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歩兵の歩の少の部分の、3画目が外側にある書体の正体は何か(長さん)

前に将棋出土駒の歩兵の、歩の字の少の部分の、第3画目が有る
のは、平安時代には今と同じになった、新書体であるとの話を、
諸橋徹次の大漢和辞典を参照して、本ブログで論じた事があった。
 出土駒は概してカスレていて、はっきりしないものが多いが、
その他の書体としては、表題のように、歩の第3画目が、右に
大きくはみ出した書体もあり、今は見かけないため、比較的目立っ
ている。
 成書に良く出てくる例では、興福寺出土木板の、五角形で囲わ
れて居無い面の方の歩兵の字の歩がある。その他、天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒には、大宰府より出土した、桂馬・香車・歩兵
木簡の歩兵の歩の字とか、岩手県平泉町の、柳之御所遺跡の歩兵
の歩の字とか、全国に散らばって、少の部分の第3画が右に出た
歩兵駒が出土している。書名を忘れてしまったが、

増川宏一氏が彼の成書で、この、今とは違う歩の書体を問題提起
された事があった

と記憶する。彼の見解ははっきりとは、書いていなかったと思う。
 そこで今回は、この歩の変形書体に見える、出土駒独特の字が、
何なのかを論題にする。
 答えを最初に書くと、
成書、”文字と古代日本5 文字表現の獲得”吉川弘文館
2006年、平川南他編書、深津行徳(執筆)によると、

6世紀前後に成立の、”正倉院蔵の新羅村落文書”の中の歩の字
と、字体がほぼいっしょの、古代正式文書の楷書の歩の字

であるとの事である。
 紹介した新羅村落文書の内容からみて、荘園の荘官等が、記録
文書に使う、長さや面積の単位に出てくる歩の字を、歩兵駒の字
書き師が見て、写したと考えられる。よって、

古代末期の、地方役人にも将棋を指す者がおり、そうした階層と
係わりのある駒師が、各地の将棋場に居て、字体を真似た

と考えられる。
 では以上につき、多少補足説明する。
 まずこの書体は、日本でも平安時代10世紀頃には、新撰字鏡
の”少”の部分の有る漢字に出てくる等、歩の字の表現としても

公式文書に使われる、歩の形の一種

だったようだ。だから、将棋駒だけに使われる、独特の歩の字で
は無いようである。この書体は、冒頭で述べたように、古代末期
の遺跡よりの出土将棋駒の歩兵で、幾らか見かける書体であるが、

時代が下っても幾分か使われ、例えば一乗谷朝倉氏遺跡の歩兵駒
にも、このタイプが2~3枚出土

している。従って古代から有る書体なので、たまたま、この歩の
書体を知っている将棋駒の駒師が、全国アトランダムに居て、
部分的に、この書体で歩兵の字を書いたという、ほぼそれだけの
事のように、少なくとも私には見える。
 ただし、個別の駒師の情報源は、近くの荘園の年貢記録の文書
とか、そのような類なのであろう。だから、既に11世紀には、

興福寺のような寺院や、大宰府のような武者の詰め所だけでなく
て、地方の荘官クラスの居る城館の、将棋場でも将棋が指された

事を、間接的に示しているのかもしれない。
 何れにしても問題の”歩”は、妙な書体ではなくて、朝鮮半島
では、チャトランガがインドで成立した頃の古代から、正式文書
に使われた、計量単位の”歩”の字等が起源の、その模倣と見ら
れる、字の形のようである。(2018/12/05)

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