため、遺物の一部が地下に埋もれ、
たまたま水分の量が適切であったために、鎌倉市鶴岡八幡宮境
内遺跡の出土将棋駒として、現在我々は目にする事ができてい
るのかもしれない。
 最近紛失が発覚した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土
の中将棋木札も、鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒といっしょで、
重要な故人の記憶である。
 なぜならそれは、雄山閣出版が、だいぶん前の西暦1998
年に出した”考古学による日本歴史12 芸術・学芸とあそび”
で、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡を扱った、出土品研究者の
水野和雄氏が、”輸入された娯楽”の最後で結んでいる、

成書によれば近いはずの、”日本将棋の成立過程を解明する日”

を実際に迎えるための、最大の難所になった部分に関する

核心的な疑問、すなわち

鎌倉時代頃大将棋と中将棋はどこでどう、線で結んで繋がるか

に関する

決定打となる情報を含んでいる

からである。
 従って運良く、紛失した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
中将棋木札が、仮にまもなく見つかったなら、

安達氏の武士名を羅列した、御成小学校遺跡の西暦2016年
に鎌倉市指定遺跡となった木簡同様、鎌倉市の指定遺跡に昇格
させ、鎌倉国宝館に移したほうが、御成小学校近傍の施設に、
他の大量の有形文化財と、混ぜ合わせに置くより、ずっと安全
で適切な事は明らか

だ。
 だから鎌倉市は、この木札の管理場所も、

その重要性から見て、

行く行く鶴岡八幡宮に移して、保管を強化すべきではないかと
私は考える。それが文字通りの、”温故知新政策”であると、
このケースは、言えるのではなかろうか。(2018/12/16)

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今小路西鎌倉福祉センター遺跡木札。現物が有れば何が判ったか(長さん)

表題の神奈川県鎌倉市の鎌倉市役所に近い市役所膝元遺跡、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋に関する木札は、
残念な事に、現物が見当たらない状態と言う。ただし成書、
”よみがえる中世(3)武士の都鎌倉”に、幸い貴重な写真が、
かなり鮮明に掲載されていて、それが今の所、唯一残された
史料である。この写真に基づいて、本ブログはこれまで、問題
の木札につき、一応突っ込んで議論してきた。写真だけでも、
相当いろいろな事が言えたが、現物が見れれば、更に情報自体
が確実になるし、より詳しい事も、本来なら明らかになるはず
だった。
 そもそも研究者が、それぞれにこの史料を分析できれば、情
報量は、現物が有るのか無いのかで、相当差が出るはずだ。
一例では、化学的な分析が出来たり、裏面が見れたり、大きさ
が正確に計れたりできよう。本ブログでは、元々の情報は、恐
らくこれだけだろうと見る。が例えば裏面に、表面記載の中将
棋バージョンで指す期間が、具体的に書いてあったとしたら、
紛失したために判らないのは、我々にとっては致命的な打撃だ。
 しかし、想像で一般論を述べても、ピンと来にくいとの指摘
も出るかもしれないので、明らかに現物が有れば判ったと予想
される事柄で、今回は最も大きな、現物の有無の差につき論題
にしたい。最初に、いつものように答えから入る。

豹を示すと見られる、”ひ口▲”が、”ひゃ▲”なのか、
”ひょ▲”なのかが、現物が有ったとしたら確実に判定でき、
中将棋が92枚制に、この遺物が作成できる時点で、なる間近
だったかどうかを、正しく知る事ができた所だった

と考える。
 では、以下に説明をする。
 成書、”よみがえる中世(3)武士の都鎌倉”の221ペー
ジの写真から、上三列、下三列それぞれについて、

志ろいぬ 毛ひゃう まうこ波 (以上上三列)
近くへ行が 上わゆ けぬ   (以上下三列)

と今の所、本ブログでは読んでいるわけだが、

ひゃうの”う”、近くへの”近”は、磨耗で消失している

と本ブログでは見ている。また、以下が重要だが、

ひゃうの”ゃ”は、上端だけが、かろうじて残っているだけで、

実際には”ゃ”か”ょ”かは、微妙である。

やかよ.gif

現物が有れば、ちょうど中央付近の、切れ目に掛かった所の

この”ゃ”か”ょ”か判らない字が、完全に判定できた

所だっただろうと、私は見る。それが何故重要かと言うと、

”ょ”だったとしたら、単に音通りに書いただけ

だからである。つまり今の所、本ブログで見ているように”ゃ”
だったとしたときには、これを書いた、南北朝時代の今小路
ゲームセンターの管理人は、故意にか、当時の旧かなづかいと
我々が表現する日本語の理解が、足らないためかは不明だが、

”将”の字の旧かなづかいの”しやう”に合わせて、豹のかな
づかいを本来の”へう”ではなくて、誤った”ひゃう”にした

可能性が高い。しかしながら単純に、現代の我々の表記と同じ
になる音通りの”ひょう”にするのが目的だったとしたら、

”ひょう”では、将の旧かなづかい”しゃう”と結びつかない
ので、その時にはまだ中将棋が92枚制に、なって無いと確定

するからである。つまり、本ブログの管理人は、

南北朝時代の今小路ゲームセンターの管理人が、間違った旧日
本語を使っている所から見て、猛豹を猛将と関連付ける動機付
けが有ったのであり、この木簡が作成された時点で中将棋が、
92枚化していたか、あるいは、中将棋は96枚制から92枚
制に移行間近かだったかの何れか

ではないかと、現時点で疑っているのである。
 この判定は、現物が有れば、”ひ□▲”の

”□”が”ゃ”なら、写真からの印象どおり”+”と墨跡があ
るはずだし、
”□”が”ょ”なら、写真からの印象と違い”ト”と墨跡があ
るはず

と、判断が付くのだ。いまや現物が無いので、豹が”ひゃう”
なのか”ひょう”なのか、確定できなくなってしまった。現物
を誤って廃棄したか盗まれたか、今の所良く判らないようだが。
とにかく”何処かへ行ってしまって無い”とは。鎌倉市役所に
は、余り他では聞かない、遺跡の発掘成果発表会での、遺物の
取り扱いに関する相当な落ち度が、30年前には、少なくとも
あったようだ。(2018/12/15)

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今小路西鎌倉市福祉センター木札。猛豹が”まうへう”で無い訳(長さん)

中将棋史にとって最重要な、行く方不明の南北朝時代の木札、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の木札は、将棋史全体
にとっても、重要な遺物である。特に、しょっぱなに記載さ
れている、”志ろいぬ”が初期の中将棋に有る事は、この
木札が出るまでは、誰も予想も出来なかった事だとみられる。
ちなみに最近、日本将棋連盟の関西本部の対局室、水無瀬の
間に、将棋駒の狛犬駒の置物があり、将棋のプロ棋士、
藤井聡太七段(現在)と共に、撮影されているのが話題になっ
ている。
 関西地方は、中将棋が昭和の時代に、盛んであった事で著
名だが、たぶん、この置物を置いた方に、予知の超能力が有っ
たのであろう。それは、今の所ともかくとして。
 他方、大将棋にとっては、この木札に、猛豹を意味すると
見られる、本ブログの管理人の現在の認識では、

”毛ひゃう”と書いてある部分が、中将棋の前段の、
鎌倉時代後期の大将棋の内容を示唆する点で、最重要である。

 その後、次の崩し字の入門者用の成書等、幾つかの成書を
参照し、特に”毛ひゃう”との読みが正しいのかどうかを、
私なりに、できるだけチェックしてみた。特に参考になった、
崩し字入門者のための成書の一冊に、次のものがある。

よくわかる「くずし字」見分け方のポイント、齋藤均監修
メイツ出版(2017)

 するとそれ以前に、諸橋徹次著の漢和大辞典等から、

猛豹の豹は、旧かなづかいは、”ひやう”ではなくて、”へう”
である

事が判った。つまり、旧かなづかいで、この木札には、豹を
或る理由で、普通に”へう”と書かなかったか、

この部分の私の意訳が、間違っていたかの、どちらか

だという事が判った。なお、木札の猛豹の猛が、”まう”で
はなくて、”う”か”も”か”毛”かの、どれかで表現されて
いるらしい事は、前記の”「くずし字」見分け方のポイント”
等、くずし字関連の辞書等から、だんだん察しが着いてきた。
 そこで今回は、表題にも書いたが、木札に旧仮名遣いが使わ
れていないか、私が間違っていたのか、この問題の今小路西鎌
倉福祉センター遺跡出土木札の2列目の読みに、何か問題があ
るようなので、以上の事を論題とする。
 最初に結論を書き、後で説明を加える。

”毛ひゃう”は猛豹で間違いないと見られる。
”まうへう”と書かないのは、正式旧かなづかいを書くと、
なにを言っているのか、南北朝時代の、今小路西ゲームセンター
に来場しているゲーマーには、一見では意味がわからないため
敢えて避けたと、ここでは見る。

では、以上について説明する。
 豹がかな書きで、特に”ひよう”と、戦国時代頃から、注記
されるようになった事が、日本国語大辞典(小学館)から判っ
てきた。しかし、少なくとも平安時代末の頃までは、いつも
”へう”表記であったようだ。なお、先の大戦まで、正式な旧
かなづかいでは、豹は”へう”だ。
 しかし、江戸時代草創期の日ポルトガル語辞典等から、中世
の上流階級が、豹を”fioo”と、発音しているとの情報が
あった。だから、

口語表現としては、戦国時代よりももっと前の、南北朝時代の
下世話の木札に、”まうひゃう”とか”まうひょう”とか書い
てあっても、おかしくは無さそうだ。

他方、猛虎・盲虎の方は、この木札では、ただしく”まうこ”
と表現されている。なお蛇足だが、”まうこ”のまは、この
木札では、末の崩し字ではなくて、変体仮名が使われ、”万”
の崩し字になっている。”ま”と読みづらかったのは、その
ためと見られる。
 話を元に戻すと、

猛虎と違い、猛豹は熟語として存在しない。

この点が大切だとみられる。がその他、南北朝時代の人間には
豹自体が、当然だが日本には居無いので、なじみの薄い動物だ。
 そのため伝えられた動物名の通りに、豹を”ひょう”と発音
して、将棋駒名として、使っていたはずである。だから、知識
人しか知らない、”へう”を、今小路西ゲームセンター(当時)
の管理人は、表現としてはそれが正しいのだが、”feu”と
言っている人間が居無いため、使いたがらなかったのだろう。
つまり、

”猛”がナマじ頭に付いていたのが、表現方法として、問題だっ
たのだ。

 そもそも正式文書のかなづかいを真似て、かっこつけても、

”猛豹が有る”という内容自体が、相手に伝わらなかったら、
木札を作成した意味が、この場合は、ほぼ無い。

 そこで、将棋場で、猛豹を呼ぶときに、普通に発音している
ひらがなに、名前を変えたのではないか。その証拠に、猛も、
”まう”と書かずに、明らかに”も”とか、”う”とか”毛”
とかに読める、崩し字に直している。つまり多分、

”毛ひゃう”と、木札に書いてある

と私は思う。ちなみに、猛豹の豹と、鉄将の将とで、音が似て
いると、南北朝時代の将棋棋士に認識してもらえないと、少し
後に、

猛豹は言うならば、猛将であると解釈

されて鉄将の位置へ、猛豹が移動して、中将棋が96枚制から、
92枚制に変わったとか、悪狼が悪党の類似パターンの洒落と
か仮定できなくなるため、少なくとも本ブログの論にとっては、
問題が更に発生する。しかし実際には、

外来語をカタカナで書く感覚に、近い表現にたまたまなってい
たために、少なくとも標準的な旧仮名遣いから、ズレて、実際
に書かれているのではないだろうか。

 結論として、本ブログの読み方は間違って居無いと思う。そ
してむしろ、そのために、30年前から現在までの木簡解読者
は、この木札の正体を見破るためには、更なる困難に直面した
のだろう。
 他方私のような、将棋史には興味が有るが、崩し字の素人は、
ひょうが、”へう”ではなくて、”ひゃう”だったのには、む
しろ今の表現に、たまたま近かったため助けられた。そして
逆に当然の如く、崩し字解読の、基本の所で随分苦労した。
 よく読むと、この木札の最後の一字は、

無ではなくて、”ぬ”の変体仮名である可能性

が有りそうだ。
 つまり”奴”の崩し字ではなくて、”怒”の崩し字のために、
下の部分が見えていて、無だと、私は勘違いしただけという
意味である。
 その他の点では、何べん読み返しても、この木札は、以前に
本ブログで表明した読みと、特に解釈で、間違っているように
は、私には依然思えない。
 だからこの木札の現物が見当たらないというのは、本当に残
念な事だと思う。(2018/12/14)

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平家一族。”奢っていた”割には将棋の史料が無いのは何故か(長さん)

俗に、”奢る平家は久しからず”という文句がある。遊戯史に
興味がある者の立場からすると、この言葉から、平家一族関連
の遺物に、囲碁・将棋・盤双六・サイコロ等の遺物が期待でき
そうだと、にわかに活気付く。しかしながら実際には、平安時代
最末期の将棋史料に、平家に関係した物が有ると言う話を、少
なくとも本ブログの管理人は、聞いた事がない。ここではこの、
”かつての平安時代中期の藤原貴族に取って代わり、一時期
貴族的状態に有った”とされる平家一族関連に関して、将棋史
に関係する遺物や史料が、なぜ今の所、未発見とみられるのか
についてを、今回の論題とする。
 いつものように、回答を先に書き、後で説明を加える。
以下回答を書く。

平家は奢っていなかったと疑われる。

では、以下に説明を加える。
 平家は京都を勢力圏とした状態で、平治の乱で事実上の国の
制圧に成功したとみられる。平清盛やその一族の日記が、見当
たらないが、恐らく彼らに、京都で政権を奪取した時代に、日
記等を書く能力や、余裕が無かったのではなくて、壇ノ浦等の
海に沈んでしまい、残って居無いだけであろう。
 京都の内大裏を、平清盛軍は制圧して、後白河上皇を事実上
屈服させていたと見られるため、平家政権が、京都であった時
代の遺物は、有っても、彼らの物とは判別できないとみられる。
 従って彼らが遊戯をしたとの跡は、福原遷都の後、そこでの
遊戯の跡が、遺物として残っているかどうかであろう。が、

今の所臨時の都、福原から、将棋駒等が出土しているという
話は聞かない。

なお、この時代の史料としては、西暦1183年に、京都で、
”暲子内親王が、将碁を指していた”と、権春門院中納言日記
または、健寿御前日記で、藤原俊成の娘が、記載している例や、
西暦1185年に、同じく京都の神護寺で、僧文覚起請文が
書かれ、”囲碁・双六・将基・蹴鞠を禁止する”という記載が
された例がある。
 しかし、二中歴成立の時代に近いのに、我々にとっては残念
な事に、

平家が制圧していた地域で、その重臣等によって、将棋が指さ
れていたとか、そういった類の、”平家時代の将棋史料”で、
明確なものは、今の所無いとみられる。

 平家物語絵巻を見ても、平清盛が水浴びをしているような絵
は見るが、彼の居所に、双六盤・囲碁盤・将棋盤が有るような、
家具・道楽品が、部屋の隅にあるような中に、一族が住んでい
るように描いた絵は、少なくとも私は見かけない。少なくとも
一般成書の範囲で探して見つかるのは、厳島神社に平家が奉納
した、王朝時代の絵を描いた物品位ではないかと思う。これは、
ひょっとして、

”平家が奢っている”という証拠が、文学作品に書かれている
等程度で、客観的には乏しい事を、意味してはいないだろうか。

なお、少し後だが、藤原定家が西暦1203年に明月記で、朝
廷の間に、複数の貴族や皇族が遊戯する目的で、囲碁盤・双六
盤・将棋盤が並んでいたと、公家の暮らしの様子の一種を、
明確に記載している。
 つまり、平家政権時代には、戦乱が続いていて、側近の武者
は、合戦に出動するケースが多く、実際には平家一族には、

暇で贅沢三昧をしており、将棋も指していたという事が、遺物
が出るほどには無かった

という事なのではないか。
 将棋史の目だけで、平清盛一族の日常を、判断するのは危険
だろうが。

”奢っていたとしたら、その時代には、どの程度の遊戯品の遺
物、史料が、本来なら残るはずだという調査”からも平安末期
史のヒントの一つが、得られると言う点だけは確か

なのではないかと、私は疑うのである。(2018/12/13)

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